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陰陽道というのはいつ中国?韓国?から日本に伝来した

陰陽道というのはいつ中国?韓国?から日本に伝来したのですか? 日本で最初に陰陽道を伝えたのが安倍晴明なのですか? 安倍晴明が陰陽道をやる前までは日本に陰陽道という概念はなかったのでしょうか? ということは陰陽道の安倍晴明が産まれる以前の神社に鬼門、裏鬼門という概念はなかった。誰も知らなかった? 庶民に陰陽道を伝えたのが安倍晴明で安倍晴明の産まれる前から日本の天皇家や貴族は陰陽道を知っていて鬼門、裏鬼門の概念は知っていた?

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回答No.3

安部晴明は921年~1005年つまり平安時代の人とされています。 日本の陰陽道というのは古代中国の思想を基にして独自に発達した思想だとれています。 中国では土着の民族思想である道教に吸収されて陰陽道として単独には発達しませんでした。 古代中国の思想で儒教に関わるものは仏教よりもはやく百済からもたらされたとされています。 儒教の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)の専門家が516年に百済から派遣されてきたのが正式に日本へ伝わった初めとされています。 この易経の中に陰陽道の基になった占いや天文が含まれています。 道教が何時伝わったのかは仏教や儒教とは異なりハッキリしていません。 参考 陰陽道 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽道 抜粋 近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容され、中国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って日本特異の発展を遂げた結果誕生したものと考えられている。 >陰陽道の安倍晴明が産まれる以前の神社に鬼門、裏鬼門という概念はなかった。誰も知らなかった? 鬼門の考え方は日本では陰陽道に含まれていますが中国では堪輿(かんよ)あるいは風水と呼ばれて別系統の考え方です。 方位を元にして吉兆を割り振る考え方は易などに含まれています。 そのなかで東西南北の四方に神獣を割り振る考え方があり四神相応と呼ばれます。 北=玄武、南=朱雀 東=青龍 西=白虎などと神獣を割り当てています。 平安京に朱雀通りがあり古い平城京に朱雀門と呼ばれる門があったように鬼門という考え方は古くからありました。 平安京や平城京の都市としてのレイアウト(条里制)はこの四神相応の思想に基づいていると考えられています。 つまり安部晴明以前の天皇や貴族階級である皇族、公家衆は鬼門の概念を知っていたと考えられます。

gasshop2017
質問者

お礼

みんなありがとう 平安時代は安倍晴明の時代ですからね 知りたいのは平安時代前の長岡京と藤原京の時代のことが知りたいです

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その他の回答 (3)

  • oska2
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回答No.5

>陰陽道というのはいつ中国?韓国?から日本に伝来したのですか? 韓国の正しい歴史では「日本の文化は、全て韓国が教えてあげた」事になっています。 また、「韓国起源説」という下らない説が韓国には存在します。 「製鉄・稲作・羅針盤・印刷」などの技術は、古代韓国から近隣諸国に伝わった。 面白い説では、孟子・孔子も韓国人。習近平皇帝陛下も、先祖は韓国人らしいです。 世界の中心は、韓国です。(爆笑) 従って、韓国の正しい歴史・韓国起源説では「陰陽道は、韓国発祥」です。 >日本で最初に陰陽道を伝えたのが安倍晴明なのですか? 安倍晴明では、ありません。 安倍晴明の父親も、陰陽師です。 古代中国から直接若しくは朝鮮半島を経由して伝わった陰陽道は、日本でも独自に進化しました。 百済の王子だった中臣鎌足(日本に亡命)が、陰陽師を日本に連れてきたとの説もありますよ。 ※当時の百済は、新羅・高句麗から攻撃を受けていた。 ※蘇我一族は、全方位外交で百済救援部隊を送る事に反対。 ※中大兄皇子は、天皇即位を条件に百済救援部隊を送る事を承認。 ※645年。蘇我一族を殺害後、天智天皇に即位。百済に軍を派遣! >安倍晴明が陰陽道をやる前までは日本に陰陽道という概念はなかったのでしょうか? 陰陽道とうより、似た概念は存在しています。 >陰陽道の安倍晴明が産まれる以前の神社に鬼門、裏鬼門という概念はなかった。誰も知らなかった? 太陽・月・北極星・北斗七星などから、方位学が存在していますね。 今で言うなら「風水」ですかね。 >日本の天皇家や貴族は陰陽道を知っていて鬼門、裏鬼門の概念は知っていた? 安倍晴明が生まれる前から、既に陰陽道は学問・役所として存在しています。

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回答No.4

安倍晴明以前も陰陽道はありましたよ。 安倍晴明は加茂忠行の弟子と言われていますし。 加茂忠行の正確な生年は不明ですが、平安時代初期の生まれだそうです。 当時陰陽道は天文道・暦道・陰陽道の3つに別れて存在していましたが、暦の家の忠行がそれらを統合し、現代に伝わる「陰陽道」を確立したそうです。 それよりも前にも存在はしていました。 平安京(今の京都)は陰陽道の思想を元に作られた都ですし。 陰陽道の元になる陰陽五行説は仏教伝来と共に中国から直接あるいは朝鮮半島経由で入ってきたと言われています。 当初は漢文が出来る渡来人の僧侶が担っていたのですが、朝廷=神道にて使われるようになり、僧侶以外の俗人が担う必要になり、それを扱う者を「陰陽師」と呼ぶようになり、律令制の元「陰陽道」「天文道」「暦道」は朝廷にて管理・独占されるものとなりました。 藤原氏の祖である中臣氏は陰陽家でした。 鎌足の代の時に仏教や日本古来の呪術や呪禁を扱う部署を解体し、陰陽寮に統合したそうです。 陰陽師という言葉が出る前の人物ですが、厩戸皇子(聖徳太子)がそれに近いようにも感じます。

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  • kappa1zoku
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回答No.2

立て続けに質問をしていますが、今日はお休みの日ですか? 陰陽道とか鬼門、裏鬼門とか僕にはよく分かりませんが、本で読んだ神社の話を書きます。 「必ず常設の社殿の在るものでなければ、神社でない如く考えたのは明治以来といってもよく、又少しも根拠の無いことであった。」これは柳田国男の言葉だそうです。 「内地の社々の神も、古くは社を持たなかったに相違ない。社殿に斎かなかった神は、恐らく御獄と似た式で祀られていたものであろう。」これは折口信夫です。 >古代の神社の大方が、御獄同様の社殿のない森であったろうとは、『万葉集』において「社」と書いて「もり」と読ませていることが一つの傍証となる。『原始の神社をもとめて』岡谷公二著、平凡社刊より。 >それでは神社はいつごろから社殿が設けられるようになったのであろうか。一般には五世紀前半といわれているが、上田正昭氏は、奈良県北葛城郡の、四世紀後半のものと考えられている佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡に、祭殿と推定される建物が鋳出されているのを根拠に、四世紀前半の可能性を示唆している。 国家による社殿造営の命がはじめて正史に現れるのは、天武十年(681)のことで、『日本書紀』に書かれているそうです。 古墳などの出土品から、それ以前の社殿造営の可能性は考えられますが、今の神道の考え方がいつ頃出来たのか、或いはあなたの言うように鬼門・裏鬼門、はたまた陰陽道のような思想をいつ頃手に入れたのかは、僕の推測ですが、仏教の伝来を待って以降ではないかと思います。 つまり、自分達のプリミティブな自然信仰、神信仰がそれまではあったのに対し、体系的な哲学・思想を持った仏教の伝来をもって、はじめて自分たちが持っている神道の脆弱性(思想体系としても、哲学としても)が自覚されたのではないでしょうか。 いわば、古代人の転向思想が神道だと僕は思います。

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