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僕は創価学会員ですが、正直な話、創価学会でも、神社
僕は創価学会員ですが、正直な話、創価学会でも、神社でも、キリスト教でもすべての宗教が現代社会においてはビジネスにしか見えないのですが同じように思っている人いますか?
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人が生まれ、生きてゆく中で抱える様々な悩みや苦しみから、何かに対して手を合わせ、額ずき、跪き、祈りを捧げる心こそ、信仰心や宗教心の原点です。 遥か昔の時代に、そうした人達の心の受け皿として、仏教、キリスト教、イスラム教といった宗教が生まれ、その他にもそれぞれの地域で様々な宗教が発展してきた歴史がある。 そうした時代の要請があればこそ、数十億という膨大な単位の信者が世界に拡がり、現在にまで繋がっている事実がある。 日本においては、単なる宗教法人ということではない、所謂、宗教団体数はおよそ400。一軒のお寺さんを法人とするならば、その数は18万を超えるものとされています。 さぁ、個人の内側にある信仰心や宗教心の受け皿が、漠然としたかたちでしか存在しなかった仏教やキリスト教などが発生した原始の時代の光景は、戦争や干ばつ、飢餓など、個人の力ではどうすることもできない共通の苦しみの中で、ごく自然なかたちで拡がりを見せていたものが、時代が進み、特に日本においては江戸時代後期頃から、それまでにはなかった新たな宗教が仏教や神道を問わず、それぞれの歴史や経典に独自の解釈を加えながら、一人の人物を創始者として新興の宗教を立ち上げ、それが次第に団体化してゆく。 創価学会などもそうした数ある宗教団体の一つでしかありません。 ただ、宗教法人という性格上、様々な法的優遇を含めた中で、やはり、膨大な数の会員を抱える状況で運営費というものが、どうしても必要になってくるのも致し方のないことだと思います。 しかし、本来個人の内側にあるべき信仰心や宗教心は、あくまでも心の問題ですから自らの意思による寄進や寄贈はあっても、年会費などを含めた高額かつ強制的な徴収システムがあるとしたら、その時点で既に信仰心を利用することになってしまいます。 運営上致し方のないものとしても、その強制の度合いによっては、やはり、ビジネスのそしりを受けることになっても致し方がないことなのかもしれません。 だからこそ、紛い物に見えてしまう。 私自身、人並み外れた宗教心は持ち合わせておりますが、それは何かに縋るようなものではなく、どちらかというと宗教観に近い。 宮本武蔵の言葉にある「我、神仏を尊び、神仏を頼まず」という考え方が、私自身の宗教観であり、結果として、どの様な宗教団体にも関わる必要を持ちません。 日本が戦乱に明け暮れるような悲惨な光景を繰り返す国家だとしたらまだしも、ここまで平和が浸透し、それぞれの国民がそれなりに幸福に暮らせる状況で、果たして何処まで宗教というものが必要なのかを考えるとき、やはり、ビジネスの側面は隠せないのだと思いますよ。 ちなみに、日本神話にある神々を祭神として祀る神社の光景は、私にとって、静けさと清々しさの両面を兼ね備えた一つの心の拠り所であり、そこに暫し佇むことで、十分に自らの体内に活力を漲らせることができます。 神殿に向かい人間ではない目には見えない何かに手を合わせ、何かを祈る、その心こそが個人の持つ宗教心であり、そこに宗教団体など全く必要のないもの。 頼るべきは、常に自分自身。 それが私の宗教観ですね。
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- hekiyu2
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ビジネスですね。 宗教産業株式会社です。 多国籍企業が、キリスト教、イスラム教、仏教です。 キリスト教が一番儲けています。 神道は日本だけの、ローカル宗教産業です。 創価学会は権力とつるんで儲けようとしている 政商産業です。
- rerret
- ベストアンサー率8% (2/24)
創価学会なんて、その代表的例ですね。 信者の気が知れません。
- _backyarD
- ベストアンサー率34% (199/580)
組織として運営していく必要がある以上、ビジネスとしての側面も持ち合わせていないと継続していけないとは思います。ビジネスであってもそれによって救われたり安心を得る人がいるのであれば、それはそれで宗教としての役割は果たせているのではありませんか? ただし、ビジネスとしての側面と本来の役割のバランスを取り違えていたり、ビジネス側に傾倒しすぎるあまり、最終的には詐欺まがいのことに手を出してしまっている組織もあったりしますので、「利用者」側もきちんと見極めて付き合っていく必要があると思います。