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西郷
明治政府の原動力にも成ったのに、どうして 最後は追われる立場になってしまったので しょうか、同じ郷里の大久保という人に 裏切られたのでしょうか、宜しくお願いします。
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昔は「征韓論」を推しすぎたと習いましたが、実際は反対の「遣韓大使論」を推していたそうです。 ところが政府は対朝鮮よりも大久保利通らが推す内政優先にという動きになり、大使として派遣されるという話はうやむやに。 それで対朝鮮派は失脚し、大量の政治家・軍人・官僚らと共に辞職し地元に帰りました。 (明治六年政変) 大久保利通は西郷隆盛が大使として朝鮮に赴くと命の危険があると言うことで反対していたのです。 地元鹿児島に帰った西郷は若い士族のために学校を作りましたが、廃刀令が発令され、西郷の私学校の生徒を含む若い士族らはそれに憤慨し反乱を起こしました。 それに巻き込まれたような形で反政府軍の盟主に。。。 挙兵前に「起つと決する」と言っていましたが、実は反乱ではなくて対ロシアの事だったという説もあります。 簡単に言っちゃうと、失脚したのは朝鮮のせい。という訳で。 当時から大久保利通が恐れるほどDQNな国だったのです。。。 ・・・大河ドラマ観ていませんでした。。。 史実と違うようですが観ていれば良かった。。。
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明治維新を調べれば分かります
補足
わからない人にまで解答求めていません、どのように して知るかのか手段は私が決める事です。
新国家を運営する才能がある人をリーダーにしなければならなかったのに、幕府を倒した褒美にリーダーにしたからです。西郷どんには新しい社会をどのように作ろうと言うビジョンがなにもなかったので、若くして老害になりました。
お礼
実力有る人は邪魔だったのかな、身を引けば追われる立場になる事は、 素人でも想像できるのにね、有り難うございます。
お礼
朝鮮というよりも身近に敵いたという事に、有り難うございます。