陰陽師はNo.5・6の方が触れられているように、天文学や占いを司り、暦の編纂を行う専門家でした。陰陽寮と言う役所に所属していて、陰陽博士・天文博士・漏刻博士・暦博士があり、その下で得業生と呼ばれた学生が学んでいました。加茂家、後に阿部家がその長である陰陽頭に就任しています。
農作業は「暦」に従って実施されますので、精度の悪いいい加減な暦を用いると農産物の収穫に大きな影響を与えました。その為「暦」の作成は国家的な事業として位置付けられており、天文学と暦の編纂は当時の最先端の科学でもあった訳です。その知識体系は本来朝廷に独占されたものでした。
後代の陰陽道の流れになる「占い」も当時の政治を行っていく上で大変重要な要素でした。陰陽寮に伝わる「占い」は基本的に中国からの輸入思想で、方角神に代表される神々によって世界が構成されるとし、その祟りを避け恩恵を被る為の様々なテクニックが伝承されていたようです。「方違え」などは特に有名ですね。
ですから後に道教的なものが、「陰陽道」として宗教的になるにつれ前面に出てきますが、本来は信仰の対象とすべきものでもなく、私たちが意識しようがしまいが、まったく関係なく存在するモノたちと、折り合いをつけて生活していくテクニックの集大成だったものです。
こうした「占い」に関する知識やテクニックも、「暦」と同様に全て朝廷に独占された知識体系でした。従って一神社に伝承されるべきものではなく、古い神社に陰陽道系が少ない理由だと思われます(清明神社の創建が1007年ですが、本来は阿倍清明の奉賛神社ですね)。
お礼
陰陽道は現代人が見たらやはり迷信だと思う人が多い筈ですし、現在までは伝承させていく事は難しい事だったみたいですね。でも土御門家の建物が存在してたのには、少しビックリしました。回答頂き有難う御座います。