本の受け売りです。
『日本語の文法を考える』大野晋著。
>さて、私は先に文表現をする場合には相手がまだ知らないことを伝えるのが主眼だと述べた。しかし、文は常に未知の内容だけで成り立つものではなくて、相手がすでに知っているはずのこと、知らないはずのこととの組み合わせで分をつくる。
(1)既知と未知・・・私は大野です。つまり、私は(ダレカトイウト)大野です。
(2)既知と既知・・・バカはバカだ。
上記のように、既知の情報を受ける助詞が「は」である。
(3)未知と既知・・・私が大野です。これは「大野さんはどちらですか」という問いに対する答えとして使われます。
(4)未知と未知・・・花が咲いている。これが「花は咲いている」という文章ならば、「花は(ドウシテイルカトイエバ)咲いている」という具合に題目に説明を加える文になります。
しかし、「花が咲いている」の場合は、花を見つけ、あるいは驚き、あるいは喜び、目の前の事実として描写もので、文全体が一瞬にして認識されたのです。
このことを大野氏は以下のように説明しています。
>「は」は題目を提示して、それを既知扱いにする。それに対して「が」の根本的な特性は、「が」の上にくる言葉と一体となって、下のくる表現に対する条件付けをすることにある。条件づけをするとは、下にくる体言や動詞や文表現などに対して、「が」を含む上の部分が新しい情報を加えるものだということです。
以上のことを学んだ上であなたの質問を見ると、以下のように判断できるのではないでしょうか。
(1)「解剖の可能性」は低い・・・「解剖の可能性」はという題目を受けて(ドウイウコトニナッテイルカイエバ)「低い」という未知の情報が加えられています。
(2)「解剖の可能性」が低い・・・この場合は、それまでの文章から「解剖の可能性」という未知の情報が提起され、それを受けて「低い」という判断が付け加えられています。
どちらも同じような内容を語っているのに、何故か受けとめる印象が違っています。
単純に言えば、「は」は上にある文章は既知の情報なので、下につける未知の情報を受けても説明的な文章になります。
それに対して、「が」の方は、すでに上にある文章が未知の情報であるがゆえに、下にくる未知の情報を加えたら、尚一層強調された印象を受けるのです。
それは「が」が使われた歴史によるものだと思います。
日本語は主語がない文章が特徴だと言われています。それは主語をつけなくても、省略しても通じる人間関係が保たれていたということです。
「が」が多くつかわれるようになったのは、万葉集での防人の歌などからです。東国にいた武士のさきがけのような人たちが、時代を遡る間に勢力を延ばしていったこととも関係します。
古代においては、「が」は自分の身近なものを受ける形で使われていました。それが時代とともに使用の範囲を広げていったのですが、身近なものに対する「が」の印象が、使用範囲を広げる形でもそのまま残ったという風にいえるのではないでしょうか。
ですから、「が」を受けた主語の印象の方が強く感じられるのではないでしょうか。
意味は同じでも印象の度合いが違うのは上記の理由だと思います。
お礼
本の受け売りでも、まだ有益です。では、「は」は既知の情報を表しますが「が」は未知の情報を表しますよね。 どの回答がベストアンサーにするかを考える必要があります。ご回答がベストアンサーにしなかった場合は、ご理解いただけましたら幸甚に存じます。 とにかくご回答くださいましてありがとうございました。