• 締切済み

花はなぜ綺麗なのか

概して、人間の感覚器官は、自らの生命を維持するために必要なものを「よい」と判断するようになっています。だから、食べ物を見て美味しそうと感じたり、マッサージを受けて気持ちいいと感じたりすることは、「人間が自分の生命を維持するために必要だから」という理由で納得できます。 さて、ふと目に入った花をみて「なんて綺麗なのだろう」と思ったことは誰しも経験することですが、その理由がわかりません。 何にでも意味や理由を求める態度は野暮だとは思いますが、敢えて聞いてみます。みなさんはどう思いますか、教えて下さい。

みんなの回答

  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.19

色が鮮やかだからです。 単純に。 もし花の色が土色や枯れ草色であれば目立ちませんし、 紫外線領域を際立たせて昆虫を呼ぶために、 結果として人間の可視領域も色鮮やかになります。 それを見て人間が心地よく感じる背景は、 そういった草花が咲き乱れる土地は豊かであり、 可食性の種や実や根が多く取れるという、 先祖からの無意識の伝承からではないでしょうか。 特に女性にそういった感性が多く発現するのは、 過去におもに女性たちが植物性の食料を集めてきたという歴史に由来するのかなぁ、 などと勝手に想像いたします。 と、極めて単純に生物学的に考えてみました。m(_"_)m

bofd
質問者

お礼

「美」の要素、あるいは「美」が成り立つための要素として、「人の目を引く」というのはあると思うので、周りのものよりも目立たせるという意味で「色が鮮やかだから」というのは納得できます。 次に、「花の美しさはその土地が豊かであることを示す、先祖からの無意識の伝承」という考えですが、これは、花を見て感じたものが「綺麗」や「美しい」である理由にはならないのではないでしょうか。もし「豊かさ」を示すものであるならば、「妊娠した母親のふくよかな乳房」や「秋に金色に輝く田園」に対して「豊か」と感じるのと同じように、花に対しても「豊か」と感じる方が理にかなっているような気がします。 また、女性にそういった感性が多く発現するのは、男性を獲得するために美しくなろうとするので、「美」への関心が男性よりも強いからだと思います。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • api-api
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.18

果たして花を美しいと思うのは人間の(世代的に)すべてでしょうか? 美しいと思う気持ちは年をとるとともに増すのではないでしょうか。花はやがてしおれて枯れます。萎れてしまった花を美しいとは感じないと思います。 人間にとっても、花と同じような美しい時代は恋をする若い時代だと思います。 花を見て美しいと思う心は単なる一種の憧れとか回顧のようなものではないでしょうか。 歳をとってから特にそう感じています。 哲学的ではなく申し訳ありません。

bofd
質問者

お礼

>花を見て美しいと思う心は単なる一種の憧れとか回顧のようなもの No12のお礼にも書きましたが、私は「美」という感情は、本能的なものから、後天的に文化や社会に影響されるものまで、様々な段階というかグラデーションがあると思います。api-apiさんの考えは、その後天的な「美」の価値観の説明として、一つ的を得ていると思います。 それでは、より本能的な価値観、子供が花を見て「綺麗だ」と思う場合はどうでしょう。輪廻転生を信じるならば、前世の輝いていた時代への憧れ、と言えそうですが、これは信じている人だけにしか通じない。本能的なもの、本質的なものほど語るのは難しいですね。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • rokkaa
  • ベストアンサー率9% (4/44)
回答No.17

色をもっているからだと思います。 いまでこそ私たちはいろんな色をもっていますが、それは古くから色を再現することに力を注いできたからだと思います。 その色を、花はもっている。個々異なりますけど。 「なんと綺麗なのだろう」と言葉で表現してしまえばそれで終わってしまいますが、感じるというのはもっと原始的なものだと思います。自分自身が言葉で認識する以上のことを、もっと多く受け止めているはずです。言葉というツールを使って綺麗だと表現しているに過ぎないと思います。 その言葉以外に、私たちは色を感じ、色を表現するツールを得ました。絵画やデザインや写真など… それで、花が色をもっているから… というところに戻ると、色を得ようとした原動がどこにあるのだろう? と考えるとどうでしょう… うまく表現できません。ごめんなさい。 猫や鳥、人間以外の生き物もそれぞれのレベルで言葉にしないままの原始的な思いを感じていると思います。 人間は美しいとか、綺麗という言葉をもったためにかえって窮屈になったのかもしれません。 ただ、感じること以外にも表現することがたくさんできるのは人間だけですよね。 わけのわからない文章になってしまいました。申し訳ありません。

bofd
質問者

お礼

>色をもっているからだと思います。 おそらく、仰りたいことは「花が周りのものとは違った独特の色を持っているから」だと思います。 確かに、色は花の美しさを表す重要な要素ですね。一つ考えられるのは、「美しさ」の中には「強く目を引く」という要素があり、花は周りものとは違った独特の色を持つことでこれを満たしている、とは言えそうです。しかし、その他の「美しさ」の本質的な要素は考えるのが難しいですね。まさに、言外なのかもしれません。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

  • 8942
  • ベストアンサー率13% (188/1414)
回答No.16

 花が咲くという現象は、その土地がその植物にとって 適した(太陽、空気、温度 湿度)といった気候、土壌を安定的に維持出来た結果、そこで根をおろした植物が 無事に生殖可能なまでに成熟した証明であり、  それは同時にその地域にすむ人々にとってもそこが 豊かな生態系を営む、動植物が豊かで、食物が豊富で 人間にとっても住みやすい土地であるサインであると思います。  花が見て好感を抱く感情は長い間自然とともに暮らして きた人間にとって極普通の感情であるように思います。

bofd
質問者

お礼

花が綺麗なのは、それが咲いている場所が、人間にとっても住みやすい土地であるサインだというこですね。なるほど、そういうこともあるかもしれません。 しかし、花が咲くことのできる環境と、人間が住むために必要とする環境には、ずれがあるような気がします。例えば、崖や岩場に生息するワカサハマギクといういのもあるそうです。 それと、もう一つ、自然を美しいと感じるとき、花の他にも、木の幹、木の枝、葉、草、茎など様々なものから感じ取ることができると思います。そのなかで、なぜ花からより強く「美」を感じ取るのかがわかりません(ここは個人差がありますね)。その理由が「無事に生殖可能なまでに成熟した証明」つまり、「少なくとも花が咲くまでの期間その土地は豊かだった」という、時間性の証明であるならば。幾重にも刻む木の方が花よりも「綺麗」に見えるのではないでしょうか。私は「人間にとっても住みやすい土地であるサイン」をきれいな空気や、田園の稲穂から感じます。それは「美しい」というよりも「すっきしりした」や「安心」という感じです。この辺は、個人差がありますね。8942さんと同じことを感じる人もいると思います。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

すいません、訂正です。 >幾重にも刻む木の方が花よりも「綺麗」に見えるのではないでしょうか。      ↓ 「幾重にも年輪を刻む」

回答No.15

お礼欄拝見しました。 書き方のまずい部分もあったので、訂正がてら多少補足しておきます。 まずプラトンについて。 ホワイトヘッドは「西洋の哲学史とはプラトンの脚注にすぎない」と言ったそうですが、とにかくわたしたちの発想は、非常に深いところでプラトンの影響を受けている。 たとえば質問者さんが個々の花を超えて、「花一般」の美しさとは何かを考えていこうとするのも、そのあらわれです。 プラトンはイデアについて大きく分けてふたつの規定を与えたのですが、そのひとつは、イデアは同じ類に属するおおくのものに共通なひとつのものです。 花にはバラ、スミレ、タンポポとさまざまあるけれど、「花そのもの」という花のイデアはただひとつのみである。 もうひとつ、それぞれのイデアは絶対に不変です。 個々のものはつねに変化する。タネから芽が出、茎がのび、つぼみとなり、やがて花が咲き、枯れていく。花の美しさは、やがて美しくなくなるのですが、「美」そのものは決して変わることなく、常に美しい。 つまり、わたしたちが個々の現象を超えて、「花一般」とか「美の本質」という、そのものの本質、現象によって左右されない本質を考えようとするこの態度こそ、プラトンに方向づけられた考え方にほかならないわけです。 >すべての「美」に共通項があるとは思えません。 もちろん、そうかもしれません。 けれど、この目の前にあるたったひとつのバラが美しい、と思うだけではなく、それを通して、花はなぜ美しいのだろう、美しいとはどういうことなのだろう、人間はなぜ花を美しいと感じるのだろう、とわたしたちは考える。 プラトンだったら全部、イデアで説明してくれると思うのですが、現代のわたしたちはさすがにそれでは説得されません。 けれどもそうした考え方、問題のたてかたはすべてプラトンによって方向づけられたものだ。ホワイトヘッドが言っているのはそういうことだと思います。 いわゆる「芸術のための芸術」という思想の根本にあるのが、カントの哲学です。 >あまりにもキリスト教的すぎで、禁欲主義的すぎです。 これはわたしの「下心がない」という書き方がよくなかったのだと思いますが、ここで言いたかったのは、その対象が何らかの意味で「役に立つ」から、という理由ではない、ぐらいの意味です。 この世界に存在するあらゆるものは、なんらかの目的を持っている、とわたしたち人間は判断している。 藻やプランクトンは小さな魚に食べられるために存在し、小さな魚は大きな魚に食べられるために存在し、大きな魚は人間に食べられるために存在する、と判断することができる。 これをカントは自然の合目的性と呼ぶのですが、「花の美」というのは、わたしたちがその中に、何の目的もなく見出すことができるものである。 カントは「美」というのは、「美しい」と感じる人間の判断である、としました。 たとえば質問者さんのおっしゃるように、AV女優に対して無目的の美を見出すこともある(こともあるのではないかと思う。←ここらへんはよくわかりません。エロティシズムの問題をここに加えるとまた話がややこしくなるので省きます)。 無目的の美というのは、その女優さんの美しさの目的が何であれ、その人の職業が何であれ、そういうこととは無関係に、あるいは自分との関わりも無関係に、見ている側がただ美しいと思う。 そのときそこに「無目的の合目的性」があるわけです。 こうした考え方は、従来の美学、芸術作品は美しいだけではなく何かの役に立つ(たとえば宗教画などのように)という考え方と、大きく一線を画するものにつながっていきます。 ベルクソンは『創造的進化』がおもしろいと思います。岩波文庫から訳が出てるんですが、手に入りにくくて、わたしは図書館の本で読みました(そのうちちくま学芸文庫から出るんじゃないかな)。 「生命の躍動」、つまり、芸術には、人間や生命についての固定化した考えや社会秩序を突き破るはたらきがある、という考え方が出てきます。おもしろいです。 西田に関しては、 >彼の哲学は自身の禅体験から語られているもので、主客を脱落するという働きかけが必要あり、万人の普遍性を得るのはなかなか難しいと思います。 うーん。こういう考え方があることは理解できるんです。 でもわたしはそうは考えておらず、むしろひとつの哲学体系として理解されるべきではないか、と思って読んでいるんですけどね。 >現象学と禅の考えかたは似たようなところがありますね わたしは禅のほうがよくわからないんで、なんともいえないところですが、西田とベルクソンやメルロ=ポンティとの親近性は感じます。 というか、プラトンから始まった二元論的思考を超えようとする思想の方向性のひとつは、間違いなくこっちを指しているのだろうなと思っています。

bofd
質問者

お礼

ベルクソンの『創造的進化』、読んでみます。 >「生命の躍動」、つまり、芸術には、人間や生命についての固定化した考えや社会秩序を突き破るはたらきがある、という考え方が出てきます。おもしろいです。 なんとなく、ロックについて語れそうですね。 西田幾多郎について、 >こういう考え方があることは理解できるんです。 でもわたしはそうは考えておらず、むしろひとつの哲学体系として理解されるべきではないか、と思って読んでいるんですけどね。 西田のいう「直接経験」というのを、はっきりと感じることができれば納得できますが、いまのとこらはなんとなく「そうかもしれない」としか思えません。おそらく、あまりにもあたりまえ(本質的)すぎるのと、それを知らなくても生きてゆけるのが原因だと思います(知ったほうがよりよく生きられるような気がしますが)。みんながはっきりと「直接経験」を感じられるのであれば、何も問題はないと思います。 参考になりました。御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

(長くなったので、補足とお礼に分けて書きます。) プラトンについて、 No.12の補足にも書きましたが、「美」の共通項としてのイデアはあるかもしれないと思います。 あるものを見て、Aさんはそれを「美しい」と感じ、Bさんはそれを「醜い」と感じた場合、「あるもの」には「美のイデア」はあるのかという疑問が生じます。その答えは、Aさんにとってはあるし、Bさんにはとってはない。つまり、見ている主体によるということです。では、Bさんには「美のイデア」は存在しないのか、それは「あるもの」を見たときに存在していないだけで、ほかのものをみて「美しい」と思ったときに存在するのだと思います。イデアとはそのよな「主体が持つ共通性」のような気がします。 カントについて、 「美」とは、「その対象が何らかの意味で役に立つものではい」という性質をもつということですね。これは納得できません。No.10のお礼にも書いた通り、心が動くということは体にも影響を与えます。その「影響」を有用か不用かは個々人が決めることですが、そのなかで、「影響」が不要なものだけを「美」とする考えは受け入れられません。 花を見て「綺麗だ」と思い、心が和んでリラックスしたり、ストレスが減ったりした場合、カントなら、「心が和んだり、ストレスが減ったりすること」(体に対する有用性)をもたらす原因となる性質をその「綺麗」のなかから除いたものだけを「美」と呼ぶのだろうけれど、それは納得できません。なぜなら、私は「花の美」によって、心が和んでリラックスしたり、ストレスが減ったりすると感じるからです。カントと私は「美」の概念がずれているかもしれません。

noname#7749
noname#7749
回答No.14

生物学的には、花はたんなる飾り物ではなく生殖機能を司る器官であることはご存知かと思います。 美しい花は受粉を媒介する生物 (昆虫など) を惹きつけ、種族の繁栄に有利だからこそ、そのような種類が多く生き残ってきたと言えます。 花が美しいのは、自らを美しく見せようとする植物自身の戦略 (意志) による結果ですので、夜空の星や空の雲が美しく見えるのと同列には論じられないでしょう。 # 悪臭物質を発散することで蠅を吸引するという、正反対の戦略を採る植物 (ラフレシア) も存在しますが。

bofd
質問者

お礼

>花が美しいのは、自らを美しく見せようとする植物自身の戦略 (意志) による結果 気持ちはわかりますが、言いすぎな感じがします。 No.10にも書いた通り、科学的な視点から見れば、「遺伝子が生命に与えるのは方向性のある価値観ではなく、多様性であり、その中で、弱いものは消え、強いものは残っていく」というのが妥当な見解ではないでしょうか。個人的にはこの植物の「意思」というのは好きなのですが、戦略とまで言っちゃうと、「植物が人間の美的感覚がどういうものか、予見していた。」とういうことになってしまいます。植物には意識があるというのはたびたび耳にしますが、「予見」までは難しいだろうと思います。 参考になりました、御回答ありがとうございます。

noname#15238
noname#15238
回答No.13

野暮ではなく、義務として3度目の回答をお許しください。 貴方の仰る、「花」とはなんですか。 桜ですか、朝顔ですか、ひまわりですか? たとえば、朝顔のつるの先に、大きなひまわりの花が咲いて美しいでしょうか、ひまわりの太い茎の先に、軽そうな朝顔の花が似合うでしょうか、太陽の塔にはそれに似あった本体が必要です。 美の極致とされる、ミロのビーナスは、1対1.6と言う黄金分割が随所に当てはまるらしいです、安定のある正方形でなく、微妙なバランスに美を感じる普遍性が、どこに由来するか、すでに回答しながら自信のないところです。 面白い質問有難うございます、この質問の、質問者が私でなかったことに嫉妬を感じつつ、これで終わります。

bofd
質問者

お礼

私がここでいう「花」は、どんな花でも構いません。例えラフレシアでも構いません。ただし、みなさんが「綺麗だ」と思った花に限ります。 それでは、「朝顔のつるの先に、大きなひまわりの花が咲いて美しい」と思う人の「美しい」と、「ひまわりの太い茎の先についている軽そうな朝顔の花が美しい」と思う人の「美しい」は違うものなのだから、語ることはできない、と言う人もいるかも知れません。確かに、その可能性もあります。しかし、その二つになにかしらの共通点を見つけることはできるかもしれません、これを二つから三つ三つから四つ・・・と増やしていけばある程度の普遍性のようなものは得られるのではないでしょうか(例えば、気持ちがプラスの方向へ流れるなど)。その普遍性のようなものについて知りたいと思いました。もし、その普遍性があるとすれば、それは西田幾多郎が(または、多くの著名な禅僧が)言うように、見られている花にあるのではなく、見ている人間の側にあるのだと思います。なぜ違う花の色をみて、同じように(全く同じではなく広い意味で)「綺麗だ」と思うのでしょう。それは、花を見て「綺麗だ」と思うそれぞれの心が、「同じように」(全く同じではなく広い意味で)働くからだと思います。その心の働きを知りたいと思いました。 書きながら少しずつわかってきました。この質問に強く興味を持って下さり、本当にありがとうございます。

回答No.12

こうした回答を求めていらっしゃるのかどうなのかよくわからないのですが、哲学のカテで出されたご質問なので、哲学はそうしたもんだいをどのように考えてきたか、二、三あげていきます。 ソクラテスはこう聞きました。 「美とはなにか」 聞かれた相手は、美しいものの実例をあげて説明しようとします。 あの花が美しい、それが美です、と。 すると、それに対してソクラテスはさらに聞き返します。 個々の美しいものではなく、「美」そのものとはなにか。 それに対して、プラトンはこう答えます。 花が美しいのは、そこに「美そのもの」があるからだ。 その「美そのもの」、美のイデアは、現実の世界とは別にあるイデア界(真実の世界)に実在する。 そうして、この目の前の花が美しいのは、美のイデアを分有しているからだ。 紀元前四世紀ころのプラトンは、こんなふうに考えていました。 一気に時代は下ります。 18世紀になると、いわゆる近代美学の祖といわれるカントが登場します。 カントは、この花が美しいと感じるのは、この花がわたしたちに対して有益であるからでもなければ、道徳的に価値があるからでもありません。 わたしたちは花に対する関心を持たず、欲も得もなく、ただ「美しい」と思う。 カントはこうした人間が「美しい」と判断するのは、「下心がない」欲求が満たされたからだ、と言います。 しかもこの美という感情は、たとえば快楽のように、主観的、個人的なものではなく、だれが見ても、美しい。 「この花は美しい」というとき、わたしたちは自分ひとりだけの好みを超えて、すべての人が「美しい」と判断することを要求している。 そうした要求が、人間の心の中にはあらかじめ備わっているのだ、と考えたわけです。 もうひとりいきましょう。 日本の哲学者、西田幾多郎はどう考えたか(たまたまわたしは西田の全集を読んでいるので)。 西田は「この花が美しい」というのは、花自体に美とか醜とかいう属性が備わっているのではなく、わたしたちの主観である、と考えます。 わたしたちの意識と無関係に、花の色や美しさがあるわけではない。 わたしたちの意識がそうとらえるから、色や美しさというものがそこに存在する。 そこに花があり、その美しさに心を奪われている。 そのとき、わたしたちの意識のなかには、見ている「わたし」もなければ、見られている「花」もない。 「わたしは花を見ている」と考えている「もうひとりのわたし」もそこにはない。 ここには主体(見ているわたし)もなければ客体(見られている花)もない。 わたしたちの経験の端緒には、こうした主-客一体となった「直接経験」があるというのです。 このように「花の美しさ」、つまり、美とは何かをめぐって、人間は大昔から哲学してきたし、「美学」という学問もそこから生まれてきました。 ほかにもベルクソンなんかの芸術と直観の考え方とか、メルロ=ポンティの「視覚」とか、おもしろいことを言っている人はいっぱいいます。 もしこうしたことに興味がおありでしたら、たとえば三井秀樹の『形の美とは何か』(NHKブックス)など、おもしろいと思います。 もし質問者さんの問題意識と無関係な回答であったら、どうかご容赦ください。

bofd
質問者

お礼

哲学カテですから、こういう回答も大歓迎です。 私は「美」という感情は、本能的なものから、後天的に文化や社会に影響されるものまで、様々な段階というかグラデーションがあると思います。例えば、赤ちゃんの手がまるまるとふくよかなその「美しさ」は多くの人が感じられる本能的な「美」だと思います。かえって、テレビで昔のドラマを見かけたりすると、5年くらい前のドラマでさえ、女優の化粧や髪型が不自然で美しくないと思うことがあります。こういう美的感覚は、後天的に作り上げたものだと思います。 プラトンの「美そのもの」のイデアは、あらかじめ「美」があるという時点で、移り変わっていく後天的「美」を説明できません。たぶん、変わっていく「美」の共通項が「美のイデア」だというのでしょうが、すべての「美」に共通項があるとは思えません。 次にカントですが、あまりにもキリスト教的すぎで、禁欲主義的すぎです。「エロチシズムを感じるAV女優はみんな美しくない」とは言えません。時代背景があるので、偏るのは仕方ないですね。 次に西田幾多郎について、きっと正しいのだと思います。というのは、彼の哲学は自身の禅体験から語られているもので、主客を脱落するという働きかけが必要あり、万人の普遍性を得るのはなかなか難しいと思います。たまたま、その境地に至って「ああこれか」と思ったときに理解するでしょう。 ベルクソンは読んでみようと思います。 メルロ=ポンティは「目と精神」を読みましたが、半分も理解してないような気がします。現象学と禅の考えかたは似たようなところがありますね、「エポケー」の概念は先の「主客の脱落」に似ていると思います。この辺の思想は好きなので、ちらほら読んでいます。 主題からだんだんずれてしまいましたが。 人、時、場所が違えば花の「美」も変わる。 あたり前といえば、あたり前か。 参考になりました、御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

No.13のお礼を書いていて思ったのですが。プラトンの言うイデアのようなものはあるかもしれません。それは、見られているものが持っている「美」の共通項ではなく、見ているもの(つまり人間)が「美」に触れたときの反応の共通項(感情がプラスの向きに流れるなど)から得られる、心の働きの「構造」だろうと思います(個々の構造がまったく同じとは考えにくいですが、一部分共通の「構造」という意味で)。

  • HPLC
  • ベストアンサー率22% (280/1224)
回答No.11

またきてしまいました。すいません。 メチャクチャ単純な発想なんですが、 女性が化粧をしたり、着飾って美しく見せる行為というのは元来異性獲得の為ですよね?そんな女性の姿が花の姿とオーバーラップするからかな? 人間は本能で、優秀な遺伝子を子孫に残す為に、出来るだけ美しい人間を選ぶ傾向がある。 花がカラフルで美しく着飾る姿は、そんな人間の女性に似ている。 だから本能的に花は美しいと感じる...。 でも自信ないですこれも(笑)

bofd
質問者

お礼

「あなたは野バラのように美しい」と愛する女性に口が裂けても言えませんが、 女性を花に例えるのは映画や芝居でしばしば見かけます。そういえば、スカートなんかは花びらや、花のつぼみを連想させますね。 また、「華やか」という言葉は、字義どうり女性と花の美しさに類似性を感じさせます。でもやはり、自分は男なので、女性の美しさにはエロチシズムを感じることが多いです。花にはまだないですね、そういう花を知らないだけかな。 女性の「美しさ」にもいろいろあって、「かわいい」というのも含めて、 「花のように美しい人」もいれば、「朝霧のように清清しく綺麗な人」もいれば、「宝石のように輝いている人」もいれば、「子猫のようにかわいい人」もいます(なんか書いてて気分がよくなってきた(笑))。 よく考えれば花に限らないですね。花が女性の美しさを象徴する一部分は成していると思います。ではなぜ、花は女性らしいのか、それはHPLCさんによれば、女性が化粧をしたり、着飾って美しく見せる姿が花と似ているからということになります。プラス自分の意見ですが、基本的に人間より小さく弱いというのも上の理由と合わせて加えたいと思います。ただし、これは個々人が似てると思うか思わないかによりますね。 そういう場合もあるということで。 参考になりました、御回答ありがとうございます。

  • zephyrus
  • ベストアンサー率41% (181/433)
回答No.10

意味や理由を求めていらっしゃるのに、こういう言い方も野暮のうちと思うのですが、 多分、理由なんてないんです。 生きていることの付録、スパイスみたいなもの。 プログラムのバグ、暴走。ただし、飛びきり無用の暴走。 生命とは個体の生命維持、遺伝子の繁栄が二大根幹である、という考えが正しいとして判断してみると、情緒もしくは感情と呼ばれるものは、よりよいものを求めるための価値付帯化プログラムとでも言えそうな仕組み。 けれどもこれによって現象の一方向性は失われてしまいました。 知性の深さや色合いに密接に関係して、感情はさまざまに出力されてくると思うのですが、用不用を分別する際に、特段に不用のもの、何の価値もないものに対して、感情が暴走するようになった、というのが私の思いつき。 そして皮肉なことには、その「何の価値もない」はずのものに対して一日中苦しめられたり、なかにはそれをみずから作り出そうとして苦心惨憺する、本末転倒が生じてしまったのだと管見します。 (いわゆる感受性の豊かな人たちや芸術家のことを言わんとしています。) そうしてこれも人間が持ち合わせる知性によるものだと思うのですが、その特定のそこにしかないという思い。 その場所にしかない、その時にしかない、という知性の「思い入れ」。それがより美しく魅せるのではないでしょうか。 それ単体で美しいという時もあるでしょうが、野辺の花が美しいというとき、野辺自体は美しく感じなくても、花の美しさを引き立てる不可欠の要素である場合があります。そしてその花は昨日でも明日でもなく、今日のこの時、この時刻の花が永遠なのです。 あまり哲学的でないですが、こんなふうに考えました。

bofd
質問者

お礼

科学的な視点から見れば、「遺伝子が生命に与えるのは方向性のある価値観ではなく、多様性であり、その中で、弱いものは消え、強いものは残っていく」というのが妥当な見解であり、それゆえ、「花に対する価値観」は、生き残ったものが偶然に得た多様性の一つにすぎず、生命維持、遺伝子の繁栄に役に立たないのならば、その背後に理由や意味などなということですね。 一見筋が通っているように見えます。しかし、私は、花を「綺麗だ」と感じることは生命維持に役に立っていると思います。 禅の考えでは「身心一如」と言って、「体が整えば心も整う、心が整えば体も整う」と教えます。医科学の分野でも心が体に影響を与えることは知られています。花を「綺麗」だと感じると、まず心が動きます。そして、そのことが体にも影響を与えます。それが自分の生命にとって、よいものか、悪いものかは個人が決めることですが、私はよいものだと感じます。体から毒素が抜けるような感じがします。もちろん、ストレスも減ります。これだけでも十分価値(意味)があると思います。では、なぜそう感じるのか、それは「綺麗だから」としか自分には言えません。この辺が限界ですね。 参考になりました、御回答ありがとうございます。

bofd
質問者

補足

訂正 >その背後に理由や意味などなということですね。 「意味などない」です、度々すいません。