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あらゆる社会的問題は国民みんなの為にある。

私は一つの発見をしました。それはあらゆる社会的問題は国民みんなの為になる答えこそが正しいのだ、ということです。そもそも国民の為にならない答えなど答えではありません。 消費増税も国民の為に上げるべきだ、上げるべきでないと議論になっています。憲法改正も国民の為に改正すべき、改正すべきではないと議論されています。いじめ問題も、教育問題もすべて国民みんなの為になる答えこそ正しいのです。このようにあらゆる社会的問題は国民の為にあるのです。これは大きな発見です。 今まで死刑問題は人権に合わないから死刑は正しくないという人もいます。また人の命は命で償うべきだから死刑は賛成だ、などと議論されてきましたがそれは間違いです。そうではなくあらゆる社会的問題は国民みんなの為になる答えが正しいのです。どうすれば国民の為になるのか、犯罪が減るのかと議論すればいいのです。人権などに合致しないから死刑は間違っているというのは間違った議論です。 また日本では核問題については核廃絶が正しいとされています。しかしそれは間違いです。核を持つことが国民の為であるならば核を持つことが正しいのです。核を持つことが国民の為にならないならば核を持つのは間違いとなるのです。核廃絶が正しいと決めつけていないで、どちらが国民の為になるのかとみんなで議論すべきなのです。 このようにあらゆる社会的問題は国民の為という視点をもって議論すれば国民の為になる正しい答えに辿り着けると思うのです。 この考えに対して皆さんどう思いますか?教えてください。

みんなの回答

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.1

ま、おおかた合ってるとは思いますが…、 「国民の為」とは言っても単に「国民」と言い切ってしまっては、それじゃぁ意味が曖昧ですね。 「一人の国民」では意味ないし、「全ての国民」とするのは無理でしょう。 そもそも「社会的」問題と言うのですから「社会の為」で良いのではないでしょうか。 「社会」と規定すれば社会全体の人々が大なり小なり「納得」或いは「妥協」することで成り立つものですから、 「社会の為」で論理は成立するんじゃないですか? 「社会の為」としておけば、多くの人々が「納得」したり「妥協」できるよう議論することが、 「社会」全体、つまり「多くの人々」の利益に繋がるということで良いのではないでしょうか? …考え方としては間違ってないと思います。 ただ、 思った事を言葉にした時、その言葉は受け止める人の解釈次第で様々な意味を持って一人歩きを始める。 そういう事を考え合わせることも必要でしょう。 社会的な問題は「社会全体の利益が多くの人々の利益に繋がる」…という考え方に基づいて議論されるのが一般的です。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 >そもそも「社会的」問題と言うのですから「社会の為」で良いのではないでしょうか。< 社会の為という方が曖昧ではないでしょうか。消費増税は財務省の為でも政治家の為でもなく国民みんなの為にと考えなければならないと言いたいわけです。社会の為というより国民みんなの為にやりなさい、国民みんなの為と考えなさいと言う方がいいのではないでしょうか。

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