食べるたびに死者が出るなら、それは明確に毒物だということになりますから誰も食べなくなります。毒キノコ類なんかは「必ず死ぬ」から伝えられ、手を出さないようにする学習をするのです。
たいがい、そういう試行錯誤を繰り返して、これは食べられないもの、手を出してはいけないもの、のリストが追加されて歴史ができてきたのです。
それにも拘わらず、ふぐは必ず死ぬという食べ物ではありません。
ふぐは、死なないものがいるから、うまいものだということになるわけです。
何十尾もあるうちそのうち何尾で死んだら、それは毒物だと思われると思いますか。まあ20分の1ぐらいだと思いませんか。
それよりも死者が少なければ、原則安全なもの、ただしどこかに地雷が埋まっているものと言うことになります。
おそらく20分の1よりもっと少なかったと思われます。
魚を買ってきて、はらわたの部分をすべて捨てて食べる人は多かったと思いますので。秋刀魚でもはらわたを食べない人がいますから、ふぐの内臓を食べるに及ばないごみの部分だと考えたとしてもおかしくありません。
はらわたを全部捨てて、あとは腹の中を洗って、包丁やまな板もきれいに洗い清
めれば、毒のかけらも残りません。
そうしたら、まず絶対にふぐには当たりません。
だから、言われるほどではなく結構皆ふぐは楽しんで食べたんじゃないかと思いますね。
ただ、食通と自負するような連中が、苦い系統の部分のうまみを知っていますから、ふぐでも食べてみたいと思うわけです。
分量によっては、少々ぴりぴりと感覚が途切れるような感覚があるだけで済む場合もあります。全然毒と言うことにはなりません。
卵巣だけ酢をかけてむさぼりたいと考える食通がいて、これは100%死にますから、びっくりして、ああ怖い食い物だという噂になったわけです。
これが、必ず死ぬというのでもなく、何十年食べても大事ないという人もいるから、富くじのようなものだな、ととらえたため、「当たる」という言葉で形容するようになったと思えます。
問題は部位にあるのではないか、と発想した人はいたでしょうけど、化学分析技術が発達していないころは、実際に食べてみないと実証はできませんから、それを知るのは命がけだったわけです。あ、ここを食べると死ぬんだ、と気づいたときには研究者当人が死んでいるというなら、研究は完成しません。
さすがにこれは文化になりえません。
歴史的には、秀吉が朝鮮に出兵したときに大量の兵士がふぐで死んだ。おそらく戦場だから食い物に乏しく、魚ははらわたまで全部食べてやろうとした結果です。ここで秀吉によりふぐ禁止令が発令されたのです。
徳川以後も、ふぐで命を落としたら家名断絶一家離散という処罰になったもので、それは「食らい意地が張ったせいで己の名誉を捨てた」と見たせいです。
ようやく科学的に解明されたのは1909年、東京帝国大学の薬学教授田原良純がテトロドトキシンという名前の化学物質として論文に書きました。これは明治42年です。
田原薬学博士は、このテトロドトキシンが神経に働き鎮痛作用を持つことを突き止め薬剤への応用を示唆しました。
ここで分かったわけではありません。似たような毒が他の生き物からも検出されて、真犯人はこいつやーというような状態にならないまま時代は進みます。
そして、なんと、なんと、1970年、昭和45年にX線構造解析により、テトロドトキシンのワルサをする分子の場所と働きが解明されたのです。
おどろくような長い経緯です。
8代目坂東三津五郎がふぐで当たって死んだというニュースが駆け巡ったのは1975年(昭和50年)でしたから、毒のしっぽをつかんでわずか5年でした。