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武蔵・下総の国境は、研究されている?
古代から近世にかけての武蔵国と下総国の境の正確な位置について専門的に研究した、歴史学、考古学、地質学等の論文はありますか。 もしあるようでしたら、筆者と論文名をご教示ください。
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- ichikawa2017
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No.2.3です 再度お礼を頂戴しました。 追加の説明をさせて下さい。 >中世まで」牛島は武蔵国であったとしていますが 春日部の牛島でしょうか 春日部の牛島であれば下記のサイトをご参照下さい。 参考 下河辺荘 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/下河辺荘 抜粋 江戸時代以降、『新編武蔵風土記稿』によると「西に位置していた武蔵国太田荘と下総国下河辺荘は、古利根川と元荒川の旧流路によって明確に画されていた」という。 その荘域が広大であったうえ、江戸時代以後の利根川などの河川の流路変更によって、現在は、茨城県古河市・境町・五霞町・坂東市、千葉県野田市・流山市、埼玉県加須市・栗橋町・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・松伏町・吉川市・三郷市の各市町にまたがる地域に及ぶ。 当時、上流域(古河市周辺)を「上方(野方)」、荘内東部域(栗橋町から吉川市、三郷町に及ぶ地域)を「下方(河辺)」、古利根川と元荒川に挟まれた地域を「新方」に三分されていた。 下河辺庄 www.city.noda.chiba.jp/_res/projects/default_project/_page_/... 抜粋 野田市域の大部分は中世には下総国葛飾郡下河辺庄(しもうさのくにかつしかぐんしもこうべ のしょう)に属していました。久安 2 年(1146)8 月 10 日の文書には下総国相馬御厨(そうま のみくりや)の境界として「西限下河辺境并木埼廻谷」(さいげんしもこうべさかいならびにきさ きめぐりだに)と見えるのでこの頃には荘園として存在したと思われます >橋の西が武蔵国、東が下総国だという勘違い ??? 勘違いだという説は寡聞にして知りません。 天保年間に出版された江戸名所図会に下記のような記載があります。 少なくても天保年間には両国は武蔵国と下総国だと解釈されていたことになります。 巻之一 天枢之部 第一冊 武蔵 中略 東海道に属す 和名類聚抄曰牟佐之国府多磨郡に在りと云々(武蔵國いにしえ上古は東山道の内に入る 光仁天皇の宝亀二年辛亥冬十月巳卯太政官奏して東海道に属せしむるよし 続日本紀に見えたり)、久良(くらき) 多磨 橘樹(たちばな) 荏原 豊島 足立 新座 入間 高麗 ひき比企 横見 埼玉 大里 男衾 はら幡羅 はんざわ榛澤 那珂 かみ賀美 秩父 葛飾等以上二十二郡なり 中略 拾芥抄(しゅうかいしょう)に おうかた大縣東海那珂等の三郡を加え葛飾を除きて廿四郡とすれどつまび詳らかならず 貞亨(じょうきょう)三年丙寅(ひのえとら)利根川の西を割りて武國に属せしむ 昔は、本所葛西の辺(へん)浅草の川を国境として 川より東の地は一円に下総國なりしを、右に云う如く 今は葛飾郡の半ばを割(わり)て 利根川の以(もって)西を武蔵の國の葛飾郡とす 以(もって)東を下総の國の葛飾郡とす 和名称に武蔵國管二十一とありて葛飾郡なし 今是を加えて二十二郡とす 和名称葛飾を加止志加(かししか)と訓ず 両国橋 中略 事跡合考(じせきかつこう)に万治二年東の大川筋に始めて大橋一ヶ所をかけらるとあるも此橋の事なり 又むさしおうみといえる草紙にも此橋を大橋としるしてあり 中略 其の昔(むかし)此川をくにざかい國界とせりしにより両国橋の号ありといえども 今の如く利根川を以って界と定めたまうより後は 本所の地も同じく武蔵國に属すといえども 橋の号は唱え来(きた)るに任せて 其侭(まま)改められずとなり 或人いわく貞亨三年へいいん丙寅春三月利根川の西を割りて武蔵國に属せしめられりと云々 >徳川家康が隅田川本流を変更してから、国境が現在の江戸川筋に移されるまでの何十年かの間、国境がどこにあったのか(かつての本流を国境としていたのか、新しい本流に国境を移したのか)は、不明のままです。 「徳川家康が隅田川本流を変更」とは一般に利根川東遷のことでしょうか。 現在の隅田川と古隅田川を混同されておられませんでしょうか。 同様に利根川にも大落古利根川があります。 古とつくのは新しい流域ができた以降のことですので、それ以前の史料などでは古がない状態で記載されます。 現在江戸川と呼ばれている河川は江戸時代には利根川と呼び習わされていました。 現在の感覚で言いますと関宿から銚子方面へ流れる利根川と関宿から江戸湾へ流れる利根川と二本あったことになります。 利根川東遷が行われるまでは関宿から江戸湾へ流れる河川は太日川と呼ばれていました。 本所以南の深川は江戸時代初期に造成された地域です。 参考 深川 (江東区) - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/深川_(江東区) 参考 深川八郎右衛門が小名木川北岸一帯の開拓を行い、その深川の苗字を村名とし、これがこの地一帯をよぶ名称となった。 江戸初期には漁師町だったが、明暦の大火(1657)以降に開発され、万治2年(1659)に両国橋が架けられたことで急速に都市化し、永代寺(現・江東区富岡)の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて岡場所ができ、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れる地域となった つまり江戸川(利根川)以西を武蔵国へ編入するまでは下総国だったということです。 更に上流から河口までを一つの名称で表すようになったのは明治以降のことです。 河川の変遷を説明する際に説明者が一々当時の名称であるか否かを説明しませんのでご注意下さい。 何時の時代のどこの地域についての説明かということを読むほうで翻訳する必要があります。
- ichikawa2017
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No.2です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 東京の河川の変遷にご興味があるようですが、東京のみならず関東地方の河川はしばしば流域を変えています。 これに従ってご指摘のように武蔵国と下総国の境界も微妙に変化しています。 国境が測量によるものではなかったことも影響しています。 河川の流域の変更は自然によるものと人為的なものとがあります。 河川の変遷を議論する際に面倒なのが河川の名称に現在の河川名が使われているために素人には非常に理解しにくいとい点があります。 河川名が上流から下流まで統一されたのは明治以降のことです。 歴史的には流域の村落ごとに呼称が違っています。 自然による流域の変化についてはネット上にも下記のようなURLがあります。 参考 歴史時代の沈降運動と低地の形成 www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/19/pdf/19_2.pdf 関東ローム層と関東平野 www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/11/pdf/11_2_2.pdf 書籍としては、 葛飾区郷土と天文の博物館公開講座東京低地の古代考古学から見た旧葛飾郡とその周辺 熊野正也編 崙書房発行 があります。 注)東京低地というのは歴史地図学や地理学などでの用語です。 地域としては東京の東部から埼玉県東部、群馬県南部一帯を表す用語です。 隅田川の上流部の荒川はしばしば人為的に流域が変更されています。 参考 荒川の治水 1.利根川の東遷、荒川の西遷 2.荒川の川幅 www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000030852.pdf 武蔵国と下総国の境界に関しては葛飾郡という歴史的な地域名がヒントとなります。 概略は下記のURLにあります。 葛飾の歴史|葛飾区公式サイト www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000058/1002752/1002869/10... 葛飾郡に関して最も積極的に研究しているのが上記の葛飾区郷土と天文の博物館です。 種々の文献を出版したり公開講座やフォーラムがしばしば開かれていますので是非一度訪問してみて下さい。 何かあれば補足質問願います。
お礼
再度の回答、ありがとうございます。 ご紹介いただいた、 鈴木哲雄『中世関東の内海世界』(岩田書院、2005年) 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典12 千葉県』(角川書店、1984年) 熊野正也編『東京低地の古代』(崙書房、1994年) の3冊を拝見しました。 どれも興味深い内容が盛りだくさんでした。 ただ、残念ながら、国境の南端(隅田川下流の流路)の記述は見つかりませんでした。 葛飾区の「郷土と天文の博物館」にも行ってみたいです。 まさにこの博物館の学芸員の方(谷口榮氏)が「牛島=武蔵国」説の論者なので、いつかお会いしてお話を聞いてみたいです。 氏が一般向けに執筆した雑誌記事(地図中心518号(2015年11月)38頁以下)には、説を支える決定的な根拠が書かれていなかったため、(氏に限らず)この説を詳しく検討している論文を探しているところです。 また、谷口説では、「中世まで」牛島は武蔵国であったとしていますが、江戸時代初めの国境については触れられていません。 すなわち、谷口説に基づいても、徳川家康が隅田川本流を変更してから、国境が現在の江戸川筋に移されるまでの何十年かの間、国境がどこにあったのか(かつての本流を国境としていたのか、新しい本流に国境を移したのか)は、不明のままです。 (記事の文脈から考えると、江戸川筋に移される前は、かつての隅田川本流が国境だったと、氏は考えているようですが、特に論拠は示されていません。) 氏が述べるように、「両国橋」の命名は当時の人々の誤解(橋の西が武蔵国、東が下総国だという勘違い)に基づくものと言い切れるのか、現在の両国周辺が下総国だったことは一度もないのか、という問題にもつながってきて、悩ましい限りです。
- ichikawa2017
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関連書籍は無数にありますが何をお知りになりたいのでしょうか。 行政区分としての武蔵国、下総国などという旧国名は律令制下で有効だったものです。 荘園制度などの発達によって行政区分としての意味合いは薄れ地域名としてのみ明治時代の廃藩置県が行われるまで使われていました。 武蔵国と下総国の範囲に変更があったのは江戸時代の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川より西の地域を下総国から武蔵国へ編入し武蔵国葛飾郡が発足したことのみです。 これも江戸幕府が定めたもので本来の律令を定める朝廷の認可は得ていませんでした。 それまでは隅田川が国境でした。 隅田川という名称は葛飾郡側での名称です。 西側では宮戸川、浅草川、大川などと呼ばれていました。 大川が使われていた時代には駒形堂より上流は荒川とされていました。 行政区分として変更になったのは正徳3年閏5月11日(1713年7月3日)に本所の町並地は町奉行に移管され本所奉行が廃止された以降のことです。 更に文政元年(1818年)に江戸御府内の範囲として江戸朱引図が定められました。 >もしあるようでしたら、筆者と論文名をご教示ください 手軽なものとしては下記のようなものがあります。 中世関東の内海世界 岩田選書◎地域の中世2 鈴木哲雄著 古代史が面白くなる「地名」の秘密 著者:八幡 和郎 著 日本史が面白くなる京都「地名」の秘密 地名の謎や不思議がスッキリわ かる!著者:八幡 和郎 著 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』(角川書店、1984年) 蛇足 旧来の国名にせよ大名領にせよ測量技術がない時代ですので国境にある村落の人達の習慣的な境界がそのまま国境とされていました。 細かく見ていきますと村落の耕地の拡大にともないしばしば変更されています。 耕地がない山間部などはそれこそエイヤで決めていたようなものです。 つまり現代の感覚で国名や国境を考えますと混乱しますのでご注意下さい。
お礼
回答ありがとうございます。 >何をお知りになりたいのでしょうか。 最も関心を持っているのは、国境の南端です。 いくつかの文献を読むと、 《かつての隅田川の本流は旧・本所区と旧・向島区の境界付近を南東方向に流れており、したがって、旧・本所区エリア(隅田川本流の右岸(西側))に存在した「牛島」は武蔵国であった》 といった内容のことが書かれています。 このことについて詳細に研究した、歴史学、考古学、地質学等(古文書・古地図等の研究、発掘調査に基づく研究、ボーリング調査・地形(微高地等)に基づく研究等)の学術論文を探しています。 >手軽なものとしては下記のようなものが 何冊も文献を挙げてくださり、ありがとうございます。 鈴木哲雄『中世関東の内海世界』(岩田書院、2005年) 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典12 千葉県』(角川書店、1984年) の2つは、専門的な文献とお見受けいたしますので、ぜひ近いうちに拝読しようと思います。 手軽に入手できるものでなくてかまいません。大学紀要や学会誌でも結構です。 歴史学、考古学、地質学等、各々の分野で網羅的に検討を加えている学術論文をご存知でしたら、ご教示ください。
- tzd78886
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答えにはなっていませんが、この周辺は昔は洪水の度に流れが頻繁に変わっていたために正確な境界線というものはありませんでした。「葛飾」という地名は東京にも埼玉にも千葉にもあるのはそのためで、「両国」という地名は昔はこの辺りが下総と武蔵の境界付近だったことに由来しています。江戸時代半ばまでここと江戸川の間は利根川と荒川が合流するところで人が住めるようなところではなかったようです。
お礼
回答ありがとうございます。 そういったことが書かれている学術論文があれば、ご教示ください。
お礼
三たびの回答、ありがとうございます。 >春日部の牛島でしょうか ここでいう「牛島」とは、回答No.2のお礼コメント内で、 《かつての隅田川の本流は旧・本所区と旧・向島区の境界付近を南東方向に流れており、したがって、旧・本所区エリア(隅田川本流の右岸(西側))に存在した「牛島」は武蔵国であった》 と申し上げたように、現在の東京都墨田区南部(旧・本所区)にあったとされる島のことです。 >橋の西が武蔵国、東が下総国だという勘違い 回答No.3のお礼コメント内で取り上げた、 谷口榮「歴史舞台地図追跡Vol.17 家康以前のすみだ川<其の十>」地図中心518号(2015年11月)38頁以下 では、そういった趣旨のことが書かれています。 また、谷口氏は、東京人353号(2015年5月)の特集「『東京35区』の境界線を歩く」でも、同内容のことを述べています。こちらの方が入手しやすいかもしれません。ご一読ください。 (ちなみに、どなたが執筆されたのか存じ上げませんが、ウィキペディアの「両国橋」の項も、同旨です。) 谷口氏は、基本的に菊池山哉『五百年前の東京』(〔初版〕東京史談会、1956年、〔復刻版〕批評社、1992年)を下敷きに議論しています。 菊池氏の主張は、 《かつて隅田川は、牛島の北端(現在の東京都墨田区向島五丁目の北端)あたりで二股に分かれており、東側が隅田川(利根川)の本流、西側が支流(現在の隅田川)だったが、家康が東側を締め切り、隅田川の川筋を西側だけにした》 というものです。 下記の2つのURLは、『五百年前の東京』に掲載されている地図です。 http://www.geocities.jp/obt_kk/2008soukai/irasshai/edo_kochizu.jpg http://www.skywater.jp/wp-content/uploads/2017/10/sumida-no-hajimari1-e1507277207317.jpg これらの地図では、隅田川(地図上では「利根川」)の本流が河口付近で南東方向に曲がり、現在の隅田川とは異なる流路になっています。 そして、浅草観音の東にある川(現在の隅田川)の向こう岸に「牛島」が見え、武蔵国とされています。 (なお、ウィキペディアの「隅田川」の項にも、牛島は武蔵国と書かれています。) 現在の両国は牛島の南部ですので、菊池氏の主張からすると、中世、両国付近は武蔵国だったということになります。 同様に菊池氏の議論を採用し、牛島(旧・本所区。現在の隅田川の東側)を武蔵国としているものとして、 江東区編『江東区史 上巻』(江東区、1977年)163-164頁 真泉光隆『年表 隅田川』(日本図書刊行会、1992年) などがあります。 また、鈴木敏弘氏も講演で、上記のような隅田川の流路変遷や、牛島=武蔵国説を肯定的に評価しているようです(下記URLの3頁目)。 http://www.edo-tomo.jp/edotomo/h21(2009)/edotomo-No52.pdf >「徳川家康が隅田川本流を変更」とは一般に利根川東遷のことでしょうか 利根川東遷のことではありません。もっと南の話です。 >現在の隅田川と古隅田川を混同されておられませんでしょうか 現在、「古隅田川」と言われている川筋よりも、ずっと南(東京都墨田区南部)の話です。 いずれにいたしましても、本質問は、武蔵・下総の国境に関する皆様のご見識・ご見解をお尋ねするものではなく、国境に関する論文の有無をお尋ねするものです。 もし、上記のような菊池説、及びそれに与する谷口氏、真泉氏、江東区史執筆者らの議論を裏付けるような研究、またはそれらを否定するような研究に関して何かご存知でしたら、ご教示ください。
補足
お礼コメントの訂正です。 × 江東区編『江東区史 上巻』(江東区、1977年) 〇 江東区編『江東区史 上巻』(江東区、1997年) 正しくは、77年ではなく、97年です。失礼いたしました。