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有り余る美意識こそが都会なのか?
有り余る美意識こそが都会なのか? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。
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- Yasuhara Daisuke(@DaisukeYasuhara)
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有り余る美意識こそが都会なのか? という言葉は、都会の無数の人の中で頭一つ抜きん出た人が、自己に陶酔して発した言葉のように感じました。 むしろ、没個性的な美意識の持ち主達の中でより多数の興味共感納得を惹いたものだけが浮かび上がるのが都会なのでは? と思いました。 美意識というのが個性と心の中に宿るものだとすれば、比較概念である有り余るなどという言葉は出てこないのではないだろうかという意味で。
- thinkdeep
- ベストアンサー率63% (7/11)
「都会の女性は美人が多い」 「都会の男性はかっこいい」 「都会は洗練された建物が沢山建ってる」 なぜなんだろう?そう思ったことがあります。 これ、よくよく考えてみると「見られている意識」から来ているんじゃ ないでしょうか。 都会には有り余るほどの人が暮らし、街を行き来しています。 無数のビルが立ち並び、数千件の飲食店が存在します。 その中において、個であれ企業であれ店舗であれ、個性的でないと、 華やかでないと、街に埋没してしまいます。 目立つため、個性を強調するために「他人に見られている意識」が 強調されてしまうのではないでしょうか。 最近のビルのデザインは、個性的で印象深いものと、シンプルで 洗練されたものに二分化されている傾向があります。 最近の店舗は、店舗イメージをより強調して表現するものと、 中に入らないと店舗の内容がわからないようなまったく装飾のない ものに二分化されています。シンプルさまでもが美の表現に なっているのです。 このように都会の美の強調は、まるで沢山の絵の具を パレットの中でかき回したような状態になっています。その中で より美を強調するためにみんな四苦八苦しているのです。
お礼
ご回答のほど、 ありがとうございます。
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