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[ことば“遍在普遍”論理的意味疑問]

創造の唯一を説くるキリスト教では、神は遍在普遍であると述べます。 否定や批判をするのではないのですが、疑問に思うことがあります。 神は遍在普遍であるというなら、何処にも神が存在するという事になります。 無論、遍在普遍にして超越であると、超越なる語が加わることもあるのですが。 どにも存在するなら、何でも全てが神であるという事になりませんでしょうか? それとも遍在普遍とは、というかfeeling側の対する仕方の事を言っているのでしょうか? どうかお教えください。

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  • NOMED
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回答No.1

受信側の心持ち(感度)を指しているのでしょう 仏教にも同じように化身・応神という言葉があります これは、なにか自分に嫌なことがあった時、そのことには何かしらの意味があるものと捉える人は宗教的には感度が高く、感度が低い人は、そのことで人を恨んだり攻撃したりと、心が病んでしまいます 例として、誰かがOKWAVEで質問をして、攻撃的な回答であっても、そこから何かを学べる人は感度が高く、何も感じない学べない・無視する・逆恨みのような心を抱く人は感度が低い受信機しかもっていないことになります つまり、信仰心が足りない人は神を感じる感度は低く、そこに感謝もできない人であり、信仰によって感度をあげていくことが好ましいということです ので、全てのことには何かしらの意味が必ずあるはず・・と、仏教では言いますが、キリスト教などの偏在臨在の考えも、常に神を身近に感じられるように信仰しなさい・・という教えなのだと思います

krya1998
質問者

お礼

素晴らしい。 ありがとうございます。

その他の回答 (1)

回答No.2

実際に何でも全てが神であるという事なのです 個にして全、全にして個、すべてが神なのです

krya1998
質問者

お礼

素晴らしい。 ありがとうございます。

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