- ベストアンサー
ターキーシリア第一次世界大戦後の状況
- ターキーシリアでは、第一次世界大戦後、トルコ国内での独立戦争が勃発しました。この戦争でトルコはギリシャ、アルメニア、フランスと戦い、現在のトルコとほぼ同じ領土の独立を果たしました。
- また、トルコはソビエト連邦とのモスクワ条約、フランスとのアンカラ協定、アルメニアとのアレクサンドロポリ条約、カルス条約など、独自の国際関係を築きました。
- さらに、イギリスとの中立地帯での戦闘やチャナク危機などの紛争がありましたが、最終的に1923年のローザンヌ条約でトルコに大きな領土が返還されました。この条約は、セーヴル条約を代替し、経済的交流の範囲をフランスとイタリアに制限し、コンスタンティノープルは国際都市とならず、トルコとブルガリアの間に非武装地帯が設けられるなど、セーヴル条約とは異なる条件が含まれていました。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>The latter expressed disdain to the Treaty and started a military assault. As a result, the Turkish Government issued a note to the Entente that the ratification of the Treaty was impossible at that time. Eventually, Mustafa Kemal succeeded in his fight for Turkish independence and forced the former wartime Allies to return to the negotiating table. ⇒後者(ムスタファ・ケマル)は条約に対する軽蔑を表明し、軍事攻撃を開始した。その結果としてトルコ政府は、当座のところ条約の批准は不可能であるという通知を協商国に発したことになった。 ムスタファ・ケマルは最終的に、トルコの独立のための戦いに成功し、戦前の連合国は交渉のテーブルに戻らざるを得なくなった。 > Arabs were unwilling to accept French rule in Syria, the Turks around Mosul attacked the British, and Arabs were in arms against the British rule in Baghdad. There was also disorder in Egypt. In course of the Turkish War of Independence, the Turkish Army successfully fought Greek, Armenian, and French forces and secured the independence of a territory similar to that of present-day Turkey, as was aimed by the Misak-ı Milli*. ⇒アラブ人はシリアでのフランス統治受け入れに対して不本意であり、モスル周辺のトルコ人は英国人を攻撃し、アラブ人はバグダッドで英国支配に対して武装していた。エジプトでもまた不服従の動きがあった。「トルコ独立戦争」の過程で、トルコ方面軍はギリシャ、アルメニア、フランス軍との戦闘に成功し、ミサク-イ・ミリ*が目指していた今日のトルコと同じ領土の独立を確保した。 *Misak-ı Milli「ミサク-イ・ミリ」:アンカラにあるアタテュルク廟で、政治の中心。 >The Turkish national movement developed its own international relations by the Treaty of Moscow with the Soviet Union on 16 March 1921, the Accord of Ankara with France putting an end to the Franco-Turkish War, and the Treaty of Alexandropol with the Armenians and the Treaty of Kars fixing the Eastern borders. ⇒トルコ国民運動は、1921年3月16日にソ連との「モスクワ条約」、「仏土(フランス‐トルコ)戦争」を終結させる「アンカラ条約」、アルメニア人との「アレクサンドロ条約」、東の国境を固定する「カルス条約」などをもって国際的諸関係を発展させた。 >Hostilities with Britain over the neutral zone of the Straits were narrowly avoided in the Chanak Crisis of September 1922, when the Armistice of Mudanya was concluded on 11 October, which led the former Allies of World War I to return to the negotiating table with the Turks in November 1922. This culminated in 1923 in the Treaty of Lausanne, which replaced the Treaty of Sèvres and restored large territory in Anatolia and Thrace* to the Turks. ⇒海峡の中立海域をめぐる英国との敵対関係が、1922年9月の「シャナク危機」で辛くも回避され、それから10月11日に「ムダニャ条約」で締結された。それによって、1923年11月に第一次世界大戦前の連合国がトルコとの交渉の場に戻った。これは1923年に「ローザンヌ条約」で締結され、それが「セーヴル条約」にとって代わり、アナトリアとトラキア*の領土をトルコに復帰させたのである。 *前々便あたりで、Thraceを知らずに「トラセ」と訳しましたが、上記のとおり、「トラキア」と訂正させていただきます。どうも失礼しました。 >Terms in the Treaty of Lausanne that were different from those in the Treaty of Sèvres included France and Italy only having areas of economic interaction rather than zones of influence; Constantinople was not opened as an international city; and there was to be a demilitarized zone between Turkey and Bulgaria. ⇒「セーヴル条約」と異なる「ローザンヌ条約」の条項には、フランスとイタリアは、影響地帯ではなく、経済的な相互作用の領域のみを領有することとする旨の条項が含まれていた。コンスタンティノープルは、国際都市として開放されなかった。そして、トルコとブルガリアの間に非武装地帯が存在することになった。
お礼
回答ありがとうございました。