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世界史始め
世界史について質問なのですが、 まずオスマントルコの成立に関してですが、イスラム帝国が栄えたときに、様々な朝(例えばアッパース朝など)に分裂しましたよね?そこで分裂した朝の一部が、後のオスマントルコとして進出したのでしょうか ?まちがってます? イスラム帝国やモンゴル、そしてオスマン帝国の流れが知りたいのですが、なかなか難しいです。よかったらどなたか流れを教えてください。
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- a-koshino
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平凡社「イスラム辞典」より イスラム世界の辺境を防衛し、異教徒に対する襲撃に従事する人々は、「信仰戦士」の意味で「ガージー」と呼ばれ、ある種の記章を有し、長上者に宣誓し、「#フトゥーワ#」という神秘主義的倫理規範に従うものとされ、その組織は都市の#ギルド#に類似していた。11世紀以降、辺境戦士の多くがトルコ族#に占められた結果、事実上ガージーという称号は彼らに専用された。とくに13~14世紀のアナトリア辺境では、残存するビザンティン領に対し、トルコ族のガージーたちは恒常的戦闘態勢にあった。彼らは信仰のための戦いという大義名分のもとで、領地・戦利品の獲得を目的に襲撃を続けた。有力なガージー指揮者は君侯として各地に割拠し、事実上の独立国家を形成した。モンゴルの侵入によるアナトリアの混乱はこの趨勢に拍車をかけ、ますます多くのガージー志願者が辺境地帯に流入した。彼らの出自は雑多で、ただ能力あるガージー君侯だけがこれを統率することができた。最も成功した統率者がオスマン君侯であり、#オスマン帝国#はガージー国家として勃興したといえる。 なお、ムガール帝国は東南アジアと無関係です。
- luune21
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イスラム帝国の何らかの末裔ではないようです。 オスマン帝国を建国(1299)したのはオスマン・ベイ(オスマン1世)です。彼はルーム・セルジューク朝の武将あがりです。 彼の父親はエルトゥルル・ベイですが、彼は純粋に非イスラム系トルコ人の一族長であり、途中からルーム・セルジューク朝に加担した人で、イスラム教徒でもなかったようです。 後に息子オスマン・ベイがイスラム教に改宗し、そこから少しずつ領土を広げていって、やがてルーム・セルジューク朝の崩壊とともに帝国の名乗りをあげたということのようです。
補足
そうなんですか。ありがとうございました。私はてっきりオスマントルコはイスラム帝国がひろまるにつれて、トルコも広まってきたと解釈してたのですが、違うようですね?? 補足ですが、オスマントルコ関連ではないのですが、インドのムガル帝国ありますよね?この帝国が滅んだ後に、カンボジア、ビルマと独立していったのでしょうか?インド近辺の広がりについて知りたいです。 お願いします・
- sagiri_g
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オスマン帝国の変還を軽く 1299年建国、首都ブルサ(コンスタンティノープルの南側) 1366年アドリアノープルに遷都(コンスタンティノプルの北西) 1396年バルカン制圧 1402年アンカラの戦いにてティムールに敗れる 1413年復興 1453年ビザンツ帝国を滅ぼす コンスタンティノープルをイスタンブールに改名し首都にする。 1543年イランのサファヴィー朝を破る 1517年エジプトのマルムーク朝を征服
お礼
ありがとうございます。とても参考になりました。教科書から入ったほうが、よさそうですね。勉強もっとします。