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German Squadron's Journey in WWI
- The German squadron, led by Admiral Spee, left neutral Chile within 24 hours and moved to Mas Afuera, off the Chilean coast.
- They received news of the loss of SMS Emden and the fall of the German colony at Tsingtao in China.
- The squadron then sailed to Cape Horn, anchored at Picton Island, and scuttled a captured British vessel.
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>As required under international law for belligerent ships in neutral countries, the ships left within 24 hours, moving to Mas Afuera*, 400 mi (350 nmi; 640 km) off the Chilean coast. There they received ~ to Admiral Spee. ⇒(ドイツ軍の)船は、中立国(領域)内における交戦国の船舶に対する国際法に基づく要求にしたがって、チリの海岸から400マイル(350海里;640キロ)のマス・アフエラ*に移動した。そこで彼らは、あらかじめ戦隊から離れてインド洋で襲い回っていた巡洋艦SMS(ドイツ帝国戦艦)エムデン号喪失のニュースを受け取った。彼らはまた、自軍の母港としていた中国青島でのドイツ軍植民地の崩壊について知った。11月15日、この戦隊はチリの海岸にあるサン・キンティン湾に移動した。そして、そこで第2級鉄十字章を300人の乗員に授与し、第1級鉄十字章をシュペー提督に授与するための授与式が行われた。 *Mas Afuera:スペイン語で「もっと外へ」の意。 >Spee's officers counseled ~ the Drummuir, and hunting. ⇒シュペー軍の将校たちは、ドイツへの帰還を助言した〔要出典〕。艦隊は、コロネル(の戦い)で弾薬の半分を使ってしまっていた。補給もできず、石炭を入手することすら困難であった。諜報機関の報告によると、英国船のHMSディフェンス号、コンウォール号、カーナーヴォン号はラプラタ川に駐留しているとのことだが、最近スタンレーに汽船が訪れた際、英国軍艦はいなかったという。シュペーは英国の戦艦キャノパス号に関する報告を気にしていたが、その所在場所は知られていなかった。11月26日、艦隊はケープホーンに向けて出航し、12月1日に到着したが、その後ピクトン島に停泊し、そこで攻略した英国軍のコリアー号、ドラムミュア号から石炭を配給し、(物資などを)渉猟した。 >On 6 December, the British ~ to reinforce his squadron. ⇒12月6日、英国船が浸水沈没し、乗組員は補助船のセイドリッツ号に移送された。同日、シュペーは、ドイツ帰還の途につく前にフォークランド諸島を襲撃することをドイツ軍に提案した。戦隊は現在、積めるだけの分量と同じくらい多くの石炭を持っていたので、襲撃は不要であった。シュペー配下の船長らは大半が急襲に反対したが、それにもかかわらず彼は続行することに決めた。10月30日、艦隊の提督ルイス・バッテンベルク王子に代って、引退していた提督ジョン・フィッシャー卿が再任された。彼はかつて英国海軍を奔走させていると認められたドイツ王子に対して公然と抗議したために辞任を余儀なくされたのであった。フィッシャーは、11月3日、シュペーがバルパライソを見放して南アメリカ東海岸を巡回パトロールするために派遣されていた防衛隊に命じてクラドック隊を強化する行動をとるだろう、と聞き及んだ。 ※この段落は構文がむずかしく、歴史的背景に関する知識もほとんど皆無なため、訳出に難儀しました。認識や語学力不足のせいで誤訳があるかも知れませんが、その節はどうぞ悪しからず。 >On 4 November, news ~ squadron from Invincible. ⇒11月4日、コロネルでの敗北のニュースが届いた。英国海軍の名声にとって痛手となったことは明白であり、英国国民はかなりショックを受けた。結果として、戦艦インヴィンシブル号とインフレックシブル号は大艦隊を離れ、オーバーホール(分解点検修理)のためにプリマスに向かって航海するよう命じられた。海軍本部の参謀長は、副提督のドヴトン・スターディーであった。フィッシャーは、スターディーとの長年の意見の相違を抱えていた。それというのも、スターディーは1911年に海軍大臣としての彼フィッシャーの早期解任を要求していた人たちの一人だったのである。それでフィッシャーは、この機会にスターディーを南大西洋と太平洋の司令長官に任命して、彼に戦艦インヴィンシブル号に乗って新しい戦隊を指揮するように命じた。
お礼
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