• 締切済み

花はなぜ綺麗なのか

概して、人間の感覚器官は、自らの生命を維持するために必要なものを「よい」と判断するようになっています。だから、食べ物を見て美味しそうと感じたり、マッサージを受けて気持ちいいと感じたりすることは、「人間が自分の生命を維持するために必要だから」という理由で納得できます。 さて、ふと目に入った花をみて「なんて綺麗なのだろう」と思ったことは誰しも経験することですが、その理由がわかりません。 何にでも意味や理由を求める態度は野暮だとは思いますが、敢えて聞いてみます。みなさんはどう思いますか、教えて下さい。

みんなの回答

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.29

frauです。 たまたまこんなのみつけました。 映画「旅情」よりキャサリン・ヘップバーンとロッサノ・ブラッツィの会話から。 -・・・私には理解できないわ -何故理解しなければならない?人生で美しい事柄は、  われわれにはたいてい理解できないものだ でも・・・やはり理解したいし、知りたい!そこに「考える葦」としての我々の好奇心、衝動、野心があると思います。

bofd
質問者

お礼

同感です。 「美しいのもの」はずるい、引き付けるだけ引き付けて、中身は見せてくれない。悪い女のようです。どうやら、下手な欲など出さず、ぼーっと眺めている方が、裸をみせてくれるようです。 失礼しました。 いつの時代も考えることは同じですね。

  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.28

no.24のsowowです。 コンバンワ。 >1)虫を見て「美しい」と思ったときの眼差しの中に「虫とはこういうもの」という配慮があり、実際に見た虫が、その配慮と違っていたために、それを「美しい」と感じる。 なるほど!配慮ですか!そうですね。 そうなると思います。 こっちが教えられてドースルのか・・・ でもクヤシイので反論します。(だいぶ思いつきですが・・) bofd様も、十分おわかりとは思いますが・・ やはり「美しい」という感覚はそうとう曖昧かつ「個人のもの」であり、共通性を見つけるのは難しいんじゃないでしょうか? 人間は、まずなんらかの「配慮」がなければ美しいと感じることはモチロン、考えることも、「見る」ということすら出来ないとおもいます。 「配慮」のない感覚なんてのは存在せず、本人が気が付いていないだけです。いろんな心的レベルで。 ぼくの「意外性」に美を感じるケースだと、 虫を見てポーッとなってるときは、何故なのか?なんて考えてません。「全く」気付いてません。あとから考えて分析します。 そのときぼくは明らかに「直接の理由」で美しいとおもっています。そう言い張ります。 本人が言い張るんだからしょうがないでしょう? このテの謎には、「一つの答えなどない」というのが、唯一の答えってことにしてます。 ある人が「美しい」と言ったなら、その本人がもってる理由が常に正しい。 回答者様たちみんなある意味正しい。 んで、唯一の答えを求めることだけが間違い。 ではないでしょうか?

bofd
質問者

補足

>やはり「美しい」という感覚はそうとう曖昧かつ「個人のもの」であり、共通性を見つけるのは難しいんじゃないでしょうか? 例として、過去の回答から共通性のあるものを挙げます。 私は、小さく輝いている花に「可憐な少女」を感じますが、これらはNo.11HPLCさんの「女性が化粧をしたり着飾ったりして得る美しさ」や、No.18のapi-apiさんの「恋する若い時代」と、「若さ」という点である程度共通性があると思います。 >そのときぼくは明らかに「直接の理由」で美しいとおもっています。 正解です。否定の余地はありません。なぜなら、これは「何も言っていない」のと同じだからです。だからこそ逆に、真を得ています。言葉というのは、方向を指し示すぐらいのことしかできません。その内容は実際に感じ取るしかなく、言葉からは漏れ出てしまいます。おそらく、そのことがお分かりで、このように答えたのだと思います。sowowさんは深い洞察力をお持ちですね。 >このテの謎には、「一つの答えなどない」というのが、唯一の答えってことにしてます。 ある人が「美しい」と言ったなら、その本人がもってる理由が常に正しい。 みなさんの回答を見ていて、私なりの「正しい」解答を得ました(あくまでも仮説ですが)。この疑問の答えは、一つであり、複数であると思います。 まず、「一つ」の方、これは本能的な理由です。 人は明るさのコントラストに強い印象を受けます。これは「太陽」や「炎」が人間にとって、重要なものなので、それを認識するためにみにつけた(おそらく原始的な)能力です。「炎」は人間にとって、「有益」であると同時に「危険」なエネルギーです。ここに「快ー不快」の優劣があります。「煮る、焼く、蒸す、火にあたって温まる」など、人間が「炎」を普段の生活で扱う場合、「炎」はある程度の大きさになるように保たれます。たいてい、人の大きさより小さいと思います。こうして人によって制御された「炎」は「有益」なので人は「快」の感情を抱きます。つまり、その制御された「炎」の「大きさ」と「形」に「快」の感情を抱きます。制御された炎・・・くべられた小さな木々に燃える「炎」、たいまつに燃える「炎」、下から上へ伸びる小さな炎があつまった形は花と似ているような気がします。ゆえに、花が美しいのは、まず「明るさのコントラスト」によって人に強い印象を与え、そして、人より小さい「大きさ」をもち、その「形」が「制御された炎」と似ているため「快」の感情を得るから。 もう片方の「複数」は、後天的な理由です。 経験として得た「美しいもの」との類似性から、花を「美しい」と感じる。ゆえに、経験に応じて様々な場合がある。たとえば、私は小さく輝いている花に「可憐な少女」を感じます。花は「光のコントラスト」で目を引き付けます、少女は私の「好意」によって目を引き付けます。そして、二つとも「弱さ」を感じさせる小ささをもつ。その類似性から、少女の美しさを花に見る。「可憐な少女」の美しさは、ある程度成長してから経験して得られるものなので、後天的なものです。 子どもの見る花には、原始の炎が映っているかもしれません。(どうせ、気づいてないんだろうな)。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • blueseman
  • ベストアンサー率35% (61/170)
回答No.27

すみません、ずぶの素人の不埒な回答に長々とご教示いただき汗顔の至りです。ありがとうございました。 ただ一点だけ判らない部分がありました。それは「感覚器官が間違って「よい」と判断する」と言う言葉です。 私は哲学を勉強した訳ではなく、ましてや現象学や認知心理学と言うのは初めて聞く学問で、その中での語彙の用いられ方には全く無知です。少なくとも私が習った「医学生理学」という学問の中では、感覚器官とは外界から情報を取り入れる末梢神経組織その物を指し、それにより情報を統合、判断する中枢神経系は含まれていません。 従って、目(視覚)、鼻(嗅覚)、耳(聴覚、平衡覚)、舌(味覚)、皮膚・粘膜知覚(触覚、痛覚)等が間違った判断を下すと言う事になるのですが、これはありえません。というのは本来これらの器官は自主的に判断を下せないからです。とすると質問者さんがご説明された事はこれらの感覚器から取り入れられた情報が投射される中枢神経系(大脳)の領域の活動の問題となります。確かにアルコールやある種の向精神薬物、大麻、LSD等の麻薬は中枢神経系に強烈に作用し、幻覚、幻聴、幻視、幻想等が現れると説明されています。 しかしながら困った事に人間は快さを感じる時に、エンケファリンやエンドルフィンと言った脳内モルヒネ物質を分泌し、それにより心地よいと言う状態を認識している訳です。端的に言えば、心地よさというのは自分自身のモルヒネによる中毒状態を作り出してる訳です。従ってランナーズハイの人はそれを求めて走りますし、長距離レースや登山の達成感、本を読んだり、映画を見たり、音楽での感動、等すべからくそのモルヒネを求める中毒行動です。当然自身のモルヒネと体外からのものによる中毒は違うと言うご意見はあるでしょうが、生理化学的には同じ物で、ほとんどの宗教は修行や、題目により、体外からの摂取を行わずに、常軌を逸したトランス状態に入ってしまいます。 であるならば、人間が快を覚えている時はすべからく、モルヒネ様物質が「「感覚器官」そのものに影響を与え、その働き方を変えてしまいます。ゆえに、それらの影響を受けているときは「自然な態度」からは外れています。だから、「感覚器官」の働きとしては例外とみなしてよいと思います。」となって、人間が快感を覚えるときはすべて例外となって、この命題自体に矛盾が生じるのではないかと思った次第です。 普通の人間にとって、エベレストに登ったり、42,195キロメートルを走ったりして喜びや快感を感じる事は無理ですので、どうしても安易にアルコールや、人によれば大麻等を使い、快を手に入れようとするのではないでしょうか? 何だか話が大げさ過ぎて来て、本題からずれまくって申し訳ありません。しかしながら麻薬は抜きにしても一般成人男性にとって酒、タバコというのはごくごく日常的に心地よさを感じ取れる嗜好品であり、「自然な態度」からは外れていますと言うのには、ちょっと無理がある様に思え、またまた具にも付かぬ考えを述べさせてもらいました。 お気を悪くされないで下さい。最近脳味噌を使ってなかった物で、今回すごく考えさせられました。質問者さんのご指摘をお読みして、「共通性を読み取ることはできるかもしれません。同じ人間なのだから」と言う言葉に感動しました。有難うございました。

bofd
質問者

お礼

>すみません、ずぶの素人の不埒な回答に長々とご教示いただき汗顔の至りです。 とんでもないです。自分も哲学を専門に学んだわけではありませんし、ましてや「医学生理学」などふれたこともないので、「感覚器官」の語法を間違ってしまいました。幸い、bluesemanさんの配慮で、私の意図は汲み取ってもらえたようで、安心しています。bluesemanさんの配慮に感謝します。 さて、bluesemanさんのご指摘ですが、 命題に矛盾が起きてしまっている原因は、「心地よさというのは自分自身のモルヒネによる中毒状態」としていることです。「中毒」というのは、「物質の毒性により機能障害を起こすこと」(goo国語辞典より)です。 たとえ、「エベレストに登ったり、42,195キロメートルを走ったりして」も、脳の中枢神経系の働きを害するほど、脳内麻薬物質は分泌されていないと思います。 それでは、酒やタバコはどうか。それらを摂取し続けると、大抵の人は、体に悪影響があるほど摂取しているのに、やめられなくなります。「やめられない」理由は、中枢神経に機能障害を起こしているからです。これが「中毒」ですね。 この二つを混同してしまったので、矛盾が生じたのだと思います。酒やタバコは文化的に認められていますが、体にとってはそれほど安全なものではありません(タバコはマリファナより人体に悪影響があると言われています。)。ほどほどにお気をつけ下さい。 これに加えて補足すると、 普通、人が快感を得るとき、外からの刺激を中枢神経が「快感を受けるべきもの」と判断し、脳内麻薬が分泌され、快感が与えられます。 一方、中毒性の薬物は、それ自身が含む麻薬物質が直に脳へ送られ「快感」が与えられます。 つまり、中枢神経を経由しません。ということは、中枢神経が「快感を受けるべきもの」かどうかの判断を行っていないのです。 判断をしていないのに、それを「間違っている」ということはできません。 以上の理由で、納得されると思います。 参考になりました。新たなご指摘に感謝します。

bofd
質問者

補足

(下の補足は一部の麻薬性物質について言えることで、すべての中毒性のある薬物にあてはまるものではないと思われます。)

  • blueseman
  • ベストアンサー率35% (61/170)
回答No.26

私も前の方の様に、まずこの質問の前提が間違っている(と言うか普遍的ではない)と思います。 「人間の感覚器官が「よい」と判断し」て悪い事は山ほどあります。たばこ、酒、シンナー、覚醒剤、性病の女性との性交、ギャンブル、窃盗、覗き、痴漢、遊びすぎ、夜更かし、、、。数え上げればきりがありません。ここでまた良いとは何か?悪いとは何か?という議論になるのでしょうが、私には判りません。 「「なんて綺麗なのだろう」と誰しも経験」するとはきまってないと思います。僕の感覚では綺麗な花もあれば、そうでない花もあります。杉の花なんて大嫌いです。スギ花粉症患者にとっては最悪です。じゃ、そのあなたの美しいと感じる場合の根拠は何なのか?と問われてもわかりません。 友人と話していて、女性の話で「誰それが綺麗」と言う話題になると、結局意見の一致を見ず(えー、何であんなブスを好きなの?信じられない)と思い、つくづく美しさの基準なんてこの世に存在しない、と痛感します。 種の保存の為に性交に快感が伴うのだとは思いますが、少なくとも人間以外の動物や鳥、魚、虫、植物、にはそれはないでしょうし、単なる本能だと思います。それは遺伝子レベルの問題なのかもしれませんが、科学が発達しても恐らく解明されないと思います。 ある種の統合失調症や人格障害の方々はどの様な社会でも、ある一定の割合で存在します。この様な方々に、通常の概念は通用しません。ある種の方々は、人を殺す事が悪いと思ってらっしゃらないのです。自分が快であれば、本当に他人の命などはどうでもいいと思ってあるみたいです。それを自分の身に置き換えると言う思考実験能力が生来欠如されてらっしゃいます。劣悪遺伝子(問題発言で削除対象でしょうが)は淘汰されるのであれば、彼らの遺伝子はとうの昔になくなっている筈ですが、なくなりません。 結局幅のありすぎる質問と設定で、恐らく答えはない、と言うか100人100様であると思います。 哲学のカテでこんな事書くのは申し訳ないですが、「美とはなんぞや」とか「生とはなんぞや」とか「人間は何のために生きる」等と言う質問にどういう意味があるのか良く判りません。他の動物と違って本能だけで生きて行けなくなった人間が、自分の存在の不確実さに何らかの答え・意味がないと、不安でしょうがないから、こういう学問が未だに存在しているのだと理解しています。 せっかく哲学をまじめに勉強している方々に不遜な発言、失礼な考えを書き込んでしまい申し訳ありません。反省しております。ただ、こういう馬鹿な事を思っている人間も居る事をご理解下さい。

bofd
質問者

お礼

>「なんて綺麗なのだろう」と誰しも経験するとはきまってないと思います。僕の感覚では綺麗な花もあれば、そうでない花もあります。 確かにそうですね、「感じた限りにおいて」と考えてください。 >種の保存の為に性交に快感が伴うのだとは思いますが、少なくとも人間以外の動物や鳥、魚、虫、植物、にはそれはないでしょうし、単なる本能だと思います。それは遺伝子レベルの問題なのかもしれませんが、科学が発達しても恐らく解明されないと思います。 おそらく、科学は種に多様性がもたらされるようになったのは「偶然」と説明すると思います。 >幅のありすぎる質問と設定 現象学や、認知心理学をかじるとわかりますが、人間が、価値のないもの、わからないものを、ありありと感じること自体が稀なことだと思います。花を見て「綺麗だ」と思うことは、回答者多くの方々が感じているように、ある程度の普遍性(語意が矛盾していますね)→共通性を得られると思います。ただ、その理由については、仰られるように十人十色だと思います。しかし、その中に共通性を読み取ることはできるかもしれません。同じ人間なのだから。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

(長くなったので、分けて書きます。) >人間の感覚器官が「よい」と判断し」て悪い事は山ほどあります。たばこ、酒、シンナー、覚醒剤、性病の女性との性交、ギャンブル、窃盗、覗き、痴漢、遊びすぎ、夜更かし、、、。数え上げればきりがありません。 このことは、私も意識していました。だから、はじめに「概して」と置いたのです。 bluesemanさんが挙げられた「人間の感覚器官が「よい」と判断し」て悪い事」をもう少し詳しくみてみると。 たばこ、酒、シンナー、覚醒剤(中毒性のあるもの)は、たいがい、「感覚器官」そのものに影響を与え、その働き方を変えてしまいます。ゆえに、それらの影響を受けているときは「自然な態度」からは外れています。だから、「感覚器官」の働きとしては例外とみなしてよいと思います。 ギャンブル、窃盗、覗き、痴漢は、「感覚器官」が「よい」と感じ、「社会」がそれを悪いとする例ですから、必ずしも「感覚器官」の働きを否定するものではないと思います。 性病の女性との性交は、プラスの要素「種の保存のための性交」と、マイナスの要素「女性が性病であること」、のマイナスの方を「感覚器官」が感じ取れないから起こることで、この場合「感覚器官」は「よい」ということは感じとっているので、「感覚器官」が間違って「よい」と感じた理由にはならないと思います。 遊びすぎ、夜更かしは、何か心的、神経的疾患がないかぎり、「本能」(感覚器官が感じる「よい」)を上回る価値(欲望)を見出しているときだけに起きることで、これも、、「感覚器官」が間違って「よい」と感じた理由にはならないと思います。 以上の理由で、挙げられたものは(心的、神経的疾患も含めて)例外、あるいは感覚器官が間違って「よい」と感じる理由にはならないと思います。ただ、挙げられていませんが、「錯覚」は感覚器官が間違って「よい」と感じる理由になると思います。

  • musie
  • ベストアンサー率30% (25/81)
回答No.25

誰しも花が綺麗だと思うという 前提は成立していますか? ぼくは綺麗だと思いませんが・・・・。 別に荒らしではありませんので。 花が綺麗だと思う理由なんて、ぼくには 難しすぎてわかりません。 小さいころから、大人がそういう風に 植え付けるからじゃないですか? 「ほら~、お花よ~、綺麗ですね~」って。 先天的、本能的な感覚ではない気はするんですが。 哲学の臭いのしない回答、すいません・・・・

bofd
質問者

お礼

面白いですね、そういう人がいるとは思わなかったので、つい書いてしまいました。 musieさんが花を綺麗だと思わないのならば、特別の原因がないかぎり、先天的、本能的な感覚ではないのかもしません。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.24

花を見て「美しい(ウットリ・・)」と思ったことはほとんど記憶にないので、花じゃなくてもいいですか? (ぼくには、とくに虫が美しい(ウットリ・・)です。) 仰るように全てのことを「生命の維持のため」とか「刷り込み心理」だとかいう説明は野暮であると同時に間違ってると思います。 でも、あえていうなら「意外性」でしょうか? 脳が処理し切れずに、意味や理由を知りたい!と思わされてしまうような存在は、たいてい美しいですよねー。

bofd
質問者

お礼

>あえていうなら「意外性」でしょうか? おそらく、sowowさんが仰りたいことは下のどちらかだと思います、 1)虫を見て「美しい」と思ったときの眼差しの中に「虫とはこういうもの」という配慮があり、実際に見た虫が、その配慮と違っていたために、それを「美しい」と感じる。 2)視覚的な意外性=「コントラスト」が「美しい」と感じさせる。 どちらだったにせよ、「なぜ美しいのか」を説明するための直接の理由にはならないと思います。 なぜなら、「配慮から逸脱しているから(コントラストがあるから)、グロテスクだ」というのもありえるからです。「美しさ」を説明するためには、なぜ「グロテスク」ではなく「美しい」と感じたのか、その理由が必要だと思います。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • HPLC
  • ベストアンサー率22% (280/1224)
回答No.23

またきてしまいました。 なんとなく感じた事を書いてみたのですが... 正直書いていて、なんか良くわかりません。 変だったら無視してください(笑)。 美しいものや風景を見ると、リラックスしたり、ストレスが減ったり、心が洗われたりすると言うことは、平安が得られたということですかね。 究極の平安は神によってもたらされるのでしょうか。 美しいものや風景、花等を見ることによって心が動かされたとき、神に触れたようだったり、神を垣間見たようだったり、あるいはもしかしたらなにか大事な忘れているものを思い出そうとしている事もあるのかな? 美しいと感じるのは神を知るチャンスというかヒントとうか.....なんかそんな感じのものなのでしょうか? そんな感覚が、人間には与えられているのかな。 すいません頭悪くてうまくかけません(笑)。

bofd
質問者

お礼

太古の昔から、多くの人々が「美しいもの」「きれいなもの」「雄大なもの」などに、神性を感じ、「神の顕れ」としています。このこと自体は、ごく自然で、素直な態度だと思います。 ではなぜ、人々はそれらを「神の顕れ」としたのでしょうか。人は「美しいもの」「きれいなもの」「雄大なもの」などを、感じることはできますが、それらの意味を知ることができない。そして、意味のわからない「過剰なもの」にある種の「恐れ」≒「畏れ」を感じる。だから、逆に人がそれに意味を与えるために「神話」をつくり、概念化した結果、「神」が生まれた。故に、神は人間が捏造したもの。と、哲学的に神を否定すると、こうなると思います。 しかし、「美しい」「きれい」「雄大」と感じた本人が、なんの偏見もなく(これが難しいのですが)、「神性」を感じたのならば。あとから、他の人が「それは捏造だ」と言っても、説得力を持ちません。感じたものは、感じたのです(それが直ちに神の存在を示すとは限りませんが。)。 ただ、ほとんどの人は「神話」や「御伽噺」にふれているし、文化的に神を扱う行事も経験しているだろうから、偏見をもたないのが難しいと思います。 また、「美しさ」を「神性」としてしまうと、人間を越えているので、それ以上考えることはできなくなってしまいます。だから、ここでは「捉えがたいなにか」と留めて考えましょう。 今日、考えていて思ったのですが。私は、花の「美」から、幼児性を感じます。花の小さく、輝いている様子が「可憐な少女」を思わせます、例外はありますが(ひまわりはやんちゃ坊主です)。以前のHPLCさんの回答や、No.18のapi-apiさんの「美しい時代」と重なる部分があるかもしれません。 子供が「花」をみる時も同じように感じるのだろうか。「本能的」の定義もなかなか難しいですね。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.22

花は象徴だから美しいと思います。 プラトンのイデア論とは、「この世は神様たちのいる世界の反映」だそうです。ある意味はそうでしょうが、個人的な意見ではそう思いません。まったく逆の汚れた世界だと思います。でも人間はかつて自分の傍でその美しい世界にいたことを忘れないでほしいという神様からの願いが花に託されたからではないでしょうか? でも確かにそれは花に限らず、草木や風や星や動植物に神様の神秘を感じることもありますよね。花も神様の化身のひとつだからではないでしょうか。 「花のように美しい」「あの人は華がある」という喩え、実物の花を育てるときのやすらぎや、フラワーメレディなどの医療、芸術や生活の実用や彩どりに花が使われるのは普遍=神の一部だからでしょう。人生がひとつの具体性を表しているとしたら、そこで生じる数限りない現象には「象徴」で包括されていますが、美の象徴を花と決めたからではないでしょうか。誰が決めたか、もちろん神様です。美しいと感じるものを花にたとえることは、人間同士の共通意識を確認しあうこと、つまり記号なのではないでしょうか。 人が自然の雄大さを言語で表すには限界があると思います。上手く讃える言葉を知らないとき、人は自然の言葉を借ります。というか、森羅万象は自然で比喩できます。正に自然は初めであって終わりに終始するものと思います。現実に目の前で咲いて散る花はすべてのこと、生きとし生けるものの一生の縮小です。時間性とおっしゃいましたが、短い間で有、無、初め、終わり、長短、若さ、老い、美醜すべてを瞬間的にで見せてくれるのでしょう。その最も身近なものが花ではないでしょうか。・・・でもそれは花ではなく他のものでも間に合うではないか?という最初の疑問に戻ってしまいますよね。それは私にはわかりません。神様がその代表格として人々の心に最も多く美の象徴を選ぶものとして花を選ばせるための種(意思)を撒いたのかと思うだけです。 もうすこし蛇足させてください。 ご質問者様の猫も夕日を見て美しいと思っているかもしれない可能性のことですが、私も同感です。そうであってほしいというよりも、野性は野生に融合している限り最も美しい姿だからです。猫が美を愛でているように見えるのは、それが自然な姿だからだと思います。 でもあまりにも普遍的、あまりにも難しいご質問ですね。人の心の中に花は何て美しいのか、という想いがある限り、花はなぜ美しいのかという問いは永遠に続くのでしょう。植物に声をかけたり、あるジャンルの音楽をきかせると成長するのが早くなることはよく知られていますよね。花も人の心に咲く花を求めているのではないでしょうか。 さあベランダのバラに水をあげなくちゃ(笑)。

bofd
質問者

お礼

花の美しさに「神性」を感じる。とても自然で、率直で、素敵な感性だと思います(皮肉ではなく)。そういった感性から、数々の神話や御伽噺が生まれたのでしょう。 >人生がひとつの具体性を表しているとしたら、そこで生じる数限りない現象には「象徴」で包括されています この部分に強く共感を覚えました。しかし、野暮な私は、「象徴」を作り上げたのは人間だと考えたいのです。花の美しさを「神性」としてしまうと、それは神話でしか語れなくなってしまいます。それも人間のすばらしい能力の一つですが、不可知なものを知りたいと思うのもまた人間、お許し下さい。 >美しいと感じるものを花にたとえることは、人間同士の共通意識を確認しあうこと 私もそう思います。比喩に限らず、単に「おしゃべり」が成り立つことさえ、共通意識を確認しあうことになりえます。「おしゃべり」することは、自分が持っている概念(言葉)が互いに交換可能なのを確かめることで、お互いの「共通性」を確認する行為だからです。 >花は森羅万象を表す比喩 悟りをひらいた禅僧も同じような表現をしますね。蘇軾というお坊さんは、「柳は緑 花は紅 真面目」と詠っています。「そのままで、ありのままで、真実である」という境地でしょうか、憧れを感じます。 >ご質問者様の猫も夕日を見て美しいと思っているかもしれない可能性のことですが、私も同感です。 これを証明することはできませんが、人間だけが美的感覚をもつと考えるのは少し傲慢な感じがします。 >花も人の心に咲く花を求めているのではないでしょうか。 もしできるのなら、「おしゃべり」してみたいですね(笑)。サボテンに電極をつないで反応をみる装置があるそうです。はさみを持って「切っちゃうぞ」というと、装置の針が大きくゆれるそうです。「おしゃべり」の可能性は期待できそうですね。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

noname#7975
noname#7975
回答No.21

 面白いご質問ですね。考えていて、この問題には何か哲学の最も 哲学的な課題が凝縮されているのではないかとさえ思えてきました。 多数の回答を見ていると、これに答えないことこそ野暮と思われてきて(^^;、 既に多数がついておりますが、自分なりの答を添えたいと思います。 『人間は通常、見聞きした物に平常とは異なる注意を惹く場合は、  本能の声がその奥底に横たわっている時が多いものだ。  しかし、花はそれにより催される感情の起伏が激しいわりに、  対応する本能がこれといって見つからないように思われる。  さてこれは、いかなる訳か? 人間は、花の送ってくるサインを  「綺麗」の一言で済ませては、のほほんと受け流していて良いの  だろうか? 何かとてつもなく大切な情報を、人類は有史以来  ずっと見落としてきたのではないだろうか?  そうだ、まさしく「春の心はのどけからまし」なのだッ』  そう考えると、まるで花が綺麗なことが今更ながらに大発見に思え てきましたが(笑)、花を愛でる心こそ人の洵の証しとブッ飛ばせては、 盲目の方の立つ瀬がありませんから、やはり理屈っぽく考えてみたい と思います。  花の美に類似するものとして、宝石の原石、浜辺の貝殻はどうで しょうか。花崗岩(だっけ?)のきらきら光る断面は美しいと思います。 小さい巻貝の繊細な模様や二枚貝の裏の仄かな桜色の綾は、花の美に 優るとも劣らないと私は思います。  注意深く見れば、自然界には実に多くの気を引くものが、無機物、 有機物を問わず溢れています。 気を引くもの=本能からの信号とすることに無理があるようで、 気を引くもの=単なる視覚上のコントラスト で済ませておくのが適切だと思います。視覚的なコントラストが見せる ところの、ある種の特異像、希少性に遭遇することに何かしらの価値 (この「何かしらの」というものこそが曖昧な美の正体であり、  決して「神秘性」などというような既成概念で汚してはいけない) を見て取ろうとすること、逆にそれこそが人間の持つ本能ではないか とも言えるのではないでしょうか。私なりに結論すると、 「コントラストに意味を求めたがるのが人間の本能だから」 ということになりましょうか。 (その「意味」が何かを聞いているのですが……と切り返さないで下さい) あと補足するなら、 「花は自然界、それも人間の身近な所でのコントラストの最たるもの」 という推測と、 「人は夜空を見上げては光る星の軌跡を調べだした時から人になった」 という希望的観測を添えておきます。(えっ、火を使ってから?)

bofd
質問者

お礼

>「コントラストに意味を求めたがるのが人間の本能だから」 >「花は自然界、それも人間の身近な所でのコントラストの最たるもの」 この二つは誰もが認めるものだと思います。 しかし、この二つがそののまま「花が美しいこと」の理由にはならないと思います。No.4のminizukuさんによる、 >赤と黒と黄色の毒蛇カラーなどは、その蛇が「自分は危険な存在」だと相手に知らせる為の配色だと言われています。 という例もありますし、 色鮮やかで、美しいキノコは決まって有毒だというのは、知られているところです。 つまり、コントラストは「危険である」ことを示す場合もあり、必ずしも「美しい」という特定の印象を与える理由にはならないからです。 ただ、「花にはコントラストがある」=「花は色鮮やかである」とするならば、「色鮮やか」というのは、なにがしかの「過剰」や「普通のものからの逸脱」を表すとは言えそうです。これは「鮮やかさ」の要因としての「明るさの過剰」を「太陽」や「火」から感じとることに由来するのだと思います。 猿は本能的に(後天的にではなく)蛇を嫌うそうです、同じ初見のもののなかでも蛇を特に嫌うらしいです。これは、生命維持の観点から説明できます。 花も同じレベルで、本能的に人に好まれていると思うのですが、説明するのは難しいですね。 まさに、「何かとてつもなく大切な情報」を人に伝えているような気がします。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

下に書いたことに加えて。花の「親近性」というのは、その「形や大きさ」に由来するのではないでしょうか。 脳科学では人が顔を認知するとき、人の顔にのみ反応するニューロン(神経単位のことで,神経細胞体・樹状突起・軸索からなる。刺激を受容・伝達する機能をもつ。)が存在することがわかっています(たしか、顔のパーツの配置に反応するニューロンだったと思います)。 これは、心霊写真を否定するときによく出てくる話で、実際の顔のパーツでなくても、配置が顔のように並んでいれば、人はそれを「顔」と認知してしまうというものです。つまり、錯覚のようなものですね。 花を認知するときも、そのようなニューロンが生得的に備わっているのではないでしょうか(推測の域をでません、脳科学者の方に期待します。)。だとすると、花が本能的に認知するべきものならば、それだけ重要なものだと思えてなりません。その理由は、おそらく、心を通して体によい影響を与える、花のもつ光の波長が物理的に体によい影響を与えるからと思えてなりません。ちょっと飛躍しすぎました。希望的観測です、錯覚ではありませんように。

  • seiso
  • ベストアンサー率20% (73/352)
回答No.20

こんばんは。 回答になるかどうか、自信はありませんが単純に考えてみて >ふと目に入った花をみて「なんて綺麗なのだろう」 花だけではなく、本、人の話、絵画、音楽などの芸術に触れても、綺麗、美しい、素晴らしいと素直に感動すること、それは「真理」に触れたからではないでしょうか。 「真理」はとても、シンプル(素朴で単純)で、普遍的、且つ、絶対的なものですよね。 「本物」と言って良いのか、そういうものに触れると、きっと真の感動を生むのだろうと思います。

bofd
質問者

お礼

花の「真理」や「本物」に、人が心を動かされるならば、その「真理」や「本物」とは、いったいなんだろうか。たぶん、私はそれについて質問しているのだと思います。どうしようもない野暮ですね(笑)。 参考にまりました。御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

すいません、訂正です。 >参考にまりました。御回答ありがとうございます。     ↓ 「参考になりました」 野暮な上に、おっちょこちょいです。陳謝。