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平清盛の墓が京都の六波羅蜜寺にあったのはなぜですか
平清盛の墓が京都の六波羅蜜寺にあったのはなぜですか? な六波羅蜜寺に平清盛のお墓を作ったの?どういう繋がりですか? 本当に遺骨が入ってるの? 本墓じゃない分墓?
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神戸市のホームページ、KOBEによると。 『平家物語』には、清盛の遺体は、愛宕神社 ( 京都市右京区嵯峨愛宕町1 ) で火葬にふされ、遺骨は側近の円実法眼(えんじつほうげん)が、頸にかけて摂津の国に下り、経ヶ島に納めたと、書かれています。 経ヶ島とは、清盛が大輪田泊(おおわだのとまり)(現在の神戸市兵庫区の兵庫港あたりにあった港)を改修した時に築いた島です。 神戸市兵庫区切戸町の十三重石塔「清盛塚」は、墳墓をあらわす「塚」がつくように清盛の墓と伝えられてきました。 また、鎌倉幕府執権・北条貞時が清盛の供養のため建立したという伝承が江戸時代前期より流布していました。 大正12年、「清盛塚」は神戸市電の軌道敷設にともなう道路拡張工事のため、約10メートル北東に移転し、現在の地になりました。 移転時の調査によって墳墓でない ( 死者を埋葬した築造物の総称。死体の処理方法すなわち火葬,土葬,風葬,また単独の埋葬か合葬か,死者を忌避するかその再生ないし来世を信じて死者に儀礼を尽すかなどのもろもろの背景によって,古今東西,国によって各種の形式や内容の墳墓 ) ことが確認されています。 十三重石塔には弘安9年2月という年月が刻まれています。 西大寺の叡尊(えいそん)が弘安8年(1285)8月14日に、兵庫で「石塔供養」に臨んだという記録があり、近年の研究ではこの石塔が「清盛塚」と呼ばれる十三重石塔ではないかといわれています。 一方『吾妻鏡』には、遺言によって遺骨は、播磨国山田の法華堂に納められたと書かれています。 播磨国山田は、現在の神戸市垂水区西舞子町の山田川付近にあたり、明石海峡を望む景勝の地です。 ここは平氏が何度も船から眺めた地であり、平氏にとって海陸の拠点の一つであったと考えられています。 「経ヶ島」か「山田の法華堂」か、皆さんは、清盛がどちらの地に眠っていると思いますか。 なお、切戸町の「清盛塚」は地元で大切に供養されています。 いつ頃どのようにして十三重石塔が清盛の塚と伝えられるようになったのかにも興味がひかれます。 清盛は兵庫の恩人という思いがあったことは確かでしょう。 となっています。 出 典http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/furusato/haka.html
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- あずき なな(@azuki-7)
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源氏に京都を追われた清盛は最後まで京都に戻ることを切望していました なので死後京都に葬られたのです 別にこういうのは珍しくありませんね 家康の墓だって日光のほかに大阪にもありますし
お礼
ありがとうございます
- oska2
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>平清盛の墓が京都の六波羅蜜寺にあったのはなぜですか? この質問の回答にはなっていませんが・・・。 実は、平清盛の墓は「どこに存在するのか分からない」のです。 全国各地に、清盛供養塚は存在しますがね。 六波羅蜜寺にあるのも、平清盛供養塚です。 >六波羅蜜寺に平清盛のお墓を作ったの?どういう繋がりですか? 洛陽33観音霊場である六波羅蜜寺周辺は、平清盛一族の広大な屋敷があった場所なのです。 六波羅殿(平家棟梁)や5200前後の平家一門の屋敷が存在しました。 ですから、平家一門と六波羅蜜寺は密接な関係を築いていたのですね。 結果、平家滅亡後も供養塔を建てて祀った訳です。 この寺で祀っている清盛像は、教科書にも載っています。 >本当に遺骨が入ってるの? 供養塔の調査を行っていないので、誰も回答出来ません。 ただ、「墓でなく供養塔(塚)」ですから遺骨は無いでしようね。 >本墓じゃない分墓? 先に書いた通り、清盛の墓は不明です。 分骨も考えられませんね。 まぁ、清盛に関する何らかの物(像・肖像画・使っていた日常品など)を埋葬している可能性はあります。
お礼
ありがとうございます
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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900年前の今日に生まれたそうですね。 六波羅蜜寺に墓所があるのは、ただ近くに清盛ら平氏一門が住んでいただけの縁でしょう。 また神戸などにも複数墓所や供養塔がありますので、分墓かもしれません。
お礼
ありがとうございます
お礼
ありがとうございます