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オスマントルコの支配について。
オスマントルコの支配について。 広大な土地を支配したのは、モンゴルからトルコに移動してきた民族なのですか?
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オスマン帝国のスルタン(権力者、皇帝)は強大なる専制君主であり、統治は厳格なイスラーム法に基づくものであり、また膨大な土地を州・県・郡にわけるなど、必ずしも一元的な支配とはいえなかった。 他方、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対しては、基本的に「啓典の民」として信仰の自由を与えていた。人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)などを課すものの、ユダヤ・キリスト教徒の共同体へは法的自治を認め、その上彼らとの共存をはかるなどして、程よく統治をした。 軍事的には、スルタンから頂いた土地からある程度自由に徴税できた(ティマール制)騎士軍団、異教から改宗した親衛隊イェニチェリらが活躍した。特に後者の歩兵部隊は常備軍として、征服戦争において腕を振った。 こうした諸制度は帝国内外において巧みに機能しあい、オスマン帝国は欧州も羨む先進国として繁栄する。特にスレイマン1世治世期の全盛期には、文字通り「無敵の超大国」を体現した。その領土は中欧、北アフリカ、中東、西アジア、と三大陸にも跨り、当時のヨーロッパに対し「オスマンの脅威」なるトラウマを抱かせたものだった。 特に「東のローマ」こと東ローマ帝国の帝都「コンスタンティノープル」を陥落させ、それをキリスト教の都からイスラーム風の都としたことは大きく、これが海を挟み隣接するイタリア半島(特にローマ教皇領)に宗教的あるいは地政学的な恐怖と絶望を与えた。 総じて強大すぎたこの国の存在は、世界史の流れに大きく影響した。欧州はインドなどの東方の富を得る際、オスマン帝国が幅をきかせた陸路を避け、わざわざ遠回りである海上ルート(南アフリカ・喜望峰など)を用いたのである。オスマン帝国が大航海時代を呼んだといっても過言ではない。 【成立と拡大:起源】 初代君主のオスマン・ベイ(オスマン1世)が建国するまで、トルコ民族はどういった境遇だったのかと言うと、 モンゴル高原より北方の遊牧民、我々日本と同じ黄色人種(モンゴロイド)であるテュルク(トルコ)民族は、当時の中国に「丁零(ていれい)」と呼ばれていた。彼ら丁零は4~6世紀には突厥(とっけつ)と呼称され、中央ユーラシアに跨る大国を建てたものの、しだいに東西に分裂し、8世紀には滅びてしまった。 >広大な土地を支配したのは、モンゴルからトルコに移動してきた民族なのですか? その様ですね。