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「自ずから満ちる」という言葉はどこから来たのか?
京都の鈴虫寺の説法だったような気がするのですが、 ・いろんな物事を抱えていたら新しいものは入ってこない ・手放して、空間を作ってあげたら、自然とその空間に新しいものが入ってくる ・まずは抱えているものやこだわりを手放してみて ・そうすると、新しいものが自然にやってくる といった話を聞いて「自ずから満ちる」という言葉として覚えています。 どこから来た言葉なのか、背景をもう一度知りたいなと思っているのですが、ご存知の方いらっしゃいますでしょうか。
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「自ずから満ちる」という言葉そのものの由来は知りません。 ただ御質問で挙げられた考え方は古代インド人が考えた考え方である一方で老子の「無」の考え方でもありました。 お寺さんにとっては古代インド人の考え方というのはそれに基づいた仏教の考え方ということになりますのでお釈迦さまの言葉だということになるかと思います。 古代インドで使われていたサンスクリット語では容器に水がないという表現ではなく容器に水の無があるという表現をしまます。 一方老子は容器が空であれば容器として役立っていないので容器の内側の空間は無であると考えました。 容器に水が満たされていれば他の物を入れることが出来ませんが、空であれば水でも油でも酒でも入れることができます。 つまり空だからこそ役に立つと考えることが出来ます。 これを老子は無用の用という言い方で表現しました。 菩提達磨が伝えた禅では悟りの境地を大切にしますが、悟りを開くためには今まで持っていた常識や分別(判断)は全て捨てて所謂無念無想になることが必要であるとされています。 これによって悟りの境地という満ち足りた境地に達することができるとされています。 これを無分別の分別という表現をします。 禅宗では悟りの境地は言葉(文字)では表せない、従って言葉で教えることができないので言葉で教えていることのいわば言外の意を習得しろとしています。 これを不立文字、教外別伝という表現をします。 つまり自分自身で修行して自分自身の力で悟りを開く以外に方法はないということになります。 質問者さんは、禅宗の一つである臨済宗のお寺の松虫寺でこれを聞かれて「自ずから満ちる」と理解されたのではないのでしょうか。 もしご興味があれば 新釈般若心経 宮坂宥洪著 角川ソフィア文庫 という書籍があります。 著者はインドでサンスクリット語をマスターした仏教学者です。 上記の書籍も般若心経をサンスクリット語で解釈したもので市販の漢文表記を基にした解説書とは異なる解説をしています。
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この鈴虫寺というのは、「臨済宗」の禅系の宗派です。貴方が仰る「自らが満ちる」という言葉は、どのような事を言っているのか?この禅宗系の教えにも出て来ません。禅宗系の宗派は、経典を用いず座禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。確かに衆生はすべて仏とも言えますが、それは単なる理論上の仏であって、実際の仏ではありません。三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずる事は出来ません。だからこそお釈迦様は「涅槃経」に「願って心の師となるとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでは無い、と誡められているのであります。完全無欠の仏を蔑にして「是心即仏・即心是仏」などと凡夫の愚痴無慚の心をもって「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗系の教えは随分と増上慢な教えと言えましょう。話がずれました。済みません。
お礼
一読して理解するには広い背景が広がっていることを感じましたが、新しいものの見方を知ることができました。 ご回答ありがとうございます。
お礼
詳細なご回答ありがとうございます。 様々な教義、考え方、背景がありながら、その根底に共通する点があるようにも感じられました。 以前より一歩進んでよりよい理解ができたように思えます。 教えてくださいましてありがとうございます!