辞書で、couldの[能力]の項の例文に、
She was[had been] tired out before she could get to the village
その村に着くことができないうちに彼女はすっかりへたばってしまった
というものがありました。
couldは長いスパンでの潜在的能力を意味するため、ある一回だけの行為ができたという「可能」の意味では使えないと辞書にあります。しかし上記の例文に関して、訳文から判断するに、村に辿りつくことは、ある一回だけの行為なのではないでしょうか?つまり、before she got to the villageとか before she was able to the villageとすべきではないでしょうか。
上記のcouldが[能力]だとすれば「其の村に辿りつく能力がある前にへばってしまった」と支離滅裂になりませんか
つまり村への移動(村に辿りつこうとする試み)が現在までに何度も習慣的にあって、その度にその人はへばっていた、つまりその人は村に辿りつく能力が無かった、という意味で言っているのでしょうか。「村に辿りつく能力を身につける前に、彼女は(その努力に挫折して)へたばってしまった。」という意味なのですか? そうだとしたら例文の訳はかなりの意訳になってしまいます。
「コメント」拝見いたしました。
>How could I be stupidも文脈によって
>「どうしてそれほど愚かでありえようか(否定)」
>「なぜそれほど愚かであったのだろう(後悔)」
>という2つの意味にとれるという御回答を頂いたのですが。
>この(後悔の)意味は、例文に当たる限りでは仮定法過去完了でのみ表現できると思われますが、いかがなのでしょうか?
⇒How could I be so stupidを「どうしてそれほど愚かでありえようか(否定)」と解釈する場合、couldを仮定法とみなすわけですが、「なぜそれほど愚かであったのだろう(後悔)」と取る場合は直説法とみなしていますね。
つまりこの(後悔と取る)場合、「愚かであった」のは事実で、その事実性を後悔している、という格好になります。したがってこの場合、仮定法過去完了にする必要はないと思います。
もしも、How could I have been so stupid.と仮定法過去完了にすると、実際上はともかくとして理屈だけで言えば、「どうして(あのとき)それほどに愚かでありえただろうか(否定)」、「なぜ(あのときより前に)それほど愚かであったのだろう(後悔)」というような内容を表わすことになります(このような用法は極めてまれなことだと思います)。
混同しやすいことですので、もう少し分かりやすい、似た例でポイントを抑えておきましょう。
How could you do such a stupid thing?
直説法での解釈:「キミは、どうしてそんなばかなことができたのか?」
(過去の事実に関する非難の表明=「ばかなことをしたもんだ」)。
仮定法での解釈:「キミは、どうしてそんなばかなことができるというんだ?」
(現在・未来に関する反語的警告=「ばかなことをするんじゃないよ」)
ということで、ここでもう一度、couldと直説法・仮定法の関係を整理しておきましょう。
☆ could
直説法:「~できた」(過去のこと)
仮定法:「~できれば・できるなんて・できるかも・できればなあ…」(現在・未来のこと)。
☆ could have+過去分詞
直説法:「~できてしまっていた」(過去の過去=大過去のこと)
仮定法:「~できていたら・できたなんて・できたかも・できていたらなあ…」(過去のこと)。
質問者
お礼
How could I be so blind
All that I love in life
Just stripped away from me
A world I can’t see
I refuse to weave you such a beautiful lie.
I would rather feel the pain, to be empty inside.
How could I be so blind, to ignore such a cry.
I would rather watch that cold dream, where I died.
How could Iの形が2度ほど登場しますが、
いずれも後悔を表すということがネイティブ4名の供述によって分かりました。
ネットで調べてもHow could Iはいずれも「どうしてそのようなことができようか、決して出来はしない」という否定であるという情報ばかりだったので、それには疑問を感じていましたが、その不信感は正しかったようです。
ただそのときに不安だったのは、
How could I be so blind, to ignore such a cry.の直後の
I would rather watch that cold dream, where I died.
もし「~してしまった」という後悔ならば、直後の「むしろ~したい」が繋がらなくなる(というわけではないですが不自然さが残ってしまう)
Aをしない→むしろBするという自然な形にならないためです。
しかしこのHow could I be so blind, to ignore such a cry.(後悔)は、
All that I love in life
Just stripped away from me に掛っていたのだと思われます。
つまり全体を並べ替えると
意味グループ1
How could I be so blind(後悔)
How could I be so blind, to ignore such a cry.(後悔)
A world I can’t see
All that I love in life
Just stripped away from me
意味グループ2
I refuse to weave you such a beautiful lie.
I would rather feel the pain, to be empty inside.
I would rather watch that cold dream, where I died.
詩は、初心者の私の教材としてはかなりリスキーだと思いました
意味のつながりがバラバラですよね。
もしどうしても詩で英語を学ぶ場合はだれかに和訳してもらってから、
その正しい日本語訳を参照しながら学ぶべきかと感じました
自分がいかに英文法が苦手なのかを思い知らされました
とくに、あのtoを副詞的用法であると気付けなかったことは、私が英語の超初心者であることを裏付けていた
しかし本件に関して言えば拘り過ぎたと猛省しております。
Naky702様のご贔屓のオルテガの言葉を借りれば
"Cogito ergo sum."「我思うゆえに我あり」でなく、
"Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」が私どもの英文法に対する認識です。
いつもながら思いますが、本件においても、
皆様の豊かな知性と知識、そして寛容さと忍耐力に大いに助けられました。
どうかまた御回答いただけますよう、どうかお願い致します。
質問者
補足
いつも御回答どうもありがとうございます。
とても混同していたので、ていねいに分かりやすくまとめていただき、助かります。
皆様の御回答を総合するとHow could I~?の形は後悔も否定も両方を表せるということになります。
>>How could I be so stupidを「どうしてそれほど愚かでありえようか(否定)」と解釈する場合、couldを仮定法とみなすわけですが、「なぜそれほど愚かであったのだろう(後悔)」と取る場合は直説法とみなしていますね。
>>つまりこの(後悔と取る)場合、「愚かであった」のは事実で、その事実性を後悔している、という格好になります。したがってこの場合、仮定法過去完了にする必要はないと思います。
後悔と取るならば、このときcouldは過去の事実を後悔しているわけだから、
直接法であり、したがって仮定法(過去完了)ではありえないので、
完了形の形になることはありえない、ということでしょうか。
>>このような用法は極めてまれなことだと思います。
How could I have kissed him?
どうして私が彼にキスしてしまったのだろう。(後悔)
How could I have been so stupid?
どうしたらこんなに間抜けでいられたんだろう?(後悔)
How could I have said such a thing to her? (後悔)
なんだってそんなことを彼女に言ってしまったんでしょう
一応、表現としては正しいようです。
上記は、仮定法過去ではなく直接法、ということでしょうか。
仮定法と捉えても「どうして~でありえただろうか」
と形としては現在の事実に反するような言い方をしているけれども、
その仮定法的な意味を反語的に利用して、「なぜそんなことをしてしまったのか」と、
結局、後悔を表せるのではないでしょうか(文法上の分類はともかくとして)?
最終的には、「愚かであったのは事実で、その事実性を後悔しているという格好」。あれ?直接法と同じ働きをしてしまいます。これまでの論理でいくと完了形になれないはずなのに。
それは日本語の「どうして~でありえただろうか」が「なぜそんなことをしてしまったのか」という意味にもとれるのと同じです。 であれば、この件に関して言えば、実際の運用において「仮定法」「能力」「直接法」などと細かく言語学的に分類することの不毛さを感じてきました。実質同じ働きになる気がしてきました。実質同じ、というか、そもそも同じものである可能性を感じて参りました(この日本語の表現も「同じものであった可能性」という言い方と何が違うのか・・・・)
事実、How could I be stupidは後悔にも否定にもなる。じゃあ分類に何か意味があったのかと。
どうせ実際の運用に置いて思考の流れの中で瞬時に言語学的定義を考えて使い分けるなんて無理だと思いました。
結局、「できた」という唯一の本質的な意味が、文脈によって様々な表情を見せているだけで、本質的には分類してバラバラに定義できる(すべき)ものではないという気がしてなりません。現代日本語の文法や単語が明治に英語から模倣されて精巧に造られたものであるからか、最近、日本語で考えるとスッとわかりやすいことが。とはいえ、それが文法的にどのような働きをしているのか、ということも、重要と思います。How could I be so blind to ignore such a cryのto不定詞が副詞的用法であることに私は気づけませんでしたが、そのとき文法的に解説して頂いて本当に分かりやすかったです。私は英文法が苦手だから大嫌いなのですが、英文法を学んでいる人からすれば当たり前に気づいたはずです。もし英文法が無かったら、沢山の単語を覚え、たくさんの例文、たくさんの場合の数にあたって、没入法のなかで無意識に習得していくしかない?中高生や社会人は英語以外に様々な科目を学ばなければならないからそんなことはできないので、時間や場合の数を補ううえで英文法は有用であると実感します。でもcouldはあまりにも掘り下げたと後悔しています。
なるほど、分かりにくい、微妙な問題ですね。
実はこのcouldは、一口で言えば確かに「能力」を表わすとなりますが、その内容をよく認識する必要があります。つまり、簡単に言えば、「一回だけの行為」かどうかということより、「(やろうと思えば)できた」、「できるかどうか・実現するかどうか分からなかった」ことを表わす場合などには、couldが使える、ということです。
(1)「(やろうと思えば)できた」ということを表わす場合
I could hear a nightingale in the midwinter.
「真冬にウグイスの鳴声が聞けた」。
(2)「できるかどうか疑わしいとか、分からなかった」ことを表わす場合
Perhaps my grandmother could walk, but she called a taxi.
「たぶん祖母は歩けたが、タクシーを呼んだ」。
ということで、
>She was tired out before she could get to the village.
「村に到着できる前に彼女は疲れきってしまった」
は、(2)の用法と同じです。
なお、この文で「彼女が村に到着できたかどうか」までは分かりません。そこまで言及してはいないのです。(たぶん到着したであろうことは予想させますが)。
因みに、上記の用法〔特に用法(2)〕と似ていて紛らわしいですが、それとは異なるcouldの用法として、「仮定法」があります。上記の用法のcould(=直説法過去)はすべて「過去のこと」を表わしますが、仮定法として用いられるcould(=仮定法過去)は「現在や未来」を表わします。:
If I were rich I could travel around the word.「金持ちなら世界旅行できるのだが」。
He could get a Novel Prize for physics.「彼はノーベル物理学賞を取れるかも知れない」(推量)。
I could visit you tomorrow afternoon.「明日の午後ならお訪ねできるでしょう」(婉曲)。
いつもお世話になっております。整理させていただきます。
[能力]のcouldは「過去において~する潜在的or継続的or習慣的能力を持っていた(現在できなくても構わない)」
[状況的可能性]のcouldは「いつでもそうすることができた」
中学生のころピアノができた、会社勤めのころ5ヶ国語を話せた(過去の潜在的or継続的or習慣的能力)
独身の頃お金を自由に使えた(過去における状況的可能性)
※上記二つは実質的に同じ役割?
過去の一回だけの個別的実現はwas/were able toや、managed toなどcould以外
たとえば一週間前山頂へ到達できた、
昨日その本を買えた、先月5万使うことができた、昨日外泊が許されたなど。
How could I ~が仮定法過去の意味でつかわれるときcouldは現在の推量的な意味で
意味は「どうして~しうるというのか」→「できようはずもない」
[過去の能力]の意味ではないので、現在や未来のことを言っている。
How could I have been so stupid? は仮定法過去完了のcouldで
「どうしてそんなに愚かでありえたのか」
ただし、文脈によって、それは次の2通りの意味になる(日本語でもいずれとも解釈できるのと同じ)
「どうしてそれほど愚かでありえようか(否定)」
「なぜそれほど愚かであったのだろう(後悔)」
ここまでは、ネットでの情報や頂いた御回答で理解しました。
さらにHow could I be stupidも文脈によって
「どうしてそれほど愚かでありえようか(否定)」
「なぜそれほど愚かであったのだろう(後悔)」
という2つの意味にとれるという御回答を頂いたのですが。
この(後悔)の意味は、例文に当たる限りでは仮定法過去完了でのみ表現できると思われますが、
いかがなのでしょうか?
2.ある特別な状況があって、それがあったから(それがあったのに)~できた、という「達成感」を表す場合。
これは文法書の記述によるものです。
そうですね、以下の本は比較的手に入りやすいと思います。
そこに挙げられている参考文献も、よろしければご覧下さい。
・『現代英文法総論』レナート・デクラーク(著)、安井 稔(訳)(開拓社)
・『英語法助動詞の語法』柏野健次(研究社)
>How could I be so blind, to ignore such a cry.
文法で言う「能力」というのは、先天的に持っている力、あるいは後天的に身につけた力のことです。
Abilityのことであって、単に習慣的なことではありません。
さて、how could S do ...? は「どうしてそんなことができたの?」という意味にもなります。
文法用語で言えば、possibility であって ability ではありません。
(文法用語なので、気にしなくても構いません。)
ま、普通は反語というか、信じられない、という気持ちを表す表現です。
"How can you lie to me?"
"how could you lie to me?"
"how could you have lied to me?"
で、上の三つはそう変わりません。
一番上はちょっとストレートすぎて、使いにくいですが。
日本語でも、「よく私に嘘がつけるね」といっても、「よく私に嘘がつけたね」と言っても、同じようなものですから。
さて、それを踏まえて、How could I be so blind、これが過去か現在かですが。
前後を見てみましょう。
how could I be so blind
all that I love in life just stripped away from me
a world that I can't see
あるいは
I refuse to weave you such a beautiful lie
I would rather feel the pain to be empty inside
how could i be so blind to ignore such a cry
I would rather watch that cold dream where i died
全て「現在」の話なので、How could I be so blind、ここだけ「過去の能力」とは、私にはどうしてもとれないのですが。
「現在」の話の中で突然、過去の後悔を持ち出されても困るので、
How could I have been so blind to ignore such a cry
は、ここではちょっと難しいですね。
質問者
お礼
ということは、
How could I be so blindでも
How could I have been so blindでも
文脈によっては同じ意味で後悔を表せるということでしょうか?
御回答ありがとうございます。
質問者
補足
>>文法で言う「能力」というのは、先天的に持っている力、あるいは後天的に身につけた力のことです。Abilityのことであって、単に習慣的なことではありません。
[能力]のcouldは「過去において~する継続的、習慣的能力を持っていた(現在できなくても構わない)」
もしくは「潜在的能力」ということでしょうか。
>>how could S do ...? は「どうしてそんなことができたの?」という意味にもなります。
>>日本語でも、「よく私に嘘がつけるね」といっても、「よく私に嘘がつけたね」と言っても、同じようなものですから。
つまり、how could S do ...? は文脈によって意味が変わる、ということですよね?
それを前提とするならば、
1つ目のhow could I be so blindですが、
こちらは「どうして盲目的でいることができたのか」という後悔を意味していると思うのです。
その後の「愛するすべてのものが消え去った。私には見えない世界」という文から、
つまりこの人は盲目的だったんだなと判断できます。そしてhow could S doが文脈によって意味が変わるというなら、
この部分は「盲目的でした」と言っているんだな、と演繹できると思うのですが。
(愚かにも)Aをしてしまった→だからBでありCである
意味が通ります。
このとき、現在の話の中で過去のことを持ち出すことはどのように不自然でしょうか?
そして2つめのHow could I have been so blind to ignore such a cryですが、
その直後にwould rather「むしろ~したい」と言っているのだから、このhow could S do ...? は
「そんなことができたはずがない」つまり、「どうして私がそんなことを見落とすほど盲目であり得るのか?」ということだと演繹できると思います。 Aはできなかった→むしろBしたい
could もある条件が整えば、一回限りの行為にも使うことができます。
1.知覚動詞などと一緒に使う
I could smell burning.
I could understand everything she said.
2.ある特別な状況があって、それがあったから(それがあったのに)~できた、という「達成感」を表す場合。
I could reach the branch because it was loaded down.
「枝が重く垂れ下がっていたので、手が届いた」
Even though I was caught in a traffic jam, I could still get there by 5:00 yesterday.
「機能は渋滞に巻き込まれたけど、5時までにそこに着くことができた」
3.疑問文、否定文など、実現しなかった、あるいは少なくとも実現が前提とされていない場合。
Paul was ill. He couldn't play in the match.
「ポールは病気で、試合に出られなかった」
Could they rescue the cat on the roof?
「屋根の上の猫を救うことができただろうか」
before 節の場合、結局実現できなかったわけですから、could が使えます。
お手持ちの辞書にも、
◆否定の含意をもつ before などの節内や hardly など否定の意味を持つ文の中でも使うことができる
と書いてあるはずです。
質問者
お礼
お薦め頂いた書籍は絶版で少々割高ですが、そもそも学術書というのはどれも高いものだし、神田の古本屋で高いお金を払って買うのが伝統ですよね。機会があれば是非読んでみたいです。ありがとうございます
How could I be so blind
All that I love in life
Just stripped away from me
A world I can’t see
I refuse to weave you such a beautiful lie.
I would rather feel the pain, to be empty inside.
How could I be so blind, to ignore such a cry.
I would rather watch that cold dream, where I died.
How could Iの形が2度ほど登場しますが、
いずれも後悔を表すということがネイティブ4名の供述によって分かりました。
ネットで調べてもHow could Iはいずれも「どうしてそのようなことができようか、決して出来はしない」という否定であるという情報ばかりだったので、それには疑問を感じていましたが、その不信感は正しかったようです。
ただそのときに不安だったのは、
How could I be so blind, to ignore such a cry.の直後の
I would rather watch that cold dream, where I died.
もし「~してしまった」という後悔ならば、直後の「むしろ~したい」が繋がらなくなる(というわけではないですが不自然さが残ってしまう)
Aをしない→むしろBするという自然な形にならないためです。
しかしこのHow could I be so blind, to ignore such a cry.(後悔)は、
All that I love in life
Just stripped away from me に掛っていたのだと思われます。
つまり全体を並べ替えると
意味グループ1
How could I be so blind(後悔)
How could I be so blind, to ignore such a cry.(後悔)
A world I can’t see
All that I love in life
Just stripped away from me
意味グループ2
I refuse to weave you such a beautiful lie.
I would rather feel the pain, to be empty inside.
I would rather watch that cold dream, where I died.
詩は、初心者の私の教材としてはかなりリスキーだと思いました
意味のつながりがバラバラですよね。
もしどうしても詩で英語を学ぶ場合はだれかに和訳してもらってから、
その正しい日本語訳を参照しながら学ぶべきかと感じました
自分がいかに英文法が苦手なのかを思い知らされました
とくに、あのtoを副詞的用法であると気付けなかったことは、私が英語の超初心者であることを裏付けていた
いつもながら思いますが、本件においても、
皆様の豊かな知性と知識、そして寛容さと忍耐力に大いに助けられました。
どうかまた御回答いただけますよう、どうかお願い致します。
質問者
補足
3については理解しました。確かに辞書に明記されております。
注意深く読んだつもりでいて、完全に見落としていました。
ありがとうございます。
さらに言えば、時勢の一致によって能力のcanが過去形となる場合も一回だけのことに対してcouldを使えるようですね。
しかし2について
>>ある特別な状況があって、それがあったから(それがあったのに)~できた、という「達成感」を表す場合。
も「~する能力があった」を表せるのですか?それはどの辞書にも載っていなかったのですが。
「~する能力があり、それゆえ実際にある1回限りの行為をした、できた場合はcouldは不可」としか辞書には記述されていません。つまり特別な状況や運に依存した実力以上の能力は、「~する能力があり」の条件を満たさないためにcouldを使えるということなのでしょうか。
以上を踏まえて、お尋ねしてもよろしいでしょうか
How could I be so blind, to ignore such a cry. という詩の一節があるのですが、
このcouldが仮定法ということは、同型の例文を沢山観たので予想できます。
「そうした慟哭を無視してしまうほど盲目的でいることがどうしてできようか」
しかし、どうして[能力]のcouldではありえないのでしょうか?
「そのような慟哭」が、一回だけであったとは限らないと思うのです
現在まで、習慣的に続いていた慟哭かもしれません。
それならばcouldは[能力]として、
「どうしてそのような慟哭を無視してしまうほどに私は(無神経にも)盲目的でいられたのだろうか」という後悔を表すのではないでしょうか?その場合は仮定法のcouldとはまったく逆の意味になります。
同型の例文を沢山観たので、そのような場合は
How could I have been so blind to ignore such a cryと完了形になるのだろうな、と感覚的には予想できます。
しかしそれはなぜですか?
How could I be so blind to ignore such a cryがいけない理由とは?
完了形の場合のこのcouldは[過去時の可能性と推量]でしょうか?[能力]でしょうか
直感的には理解できるのに文法的に分類しようとすると、例外が多くてなかなか理解が進みません。
お礼
How could I be so blind All that I love in life Just stripped away from me A world I can’t see I refuse to weave you such a beautiful lie. I would rather feel the pain, to be empty inside. How could I be so blind, to ignore such a cry. I would rather watch that cold dream, where I died. How could Iの形が2度ほど登場しますが、 いずれも後悔を表すということがネイティブ4名の供述によって分かりました。 ネットで調べてもHow could Iはいずれも「どうしてそのようなことができようか、決して出来はしない」という否定であるという情報ばかりだったので、それには疑問を感じていましたが、その不信感は正しかったようです。 ただそのときに不安だったのは、 How could I be so blind, to ignore such a cry.の直後の I would rather watch that cold dream, where I died. もし「~してしまった」という後悔ならば、直後の「むしろ~したい」が繋がらなくなる(というわけではないですが不自然さが残ってしまう) Aをしない→むしろBするという自然な形にならないためです。 しかしこのHow could I be so blind, to ignore such a cry.(後悔)は、 All that I love in life Just stripped away from me に掛っていたのだと思われます。 つまり全体を並べ替えると 意味グループ1 How could I be so blind(後悔) How could I be so blind, to ignore such a cry.(後悔) A world I can’t see All that I love in life Just stripped away from me 意味グループ2 I refuse to weave you such a beautiful lie. I would rather feel the pain, to be empty inside. I would rather watch that cold dream, where I died. 詩は、初心者の私の教材としてはかなりリスキーだと思いました 意味のつながりがバラバラですよね。 もしどうしても詩で英語を学ぶ場合はだれかに和訳してもらってから、 その正しい日本語訳を参照しながら学ぶべきかと感じました 自分がいかに英文法が苦手なのかを思い知らされました とくに、あのtoを副詞的用法であると気付けなかったことは、私が英語の超初心者であることを裏付けていた しかし本件に関して言えば拘り過ぎたと猛省しております。 Naky702様のご贔屓のオルテガの言葉を借りれば "Cogito ergo sum."「我思うゆえに我あり」でなく、 "Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」が私どもの英文法に対する認識です。 いつもながら思いますが、本件においても、 皆様の豊かな知性と知識、そして寛容さと忍耐力に大いに助けられました。 どうかまた御回答いただけますよう、どうかお願い致します。
補足
いつも御回答どうもありがとうございます。 とても混同していたので、ていねいに分かりやすくまとめていただき、助かります。 皆様の御回答を総合するとHow could I~?の形は後悔も否定も両方を表せるということになります。 >>How could I be so stupidを「どうしてそれほど愚かでありえようか(否定)」と解釈する場合、couldを仮定法とみなすわけですが、「なぜそれほど愚かであったのだろう(後悔)」と取る場合は直説法とみなしていますね。 >>つまりこの(後悔と取る)場合、「愚かであった」のは事実で、その事実性を後悔している、という格好になります。したがってこの場合、仮定法過去完了にする必要はないと思います。 後悔と取るならば、このときcouldは過去の事実を後悔しているわけだから、 直接法であり、したがって仮定法(過去完了)ではありえないので、 完了形の形になることはありえない、ということでしょうか。 >>このような用法は極めてまれなことだと思います。 How could I have kissed him? どうして私が彼にキスしてしまったのだろう。(後悔) How could I have been so stupid? どうしたらこんなに間抜けでいられたんだろう?(後悔) How could I have said such a thing to her? (後悔) なんだってそんなことを彼女に言ってしまったんでしょう 一応、表現としては正しいようです。 上記は、仮定法過去ではなく直接法、ということでしょうか。 仮定法と捉えても「どうして~でありえただろうか」 と形としては現在の事実に反するような言い方をしているけれども、 その仮定法的な意味を反語的に利用して、「なぜそんなことをしてしまったのか」と、 結局、後悔を表せるのではないでしょうか(文法上の分類はともかくとして)? 最終的には、「愚かであったのは事実で、その事実性を後悔しているという格好」。あれ?直接法と同じ働きをしてしまいます。これまでの論理でいくと完了形になれないはずなのに。 それは日本語の「どうして~でありえただろうか」が「なぜそんなことをしてしまったのか」という意味にもとれるのと同じです。 であれば、この件に関して言えば、実際の運用において「仮定法」「能力」「直接法」などと細かく言語学的に分類することの不毛さを感じてきました。実質同じ働きになる気がしてきました。実質同じ、というか、そもそも同じものである可能性を感じて参りました(この日本語の表現も「同じものであった可能性」という言い方と何が違うのか・・・・) 事実、How could I be stupidは後悔にも否定にもなる。じゃあ分類に何か意味があったのかと。 どうせ実際の運用に置いて思考の流れの中で瞬時に言語学的定義を考えて使い分けるなんて無理だと思いました。 結局、「できた」という唯一の本質的な意味が、文脈によって様々な表情を見せているだけで、本質的には分類してバラバラに定義できる(すべき)ものではないという気がしてなりません。現代日本語の文法や単語が明治に英語から模倣されて精巧に造られたものであるからか、最近、日本語で考えるとスッとわかりやすいことが。とはいえ、それが文法的にどのような働きをしているのか、ということも、重要と思います。How could I be so blind to ignore such a cryのto不定詞が副詞的用法であることに私は気づけませんでしたが、そのとき文法的に解説して頂いて本当に分かりやすかったです。私は英文法が苦手だから大嫌いなのですが、英文法を学んでいる人からすれば当たり前に気づいたはずです。もし英文法が無かったら、沢山の単語を覚え、たくさんの例文、たくさんの場合の数にあたって、没入法のなかで無意識に習得していくしかない?中高生や社会人は英語以外に様々な科目を学ばなければならないからそんなことはできないので、時間や場合の数を補ううえで英文法は有用であると実感します。でもcouldはあまりにも掘り下げたと後悔しています。