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江戸後期。瀬戸内海・大阪湾の船便。定期航路。

四国の「金毘羅詣り」が盛んになって、大坂―丸亀間には定期航路があったそうです。 では、四国―九州―西日本(山陽路)相互間に定期航路はあったのですか。 定期航路がないとすれば、九州から京・大坂へ向かう旅人は、どんな手段で海を渡ったのですか。 また、どのルート(どこの港からどこへ)を通ったのですか。 豊後・日向からだと四国を経由したのですか。 参勤交代ではなく、ふつうの旅人(商人を含む)の場合です。 よろしくお願いします。

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  • jkpawapuro
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回答No.2

まず定期航路といったのはどういう意味でしょうか? 客船が運航していたかくらいの意味かな? 毎週○曜日の何時何分みたいなやつは蒸気船の時代ですので明治の初期になります。当時の三菱商事、現日本郵船の社史を紐解くことになると思います。 江戸時代ですと金毘羅船と呼ばれる参詣船が大坂丸亀間や下津井多度津間を走ってますのでそれを利用することになります。もちろん帆船ですので風任せで所要時間もばらばら、港では船がいっぱいになれば出港するような形と思います。 山陽路九州方面の場合は、急ぎの人は北前船や福岡藩、肥前藩、長州藩あたりの廻船がひっきりなしに走ってるのでそれに頼み込んで乗せてもらうことになると思います。ですが江戸時代の参詣というのは大抵が観光旅行ですので、山陽路を歩くのが基本でしょう。黄門様みたいに歩いて諸国を回ることが庶民の一生に一度の?楽しみなんです。 すいません、豊後・日向からのルートは想像もつきません。 庶民は山陽路の歩き旅を楽しんだかと思います。 商人は薩摩船に乗せてもらえれば効率的なんでしょうが、薩摩船はよそ者乗せないでしょうし・・・。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 定期航路というのは、「客船が運航していたかくらいの意味」で使いました。 「風任せで所要時間もばらばら、港では船がいっぱいになれば出港する」が、その港で待っていると必ず船は出るといった感じです。 長門・周防・安芸・備後・備中(今の山口・広島・岡山県)から四国へは、下津井から多度津へ渡る以外に、定期便のある航路はなかったのだろうか、という疑問です。 九州から下関へは定期便があったのだろうと思います。 しかし、別府あたりからも定期船が出ていたのかも、という疑問です。 また、「北前船や福岡藩、肥前藩、長州藩あたりの廻船」に頼み込んで乗せてもらうということも想像はできますが、疑い深い私は何か一つでも事例があればと思っています。

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  • oska2
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回答No.1

>四国の「金毘羅詣り」が盛んになって、大坂―丸亀間には定期航路があったそうです。 その通りですね。 大坂から山陽沿岸を走行して、下津井から丸亀へ向かっていました。 多くの参拝者が、金光院松尾寺に向かっています。 ※金毘羅大権現は、真言宗金光院松尾寺の仏様。 ※明治の廃仏毀釈で、金光院松尾寺は廃寺。境内一帯は金刀比羅神社に変身! ※同時に、金光院松尾寺の坊主も(一人を除き)坊主から神主に変身! ※同時に、仏である金毘羅大権現も破棄。 ※金刀比羅神社には、既に金毘羅大権現は居ません。^^; >四国―九州―西日本(山陽路)相互間に定期航路はあったのですか。 実は、存在しました。 質問者さまも中学の授業で習ったと思いますが「北前船」の航路と似ています。 大坂から坂田(若しくは、蝦夷)までの航路ですよね。 九州の諸藩も、参勤交代で瀬戸内海航路を利用していますよ。 韓国の正しい歴史で記載している「野蛮な日本人に、最新文化を教えたあげた朝鮮通信使」が江戸へ向かった航路も山陽側沿岸を航海しています。 ※この間違った教育の結果、朝鮮通信使が日本に行かなければ「今でも、日本人は石器時代の文明のままで野蛮な民族のままだ」と、多くの韓国人は信じています。(爆笑) >豊後・日向からだと四国を経由したのですか。 多くは、四国は経由していません。 古代の神話「神武東征」でも、山陽道の沿岸を進んでいます。 四国側の海域は、潮の流れが複雑で急な波が多発します。 安全を考えると、どうしても山陽側沿岸を航海します。 >参勤交代ではなく、ふつうの旅人(商人を含む)の場合です。 普通の庶民も、同じです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 北前船は、シーズンが限られますね。 たいていの場合は、大坂へは11月頃に着くようです。 それに旅人も乗船できたのでしょうか。

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