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西郷率いる東征軍の人気。
ある教科書には、 「官軍とも呼ばれた東征軍には、豪農・豪商がみずから組織した義勇軍を率いて参加した。とくに相楽総三らの赤報隊は幕府領での年貢半減を掲げて東山道を東進し、農民の支持を得たが、新政府はのちに相楽らを偽官軍として処刑した。」とあります。 西郷は、東征大総督府下参謀として東海道を進軍しますが、“豪農・豪商がみずから組織した義勇軍”ができるほどの支持を受けていたのですか。 支持されていたのであれば、その理由を教えてください。 また、豪農・豪商の名が分かれば教えてください。 よろしくお願いします。
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>豪農・豪商がみずから組織した義勇軍 そういう人もいたということですね。 実は戊辰戦争というのは、大きな戦いは鳥羽伏見の戦いくらいなのです。もちろん各地では戦いはありましたが、比較的ローカルな戦いです。東海道を押し渡った官軍は、ただ街道を行進していたようなものでした。 そうなると映像メディアもない時代で「京都で大きな戦いがあったらしい」くらいしか情報がない人々にとって見慣れぬ官軍の一団はサーカスがやってきたような「お祭り」だったのですよ。身近などこかで誰かが死んだり破壊行為があったわけではないですからね。 権力闘争というのに縁がない市井の人々にとって、戊辰戦争とはオリンピックかワールドカップのようなものだったと思いますよ。 そして、ちょっと敏い人なら「時代が大きく変わる」と予感したと思います。そしたら商人などは「ここはいっちょう儲かるチャンスかも」となりますし、こういうときは勢いある新興勢力に乗っかっておこぼれにあずかろうと思うのは極めて自然な判断だったと思います。 また義勇軍という名目で人を送り、同行させて情報を送ってくるように指示した人もいると思います。実は官軍はお金がなかったので、豪農や豪商が義援金という名目でいくらか持ってきたら官軍側は歓迎して同道させたと思いますよ。商人ならば「情報が命」ということをよく知っていますからね。 だから質問者さんが想像しているのとは違って、打算や野心で乗っかってくる人は結構いたのではないかなと想像します。 あとはどんな人たちなのかですが、太平洋戦争で記録が焼失したということもあったでしょうし、もし逆転負けになったときに咎められないように証拠を残さなかった人たちもいたでしょうし、それにこういうときはだいたい混乱してちゃんとした記録は残らないものです。個別に判明するのは旧家から資料でも出てこないとなかなか難しいでしょうね。ただ日本人は大変に筆まめなので、どこかで記録を残していた人がいた可能性はあると思います。
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- kitsunetoneko
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相楽総三こと相楽氏は,いわゆる,幕末期の,尊皇攘夷過激派における,フリーランスや,ベンチャー企業の本人や,社長のような方だったようにも,思われます..尊皇攘夷活動などに必要な,資金などの支援者や,後援者は,主に,ご自身の父親だったらしく,若い頃から,学問が出来,聡明で,弟子なども,けっこう居られたようですが,薩摩や長州,土佐藩の尊皇攘夷活動者のように,朝廷の公家や,幕府の要人などに,強いコネや,パイプなどがあったわけでも無い,自身の考えや,強い意思などで行動し,時には,水戸藩の天狗党にも参加したりする,極めて自由な形の尊皇攘夷過激派の活動家だったようですね..幕末期の日本の武士達などには,尊皇攘夷活動を,自由に行う為に,所属する藩を,勝手に脱藩したりする方が,多かったようで,坂本龍馬氏や中岡慎太郎氏,陸奥宗光氏など,亀山社中や,海援隊のメンバーなどが有名ですが,他にも,天誅組(吉野)の変の吉村寅太郎氏,井伊直弼氏を暗殺した浪士など,いずれも,幕末期のフリーランスや,傭兵のような感じの活動家のように思えますし,坂本龍馬氏や,中岡慎太郎氏などは,暗殺されましたが,天誅組のトップの公家;中山忠光氏の護衛のような立場だった吉村寅太郎氏等も,文久の政変で,徳川慶喜氏や,朝廷側などから,討伐令が下ると,多勢に無勢で,壊滅しています..尊皇攘夷過激派の若手の公家などをトップとした,天誅組の変や,生野の変などでも,地元の人々や,郷士,豪農,寺院などの助けや,人手などを借りていたと思いますが,やはり,土地の寄せ集め的な集団だったせいか,まとまりに欠いて,最終的には,壊滅・解散しているようです..相楽氏の赤報隊については,私は,あまり知らなかったのですが,結局,いわゆる,フリーランスやベンチャー企業的な形で活動していた相楽総三氏は,西郷隆盛氏などと誼を通じ,江戸を掻き乱し,戊辰戦争当時の,関東方面への,朝廷側の人間などとして,西郷隆盛氏不在の中,年貢半減の御触れを掲げて,出陣しますが,途中で,朝廷側が,金策の為に,三井財閥の豪商人と手を組み,年貢半減の御触れを取り消した為に,勢い付いていた相楽総三氏の部隊の一部などは,不本意にも,朝廷の意に背く逆賊とされ,政局の大勢などには抗えず,相楽氏も,処刑されたようですね..やはり,なかなかフリーランスの活動家などでは,うまく行かなかったのかもしれません..
お礼
ご回答ありがとうございます。 「朝廷側が,金策の為に,三井財閥の豪商人と手を組み…」というようなことがあったのですね。 参考になりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど!なるほど! 街道近辺の市井の人々にとっては、見慣れぬ官軍の一団はサーカスがやってきたようなお祭りみたいなものでしたか! それならひと儲けしてやろうなんて敏い人も出たでしょうね。 >商人ならば「情報が命」ということをよく知っていますからね。 そうですね、納得しました。