• ベストアンサー

会津美里、只見線

只見線、おそらくダムによる水力電力開発を目的として敷設されたと思うのですが、目的地は西にあるのにいきなり南下して会津美里に入り北上して会津坂下に行きその後川沿いに西の山に分け入ってます。 会津美里に無理やりいくために迂回してるように思いますが、当時の会津美里に何があったのでしょうか? 大物政治家の出身地なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1057/1649)
回答No.1

全線が最初からダム建設を目的に敷設されたわけではありません。 会津若松から会津美里町を経由して会津坂下に至る路線は、地方小路線の拡充を目的とする軽便鉄道法にもとづいて計画され、大正15年(1926)10月15日に会津線として開業したものです。 Wiki 只見線 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AA%E8%A6%8B%E7%B7%9A 今昔マップというサイトで会津の鉄道開業前の明治43年測量大正6年発行の地図と現在の地図を見比べることができます。これを見ると、現在の会津見里町の本郷(会津本郷焼の産地)や高田(会津総鎮守の伊佐須美神社がある)は、鉄道開業以前からそれなりの規模の町として栄えており、本郷・高田を会津坂下および会津若松と結ぶ意図で路線が敷かれていることがわかります。 https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=37.496227&lng=139.918034&zoom=15&dataset=aizu&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 焼き物と門前町として栄えていたのですね。 参拝客もいたのかな?

関連するQ&A