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日本史最後の内戦。
日本の歴史で最後の士族の戦争である西南戦争ですが、西郷軍が政府軍に勝利する可能性はあったのでしょうか? 「勝利」というと曖昧な表現ですが、西郷軍が九州に展開する政府軍に勝つだけではなく、東京まで進軍できる可能性はどれくらいなのでしょうか? 歴史に「もしも」はキリがないはのはわかりますが、回答お願いします。
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軍隊というのは先に進めば進むほど戦力は先細りしていきます。占領地の治安を維持するために少しずつ部隊を残していかなければならないからです。 また進軍するためには費用がかかります。兵士たちは少なくともメシを食わないといけませんからね。食料を手に入れる方法は二つで、ひとつは対価を払って購入すること。もうひとつは略奪することです。購入するならお金が必要ですし、略奪したら人心を失うでしょう。 そしてなにより、西郷軍には海軍兵力がありませんでした。海軍がない以上、九州から先に進軍することはできません。仮に関門海峡を渡れて山陽道沿いに進軍しても、新政府軍の海軍が後方攪乱をしたらそれを防止する術がありません。 しかし、もし田原坂の戦いに新政府軍が敗れて九州からの撤退を強いられたら、その「政治的な効果」は極めて大きなものになった可能性はあります。 少なくとも九州全土はほぼ西郷さんの勢力下に入ったことでしょう。そしてそのことが全国に知られれば、全国各地の不平士族が次々に決起した可能性があります。こうなるともう当時の新政府では全国の治安を維持できなくなるでしょう。そしてそうなれば、当然今度は新政府軍の中から西郷さんに同調する勢力が現れて、もうそうなったら新政府軍も瓦解して政権は持たなくなったでしょう。 西南戦争では、新政府軍は田原坂に戦力の逐次投入をしています。これは一般的に下策とされていますが、それでもそうしたのは、田原坂を越されると一気に戦線が瓦解してしまう危険があったからです。 とはいえ、西南戦争の帰趨は田原坂の戦いそのものより、熊本城の攻略に失敗した時点で既に白黒あったと思います。結局熊本城監視のための兵力を置かなければいけなくなりましたからその分田原坂に投じることができた兵力は減りました。熊本城攻防戦のために田原坂への進軍も遅れましたから、兵力的なロスだけではなく、時間的なロスもありました。どちらかというと時間的ロスのほうが致命的だったと思います。 熊本城に行ったことがありますが、あれは確かに天下の名城ですね。市街地は城から見て東南の下通と呼ばれる界隈ですが、防衛部隊指揮官の谷干城は市街地を焼き払いました。そのため市街地は砲射撃の射線が通ることになり、こちら方面(一般的に観光客が見学に入るルート)からの攻略は不可能となりました。北側は天守への最短ルートになりますが、ここは急峻な地形でしかも撃ちおろせるようになっており、とてもこちらからの力攻めは不可能。攻略するには史実と同じ西側の藤崎台球場から攻めるしかありません(こちら側が一番地形がなだらか)。しかしそれは谷干城も分かっていますから、この方面に一番精強な部隊と大砲を配しました。西郷軍は大砲の威力と射程距離で防衛軍に劣っていましたから、砲撃戦でアウトレンジされたので攻略はかないませんでした。 西郷隆盛は「政府に負けたんじゃない。加藤清正に負けたんだ」といったなんて伝説がありますが、それはあながちウソでもないと思いますよ。
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- tzd78886
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西郷軍は軍票「西郷札」を大量を支払いに充てて兵糧などを購入しています。これらは西郷個人の信用だけが価値の根源ですから西郷が死亡すれば全くの無価値になります(その後の骨董的な価値は別にして)。税金で戦費を捻出できた官軍に勝てるはずはありません。西郷個人が全国的にどこまで元士族の信頼を得ていたかといえば、元幕府側など必ずしもそうとは言えませんし。
お礼
回答ありがとうございます。 西郷札の存在は初めて知りました。 その事を知っただけでも勉強になりました。 回答してくださりありがとうございます。
- あずき なな(@azuki-7)
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西郷は負けると分かってて挙兵しました 彼自身は政府軍と戦うつもりは無かったけど 薩摩の武士や自分を慕う者たちに推されて仕方なく って感じです
お礼
回答ありがとうございます。 歴史の漫画ではそういう場面がありますよね。 美談みたいになってますけど。 巻き込まれて死ぬ人は嫌です^^;
- ichikawa2017
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>西郷軍が政府軍に勝利する可能性はあったのでしょうか? どこの国の何時の時代の戦争でも勝敗は時の運というか水物です。 このような意味からすれば勝つ可能性が全くなかったとは言い切れません。 佐賀の乱以降 神風連の乱、月の乱、萩の乱など不平武士による反乱が頻発していました。 西南戦争のさいにも福岡で西郷軍に呼応する形で福岡の変が起きていました。。 下北半島には会津戦争で敗れた会津藩士による斗南藩がありました 又地租改正に反対する農民一揆が茨城・三重・愛知・岐阜・大阪・熊本で頻発していました。 もしこれ等の連中をかつての薩長同盟のように西郷の元に終結させるか西郷軍の挙兵に呼応して挙兵させていれば政府軍の手に余って勝てたでしょう。 西郷軍単独でも熊本城に拘らず北上して大阪城を陥落させていれば勝てたでしょう。 >東京まで進軍できる可能性はどれくらいなのでしょうか? 上記のような各地の不平武士を引き入れずに東京を目指しても鎮圧されていたでしょう。 各地の不平武士や農民を引き入れながら進軍できれば勝てたでしょう。 あるいは楠木正成や真田幸村のようにゲリラ戦を展開していればすくなくても九州一円は西郷軍のものになっていたでしょう。 こうなれば、政府軍から離れる者も出て勝つことができたでしょう。 西郷は自分が育てた軍隊=政府軍と戦って勝てるとは当初から考えていなかったと思われます。 負けることを前提に捨て身で戦いましたので政府軍にも多大な死傷者が出ました。 不平武士に武士としての死に場所を提供してやること以外に不平武士を抑え込むことはできないと考えていたと思われます。 明治政府を倒す意志などなかったということです。 上記しましたような自分が勝つための政治工作の類を一切やっていません。 このことから明治政府のために不平武士を一掃しようとしていたのではないかと考えられています。
お礼
回答ありがとうございます。 どのみち西郷軍が全面的に勝利するにはリスクの山ですね。 回答ありがとうございました。
- meido2010
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勝てません。 旧式の銃と刀剣のみの薩摩軍。 それに比べて最新式の銃と大砲で遠距離から攻めることができる政府軍。 勝敗はやる前から決まっていました。 西郷隆盛が陸路を辿ったのは、いずれにしても負け覚悟の戦だったので しょう。海路で行っても同じこと、東京湾で上陸できなければ東京から 遠地で船を降りて陸路を行かなくてはならないから結果は同じです。
お礼
回答ありがとうございます。 西郷軍は刀、槍、火縄銃、旧式の大砲などで。 政府軍は最新式の銃、大砲ですから差がありまくりですよね。
- kitasaitama0101
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最初から戦争ではなかった可能性がある。 西郷さんは、政府の人間だったのではないかと最近唱えている人がいます。 士族が勢いがあり何故その後ひっくり返る戦争になったか。 西郷さんは、ウラジオストックなぜ生きていたか?何故西郷さんの写真は実在しないのか?上野・鹿児島の像の顔はなぜ違うのか? この辺りを考えると西郷さんは政府の人間であり士族は顔を知らなかったのではないかと言われています。 YouTubeの動画をみて学校で習ったことと照らし合わせると私のいっている内容がそうなのかもとこれなら勝てないよねと思ってくると思います。 信じるか信じないかは貴方のお考えで。(過去は変わりませんから) 1)西南戦争はやらせ?西郷隆盛は死んでいなかった https://www.youtube.com/watch?v=hBDpu8yK98o 2)西郷隆盛は生きてロシアへわたった!? https://www.youtube.com/watch?v=mvdRUwPQgVI 3)ウラジオストックで語られた「西郷生存説」とは https://www.youtube.com/watch?v=Oz5anQUrOZU
お礼
回答ありがとうございます。 昔、テレビやネットの掲示板で西郷隆盛が西南戦争で死なずに生きているという「陰謀論」を見ました。 実際はどうなんでしょう(;^_^A 回答ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 島国の日本でも決めてになるのは地上での戦争ですから。壇ノ浦の戦いみたいに海上での合戦などは例外として、西南戦争でも地上での勝利が必要ですよね。 東京占領が必要ですから。