• ベストアンサー

金を行動原理としない最も簡易に人を操る手段が、容易

金を行動原理としない最も簡易に人を操る手段が、容易られない、通用しない人間と そうではない人間の利点欠点限界盲点とは? 皆さんにとって、 金を行動原理としない、 最も簡易に人を操る手段が通用しない人間と 金を行動原理にして、 簡易に操る手段が通用すり人間とは? 恋愛、哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

お金が一次的な“価値”であるためには、2つの前提が必要です。 1.生きる目的は、物質的繁栄(≒肉体的増殖)の追求か、   精神的充足量の最大化か。 2.「物質的繁栄」が目的である場合、その『繁栄』は肉体的自己   (衝動的充足)か、社会的自己(社会生命的自覚=愛)か。 今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為によっており、 そうした社会性の範囲での「利己」は「利他」を包含します (組織の順調な営為こそが、その構成員の最大の利益)。 そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識する=愛)です。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命= 助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きることとなる。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、 どれほどいるだろうか? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という 虚構の価値であって。 本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにも係らず、 いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、 お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。 (その錯覚の端的な例が、取引きに於いて役に立つものをもらう =助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)を もらう方が、お礼を言う奇妙) その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な 敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。 貨幣制とは、精神的充足の追求において重要な「自律的生存 =社会生命的自覚化」を省略して自己チューなまま安易に 社会化する社会システムのための、必要悪です。 (自己の社会生命性を認識できないバカを、他律的に 社会性のコースを走らせる“馬車馬の目の前のニンジン”)

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

「恋愛」・・・そうですねえ。 「三日で飽きる、美人かな」 (まあ、「性」の問題は、カネよりは複雑そうです) >「媒酌人が、新婦に問いました。「どうして、だったの?」」 >「一緒に居て、「この人なら」と、安心だったから」 >「そう。・・・それが何より一番ね」 ・・・まあ、そんなに固く、「カネなんでしょ?」みたいなことではないようにも思います。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ありがとうございます😊💖

回答No.3

カネに全く縁がない人々と、巨万の富を有する億万長者は、カネを行動原理にしない。 その中間に、カネを行動原理にしてしまう層があるんですね。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ありがとうございます😊💖

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

お金は欲望を達成するための道具です。 だから、お金を行動原理とする人間、というのは 欲望を行動原理とする、という意味になります。 そうで無い人、というのは、欲望を行動原理と しない人間です。 欲望の無い人間はいません。 だから誰でもお金は欲しいのです。 しかし、その欲しさには程度、段階があります。 お金を行動原理とする人、というのはその程度が 強い人のことで、行動原理としない人は、弱い人 ということです。 つまり、質の違いではなく量の違いに過ぎません。 デジタル的に、白、黒と分けられるモノでは ありません。 利点・・弱ければ上品と評価されます。 欠点・・強ければ下品と評価されます。 限界・・お金は人を動かすことが出来ます。     だから、人が出来ることはお金で出来ますが     人が出来ないことは出来ません。 盲点・・お金の価値は人間の脳にあるだけです。     だから国家が破綻するなどして、お金の信用が     なくなれば、お金はタダの数字、紙切れ、金属になります。  

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

関連するQ&A