- 締切済み
【 ※ 長文注意(2000文字超え)】
【 ※ 長文注意(2000文字超え)】 「悪」の定義について。 私の思う「悪」の定義をご紹介します。 私の勝手な自論ですので、専門学的な裏付けは一切ありません。 今までの経験・考察から作り上げた自論です。 「悪」とは 起こり得る未来が予想できるのに、その人の勝手な私情や感情・好奇心(めんどくさい、嫌、ムカつく、おもしろそう)で相手の立場を損ねる・相手に損失を与えることを「悪」と定義しています。 例1) 友達を誘って、家に招き入れたが不安定な位置にあった花びんを片付けるのがめんどくさくて、友達に割られてしまった。 ▶︎ この場合、自ら友達を誘っているので、友達が来ることは100%予想できます。ですから移動させて花びんを守るか、放っておいて花びんを台無しにするか、花びんの運命はいくらでもコントロール可能です。 しかし、めんどくさいというその人の勝手な感情で花びんを台無しにしてしまった、そのため悪いのは明らかに家に友達を誘った人です。 例2) 友達に誘われたので家まで行くと、家の中にはすごく不安定で今にも落下しそうな花びんが置いてあったが、なんとなく大丈夫なんじゃないか、と思いそのまま知らんフリをして過ごしていたら思わず割ってしまった。 ▶︎ この場合、花びんが落ちる未来は簡単に予測でき、上例に同じく花びんの運命はいくらでもコントロール可能です。 しかしなんとなくいけそうだ、という謎の好奇心から、花びんを台無しにしてしまったので、悪いのは遊びに行った人です。 例3) 友達がアポなしで急に家にやってきて、勢いあまり不安定に置いてあった花びんを割られてしまった。 ▶︎この場合、どちらも先の未来が予測不可能です。 友達がアポなしで来るかもしれない、などと普段から考えて過ごしているはずがありません。そのため急な友の襲来に備えて花びんを動かすことはもちろんできませんし、友達側も、家の中にまさか不安定な花びんが置いてあるなんて思いながら尋ねないでしょう。 その人の私情や感情が入る隙もないため、この場合、どちらも未来の予想が不可能=どちらも悪くない、つまり「事故」に値します。 例4) 教室にお菓子を保管する際、食べられないように「食べるな」と貼り紙をしたが、何者かに食べられてしまい、犯人をキツく責めるも、「こんなところに置く奴が悪い」と言われ逆ギレされた。 ▶︎ この場合、どちらも先の未来が予測可能です。 教室という多数の人間が行き来するであろう場所にお菓子を放置すれば、例え注意喚起のメッセージを貼っていたとしても何者かに食べられる恐れがある、という未来は予測できますし、「食べるな」と貼り紙のあるお菓子を勝手に食べれば怒られるという未来も予測可能です。 しかし、この二つの出来事の予想のしやすさ(未来予想容易度)を天秤にかけた時、圧倒的に予想しやすいのは明らかに後者の「食べるな」と書いてあるお菓子を食べること、ですよね。 パーセンテージに表せばほぼ100%怒られる未来が分かるわけであり、その人には未来をコントロールできる能力があります。 しかし、食べたいという勝手な感情にかまけて相手に損失を与えてしまう未来を選択してしまったため、当然、責められるべきは食べた人であり、予想はできたとしても、この場合、お菓子を放置した人は全く悪くありません。 最後の例です。 頭の悪い人がデマに騙されて、SNSで拡散してしまった。 それに対して「頭悪くて草」とバカにしたコメントを残す。 頭の悪い人は逆上して「てめーの方がバカだろ、悪口言うなよ」と言い返す。 それに対してさらに「おめーも悪口言ってるだろ。矛盾してて草」と反論。その後口論に発展する。 ▶︎ この場合、頭の悪い人は悪気があって騙されてるわけではなく、またそれを信じることで誰かに迷惑がかかるだろう、なんて予想だにもしません。 つまり、起こり得る未来が分かるわけないのです。 未来をコントロールする能力がないわけです。(迷惑がかかることを予測できるなら、そもそもSNS上で拡散させません。) それに対して最初にバカにした人は、バカにすれば人が嫌がるだろうという未来がほぼ100%予想できます。 それなのにも関わらず、ムカつくから・嫌だから・ウザいからなどという完全に身勝手な感情を挟んで、相手に大きな損失を与える未来を選んでしまいます。「てめーの方がバカだろ」と言い返されても、仕方ありませんよね。 ーーーここからトピックが若干変わります。ーーー ▶︎ 言い返した・やり返した人は同罪になるのか? 結論から言いますと、ならないと思います。 なぜなら、やり返される人にはやり返される覚悟があるからです。 罰ゲームを受ける場合、その人には如何なる種の罰も受け入れるという覚悟があります。 嫌ならやめればいいので、その人は何をされても大丈夫、ということです。 つまり、罰ゲームを与える側が非難されることは全くありませんよね。 それと同じように、初手で攻撃をした人というのは、これから起こる出来事が分かるわけです。 そこで相手から反撃を喰らうような未来を自ら選択したということはすなわち、これから何が起きても大丈夫・受けて立つという覚悟があるということです。 上例の罰ゲームと同じ理論であれば、覚悟にある人に対して仕返しをしても、喧嘩両成敗とはならないでしょう。 未来予想容易度=覚悟の度合いです。 未来をコントロールできる能力があるからこそ、私たちはどんな結果が来ようが大丈夫、という覚悟が必要です。 であれば、反撃した人が同罪になることはありませんね しかし何の覚悟もない(=未来をコントロールする事が不可能)人に向けていきなり殴りかかったり、罵倒を浴びせたりする行為は許されるべき行為ではないでしょう。 ですから私は行為ではなく、順番に焦点を当ててます。 しかしながら、覚悟があるからこそ何をしてもいい、とは限りません。 その人がどれくらいの未来を予測できているかは脳みそをカチ割って見ないと分かりませんので、罰ゲームを受ける覚悟のある人を殺してしまうのは、間違い、ということです。 私は今のところこの自論が結構正しいのではないかと勝手ながら思っているのですが、それを判断する人が周りにはいませんので、皆さんのご意見・判断をお聞かせください。 私の自論よりも納得のいく理論をお持ちであれば是非とも教えていただきたいです。 私が知りたいのは誰でも言い負かすことのできる「最も正しい理論」であり、間違っているのなら今すぐに訂正します。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- dekapai
- ベストアンサー率27% (96/346)
なるほどですね、貴方の定義する悪は私が考える悪と似ています。 特に最下層を「死」と仮定するあたり感銘を受けました。 ですが最下層は人によって様々で、子を持つ親の中には自分の死よりも我が子の死をより最下層に捉える人もいます。 話を「Aを殺さなければ君は死ぬ」に焦点を当てます。 置かれている状況が「死」に直接結びつく場合にのみ、「悪」ではなくなる。と結論付けされていますね。 ここで、また一つ問題を意地悪に変えてみます。 登場人物は3人で 1人目は貴方のおっしゃる悪人 2人目は不運にも拉致された美人 3人目はこれもたまたま拉致された不運な男性 悪人が美人に 「貴方の頭を丸坊主にして落書きした上でその写真・動画を全世界に向けてWEBで発信する」そうしなければ男性を殺す。 ただし、殺すところは貴方を含め、他の誰も見えない場所で行い、貴方に非難が行かないようにするが、どっちを選ぶ?。 と問われたと仮定します。 貴方の例題との共通点は2人目の女性の判断によって3人目の生死が分かれるというところが同じです。 そうした時の女性の判断がどうなのか? 1万人中1万人が男性を助けるため頭を丸め落書きをされweb上に乗る事を承諾するのか? 知りもしない見えもしない人を救うのか? 仮に救った場合、彼女の後の人生はどうでしょう? 就職や結婚、また通常の生活において変人のレッテルを張られかねません。 仮に拒否した場合この女性は本当に「悪」なのか? 私にはわかりませんが、確実に言えることは、男性を助けないと判断した女性に対し、3人目の男性としては「人の生死と自分の見てくれを天秤にかけ人助けできない人は極悪人に映る」だと思います。 今回も極端な例で、貴方の意図するところとは違った切り口かもしれません。 ですが、私が言いたいのは「悪」を定義するのは難しい。 特に世の中は勧善懲悪ではなく「多くの事に、双方正論がありその正論同士がぶつかることがあります」ですので、個人の主観とか置かれた背景、また、時代的な背景、そして、片方の判断によって不運に見舞われた人の立場、またその周囲の考え方という風な観点から見ても「悪」が証明されなければならないのかな?と思います。 ですので私の考える悪は「時代や世代、その時の常識にとらわれず、意図的に人や物、世界を不幸にする要因で、かつ、被害を受ける側が純粋で潔白かつ善良なこと」だと思います。 これは私個人の主観です。貴方の考える「悪」と一部交わる部分もあれば完全に反発する部分もあると思います。 そのように人が持つそれぞれの悪の印象、地球をはじめとする環境に対しての悪意、歴史的背景を鑑みた時の悪の要因といったもの全てを、それぞれが思い浮かべた物を総称して「悪」と言うのかもしれません。
- KUMADEKA
- ベストアンサー率42% (60/141)
この悪の定義だと、過失も悪に含まれてしまうことになりませんか? 多くの人はここまで考えずに生きていると思います。 考えは立派です。ただここまで考えずに、もっと気楽に生きている多くの人は、よくよく考えると、予測できるはずの未来でも、よく考えないでサクッとやってしまう場合が多く、それは、悪ともいいきれないのではないでしょうか? 悪とはもっと、故意に狙ってやるものではないでしょうか? ここまで範囲を広げてしまうと、気楽に行動に移せないことで、気分が落ち込んでしまいかねないような気もしました。 でもそれが予想できたとしても、私はそれを悪とは思いません。 全体的にすごくよく考えられていて感心したもので、あえて意見を述べさせてもらいました。
補足
ご意見ありがとうございます。 また面白い視点からのご意見でしたので、私なりに考えて補足させていただきます。 【 ※ 相変わらず、長文です。】 過失に関しましては、本当にその人の脳みそを調べない限り、その人が果たしてどのレベルまで未来を予測できてるかは分かりませんね。 しかしながら、例えば悪い結果を予測して、毎回毎回注意はしていたが、確率的に悪い結果の発生回数が少ないと、未来を予測して取捨選択を行う必要性が極端に薄まり、だんだん注意することに飽きてきて疎かになってしまうのも無理はないので、あなたのおっしゃることも一理あります。 車の運転はいい例になるでしょうね。 毎日安全確認をしていたが、1000回やってもその確認が役に立たなかった場合、やらなくてもどうせ未来は同じであろう、起きもしない出来事のために行動するのが億劫だ、と思ってしまい注意を怠るのも無理はないですよね。 なぜなら、確率が低いからです。 もちろん確率が低いと、自ずと未来予知できる確率も下がりますよね。 ですから、低確率の出来事を予測して行動を起こすのは人間にとって難しいでしょう。 さて私は、先に起こる未来が予想できるのに、その人の勝手な理由で相手に損失を与える未来を選択することを「悪」と定義していましたが 例えば相手に与える現実世界での「損失」とSNS上での「損失」は必ずしもイコールではありません。 SNSの場合、現実世界とは違って画面の中で人と関わるため、言葉の攻撃力というものは現実世界で面と向かって直接言葉を投げかける場合と比べてかなり下がると思われます。 そのため、「嫌がるだろう」という未来予測は、あくまでも言葉の攻撃力が低いSNS上での予測であり、仮に相手へ罵倒を投げかけても、軽いすり傷程度にしかならないことの方が多い(あくまでも統計学的に多いだけ)のでそういう意味では完全な「悪」とは言い難いでしょう。 あとは、やはりこの世界では何が起こるか完璧には分かりませんし、私たちの脳も常にパーフェクトな状態で動いてるわけではないので、未来予知能力というのはその時々で(かなり)大幅にバラツキがありますし、外的要因によっても大きく変化するものだと思われます。 普段未来を予知する能力に相当長けている人でも、愛する人が亡くなればそのことに脳が支配されて、未来予知能力は著しく下がり、ほぼ予見不可能になります。 できるのにやらないのではなく、できないのです。 できないなら、それは「悪」ではなくなりますし、それを責めるのも、不当ですよね。 ▶︎ まとめますと (1) 低確率で発生する出来事に対しては未来予知能力が著しく低下します。 (2) 外的要因・コンディションによって未来予知能力は著しく低下します。 できるのにやらないのが「悪」であり できないのにやらないのは「悪」ではないので、あなたのおっしゃることは正しいです。
- dekapai
- ベストアンサー率27% (96/346)
とても納得しました。 出来れば2000字といわず、ずっと読みたいです。 なんかこういう考察っていいですね。 ただ、このまま終わったのでは貴方の考察についての私の感想になってしまいますので、ここで一つ提起をさせて頂けると、 貴方の例はすべて納得のいくものです。 ですが、(例4)の教室のお菓子ですが、与えられた条件を若干ひねると別物になります。 「飢餓状態にある人の前に食べるなの張り紙をして食べ物を置く」とかですね。 他人が人の物を取って食べるという観点から言うと同じ問題ですが、結果は明らかに変わってきます。 つまり、その教室で人のお菓子を取って食べた子の「日常」に焦点を当て、そのお菓子を取っても仕方のない状況にあったのか?なかったのか? それが生死にかかわるような場合必ずしも「悪」とは言えないのかもしれません。 そういう風に意地悪に読み込んでいくと、上げられた例題のすべてに何らかの条件があり、その条件下で言うならば「悪」が成り立つのかな?と思います。 そして、その「何らかの条件」とは一般常識の事かな?と思います。 表現力に乏しいのですべてを伝えきる自信はありませんが、 今の世の中は今の世の中に合致した一般常識があり、その一般常識という条件下でのみ成り立つ「悪」だと思います。 時代や立場が変われば考え方が変わり「悪」の概念も変わるのではないでしょうか? そういった考え方をすると、私の中の悪の定義は「時代や世代、その時の常識にとらわれず、意図的に人や物、世界を不幸にする要因で、かつ、被害を受ける側が純粋で潔白かつ善良なこと」という風に 悪の悪としての「加害」のみでははなく、被害を受ける側の定義も必要なのかなという気がします。
補足
鋭い考察ありがとうございます。 確かに、飢餓状態の場合、勝手に食べることが悪いことだと分かってはいるが、食べない未来を選択してしまうと、「死」が待っている。 とても考えさせられました。 私は「未来が想像できるのに、勝手な感情や都合で相手に損失を与える行為=「悪」」だとしました。 ここで重要なのは、「勝手な感情や都合」とは具体的に何か?という点ですね。 あなたの考察を受けてそこが曖昧であると気が付きましたので、改めて考え直して再定義してみました。 【 ※ またまた長いです。】 ーー「勝手な感情や都合」の再定義ーー ▶︎ 勝手な都合=その人をプラスに転じる要素・なくても生きれる要素です。 ここでプラスマイナスの概念を説明しますね。 プラス要素として挙げられるのは、例えば満足感・達成感・幸福感などです。 つまり無くてもいいものです。無くても生きれます。 その未来を選択することで得られる結果は、自分がプラスになるための都合の良い道具です。 これが「勝手な」という言葉の具体的な意味合いになります。 マイナスには最下層があって、それは「死」です。 しかしプラスには上限がありません。 温度と似ています。 そのため「死」に近づく要素は全てマイナス要素になります。 このマイナス要素というのはあっては困るため、排除する必要があります。 ゼロは通常・普通であり、存在している・生きている状態です。 この概念を踏まえた上で、食べなければ死ぬ、つまりマイナスの最下層に達する、という状況下では、食べた人とお菓子を放置した人の立場は等しくありません。 放置した人は、お菓子を食べられることで死にはしませんが、食べた人は食べなければ死んでしまいます。 そのため、たとえ勝手に食べたとしても相手への多少のマイナスは「死」と比べると大したことはありません。 しかし、お菓子を放置した人にとっては、犯人がまさか餓死寸前状態だったとは到底思わないわけで、元々は立場の等しい相手(食べる行為が勝手な都合になる人)に向けて「食べるな」という紙を貼った、と考えられます。 ですから、何も知らないその人にとっては「悪」になりますね。 事情を説明すれば許してもらえるかもしれません。 なんと言いますか、行為自体が「悪」という場合は私も存在しないと思われます。 その行為が他人の地位を下げるものだと分かっていて、なおかつ、地位を下げることで自分自身にプラスの効果をもたらす場合にのみ、その行為が「悪」と評されるのではないでしょうか。 ひとつ極端な例を挙げるなら、「Aを殺さなければ君は死ぬ」と言われた場合ですね。 相手の地位をマイナスの最下層まで陥れるものだと分かってはいるが、それをすることで得られるのはプラスの効果ではなく、あくまでも生存するというゼロの状態です。(しかし殺された相手はマイナスの最下層に陥りますが・・・) そのためこの場合、殺人という行為は「悪」になり得ないような気がします。 では貧乏なら金持ちの金を盗んでいいか? と言われるとそういうわけではないんですよね……。 置かれている状況が「死」に直接結びつく場合にのみ、「悪」ではなくかるのかなと思いました。 正当防衛はその一種ですよね。 私のこの考察は恐らく生物学分野になるでしょうね。 結局生物は死ぬのが嫌なので、意地でも生きようとします。 例え人の死を以ってしてでも。 しかし、意地を張らなくても死ぬことはない。そんな状況下の中、その人のエゴで相手を「死」へと近づける。 それこそが「悪」の真髄なのかもしれません。
良薬口に苦し 本当に自分のためを思ってしてくれる忠告は、 ありがたいが聞くのがつらい。
補足
ありがとうございます。 長い文を簡潔に短くするスキルが欲しいところです笑 一言で言いますと 「悪」とは 何が起こるか分かるのに、身勝手な理由で相手にダメージを与える行為だと思います。 嫌がるのは分かるのに(何が起こるか分かる)ムカつくから(身勝手な理由)やってしまった(相手にダメージを与える)
補足
補足に対する回答ありがとうございます。 ご指摘の通りですね。 最下層を己の「死」と位置付けるのはあくまで私の勝手な主観です。 おっしゃる通り、人によっては己の「死」以外が最下層になるケースもありますね。 万人の「死」に対する恐怖と、ある人の「死」以外を最下層とし、それに対する恐怖、というものが果たして全く同じレベルのものなのかどうか、というものは誰にも分かりませんし、恐らくその人のDNAを徹底的に調べ上げる、ことでもしなければ困難でしょうね。 その人にとっての何かに対する恐怖が己の「死」と同等ものであるならば、確かに私の定義した「死」に直接結びつく場合のみ「悪」ではなくなる。 という定義に当てはまりますので、これは「悪」ではなくなりますね。 しかし、そうであればその人にとって「死」が最下層ではなくなるため、「死」に対する恐怖が「死」を最下層とする人々に比べて薄いものだと思われます。 そのため例え己の「死」を以ってしてでもその何かを守るためもしくは避けるために判断を迷わないのではないかと思います。 ここは慎重に丁寧に、徹底的に調査される必要があるように思われます。 本当にあなたにとって「死」は最下層ではないのか? 本当に己の「死」以外のものが、己の「死」と同等のものであるのか? といった部分を万人に理解してもらえない限り、万人からは完全な「悪」と見なされるでしょうね。 また、最下層が己の「死」とそれ以外に対する恐怖の二つある場合(あり得ないとは思いますが。)、そこは無意識に人の本能が判断を下し、一番マシな選択をすると思います。(選択可能ということは、最下層が全く同じではないということになりますが…) 表現の仕方は違えど、大方あなたのおっしゃる悪の定義と根底は一緒な気がしますね。