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浄土真宗における菩薩について

蜂屋賢喜代という人の四十八願講話という本に41願の「わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。」の説明で、「他の国の菩薩というのは、信心決定した人のこと。信心決定すれば、体に障害を負うことはない」と書いてあったのですが、これは暴論じゃないですか?「そうなっているので仕方ない」と書いてありましたが、私の知り合いに、信心がハッキリしていても盲目になったお婆さんがいます。その人は救われないということでしょうか?私自身も、耳が遠く、医学的にこれから聞こえなくなる可能性がありますが、そうなったらこの信心は嘘ということになるのでしょうか?そうなると、「誰でも等しく救う」という弥陀の誓願は嘘になり、障害のないものを救うというものになってしまうと思うのですが… 親鸞聖人も愚禿抄の中で 本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり と仰っていますが、これは比喩表現なのでしょうか?

みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.3

>これは暴論じゃないですか? 暴論と言えば暴論。暴論でないと言えば、暴論ではない。 宗教は、それぞれの解釈で何とでも都合の良い回答が出来ます。 特に、日蓮宗は「他宗派を攻撃」する事で有名ですよね。 本山から破門された創価学会初級教書にも「他の宗派は、間違っている」「先生の教えに反すると、地獄に落ちる」と書いています。 まぁ、宗教為政者の都合の良いように解釈できるのが宗教です。 >信心がハッキリしていても盲目になったお婆さんがいます。その人は救われないということでしょうか? その婆さんは、救われますよ。 親鸞が未だ、法然の教えを信じて浄土宗を広めていた時の事。 1.法然の教えを聴きに来るのは、裕福な者が多い。 1.法然の教え(法話)は、日中に行っている。 1.一般庶民は、日中は作業をしていて法話を聴きに来る余裕はない。 1.これでは、多くの者は救われない。 1.「南無阿弥陀仏」を唱えれば、極楽浄土に行ける。 1.病で声が出なくなった者は、極楽浄土に行けないのか? 1.未だ話す事が出来ない乳幼児は、極楽浄土に行けないのか? 1.肉体的精神的病を持った者は、極楽浄土に行けないのか? など、色々な矛盾を親鸞は考えた様です。 結果、誰でも「阿弥陀如来を、心で信じるだけで良い!」との結論に達した様です。 ※法蔵菩薩が「私の方から、助けを求める全ての人を救う」と悟りを開いて阿弥陀如来になりました。 ※他力本願。 ですから、浄土真宗には「占い・おみくじ」「祈祷」「朱印」「お守り」は一切ありませんよね。 >これは比喩表現なのでしょうか? 色んな考え方がありますね。 ただ、どれが正解でどれが不正解かは誰にも分かりません。 あの世から帰還した人は、居ないのですから・・・。 ただ・・・。 どの宗教・宗派も「目的は、同じ」です。 富士山に登るのも、複数のルートがありますよね。 自分の考えに合った道を選べば良いだけの事。 四国88個所札所・西国33個所札所も、色々な宗教・宗派で構成されていますよね。 例えば、四国88個所。弘法大師を祀っていながら、全ての寺が真言宗ではありません。

hatsukoix
質問者

補足

そのエピソードはどこに載ってるでしょうか?

回答No.2

きょうはずっと脚がつらかったんですが 今度は浄土真宗が問題な尾でh層化。 しかし浄土真宗はどちらか得地がウンドエスか。いえばじょうはんしんなおでh

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.1

私は他宗派の信徒ですが、浄土真宗とは、阿弥陀仏の本願に基づき、観仏や念仏によって穢土(えど)であるこの娑婆世界を去って、阿弥陀仏の極楽浄土に往生しようと願う教えです。釈尊(お釈迦様)は「無量義経」に「四十余年には未だ真実を顕さず」と説き、「法華経」には「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と説いて、四十余年の経教はすべて法華経に導くための方便であり、法華経のみが真実の教えであると明かしています。ですから浄土真宗の教えそのものが、釈尊の教えに背反している訳です。この念仏を信仰する事はまさに無間の業を積む所為にほかなりません。

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