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武蔵・下総の国境は、研究されている?
古代から近世にかけての武蔵国と下総国の境の正確な位置について専門的に研究した、歴史学、考古学、地質学等の論文はありますか。 もしあるようでしたら、筆者と論文名をご教示ください。
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お礼
三たびの回答、ありがとうございます。 >春日部の牛島でしょうか ここでいう「牛島」とは、回答No.2のお礼コメント内で、 《かつての隅田川の本流は旧・本所区と旧・向島区の境界付近を南東方向に流れており、したがって、旧・本所区エリア(隅田川本流の右岸(西側))に存在した「牛島」は武蔵国であった》 と申し上げたように、現在の東京都墨田区南部(旧・本所区)にあったとされる島のことです。 >橋の西が武蔵国、東が下総国だという勘違い 回答No.3のお礼コメント内で取り上げた、 谷口榮「歴史舞台地図追跡Vol.17 家康以前のすみだ川<其の十>」地図中心518号(2015年11月)38頁以下 では、そういった趣旨のことが書かれています。 また、谷口氏は、東京人353号(2015年5月)の特集「『東京35区』の境界線を歩く」でも、同内容のことを述べています。こちらの方が入手しやすいかもしれません。ご一読ください。 (ちなみに、どなたが執筆されたのか存じ上げませんが、ウィキペディアの「両国橋」の項も、同旨です。) 谷口氏は、基本的に菊池山哉『五百年前の東京』(〔初版〕東京史談会、1956年、〔復刻版〕批評社、1992年)を下敷きに議論しています。 菊池氏の主張は、 《かつて隅田川は、牛島の北端(現在の東京都墨田区向島五丁目の北端)あたりで二股に分かれており、東側が隅田川(利根川)の本流、西側が支流(現在の隅田川)だったが、家康が東側を締め切り、隅田川の川筋を西側だけにした》 というものです。 下記の2つのURLは、『五百年前の東京』に掲載されている地図です。 http://www.geocities.jp/obt_kk/2008soukai/irasshai/edo_kochizu.jpg http://www.skywater.jp/wp-content/uploads/2017/10/sumida-no-hajimari1-e1507277207317.jpg これらの地図では、隅田川(地図上では「利根川」)の本流が河口付近で南東方向に曲がり、現在の隅田川とは異なる流路になっています。 そして、浅草観音の東にある川(現在の隅田川)の向こう岸に「牛島」が見え、武蔵国とされています。 (なお、ウィキペディアの「隅田川」の項にも、牛島は武蔵国と書かれています。) 現在の両国は牛島の南部ですので、菊池氏の主張からすると、中世、両国付近は武蔵国だったということになります。 同様に菊池氏の議論を採用し、牛島(旧・本所区。現在の隅田川の東側)を武蔵国としているものとして、 江東区編『江東区史 上巻』(江東区、1977年)163-164頁 真泉光隆『年表 隅田川』(日本図書刊行会、1992年) などがあります。 また、鈴木敏弘氏も講演で、上記のような隅田川の流路変遷や、牛島=武蔵国説を肯定的に評価しているようです(下記URLの3頁目)。 http://www.edo-tomo.jp/edotomo/h21(2009)/edotomo-No52.pdf >「徳川家康が隅田川本流を変更」とは一般に利根川東遷のことでしょうか 利根川東遷のことではありません。もっと南の話です。 >現在の隅田川と古隅田川を混同されておられませんでしょうか 現在、「古隅田川」と言われている川筋よりも、ずっと南(東京都墨田区南部)の話です。 いずれにいたしましても、本質問は、武蔵・下総の国境に関する皆様のご見識・ご見解をお尋ねするものではなく、国境に関する論文の有無をお尋ねするものです。 もし、上記のような菊池説、及びそれに与する谷口氏、真泉氏、江東区史執筆者らの議論を裏付けるような研究、またはそれらを否定するような研究に関して何かご存知でしたら、ご教示ください。
補足
お礼コメントの訂正です。 × 江東区編『江東区史 上巻』(江東区、1977年) 〇 江東区編『江東区史 上巻』(江東区、1997年) 正しくは、77年ではなく、97年です。失礼いたしました。