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東アジア的自由とは?
政治学原論の講義で政治学においての自由は4つの種類があり、積極的自由、消極的自由、共和主義的自由、東アジア的自由だったのですが、最後の東アジア的自由だけ、定義がわかりません。 レジュメには、レヴィナスの「正義とは他者のうちに我が師を求めることである」という言葉が東アジア的自由の説明として書かれていたのですが、それとの関係性もわかりません… どなたかわかる方がいたら教えて頂きたいです!
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- kurinal
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こんにちは。 「積極的自由」と「消極的自由」は、ありました。 後の二つは判りません。
- ddtddtddt
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政治学原論ってのがあるんですね。昔、経済学原論っての取って、後悔した事がありましたが(^^;)。 #1さんの意見も踏まえると、次のように思えました。以下は個人的意見です。 自由の前に、なぜ自由を望むかというと、「そういう行動が正しい」=「それが正義だ!」と思えるからですよね?。そういう観点でまとめてみると・・・。 積極的自由: すぐ思いつくのはアナーキズムです。現状では、ISなのかな?。 消極的自由: 仏教における涅槃の境地。マックス・ウェーバーは、仏教を現世逃避的宗教と言いました。対してキリスト教やイスラム教は、現世支配的宗教と。 共和的自由: たぶん契約に基づいた、積極的自由と消極的自由のバランスを取った現実路線。ただし契約という概念は本来、西欧世界にしかない。 東アジア的自由: それで東アジア的自由。その代表は「極東」の島国「日本」。 ・正義とは他者のうちに我が師を求めることである. 確かに、師の背中を追いかけるうちに、仕事や経験を通して社会に適応し、ひとかどのものとして認められ自由度が増大していく。それはある意味、西欧的な共和的自由でも現象面では同じなのだが(西欧にはマイスターがいますから)、東アジアのマイスターや職人は、弟子に教えないのだ(^^;)。それで結局それは、 ・アウンの呼吸 が大事という事になると思います。 なのでめったに現れないが、そこで上手く育った稀有な例は、とんでもない手腕を発揮し、とんでもない自由を獲得する。この場合の自由は、西欧的な契約に基づいた自由ではありません。そのひと個人だけが納得する自由です。 そういう訳で、日本は最も暗黙知の制度化やシステム化が下手だ、と言われています(^^;)。
- koosaka
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積極的自由とは、バーリンの「自由論」では、「・・・・・への自由」、それに対して消極的自由とは「・・・・・・からの自由」のこと。 共和的自由は、そのバーリンの区分に従えば、積極的自由。 それに対し、東アジア的自由が、消極的自由。 アジア的生産様式とは、中国の専制国家のこと。 そのアジアの専制国家では、積極的自由はあり得ない、ありうるとしたら消極的自由しかない。 つまり、逃亡の自由。 レヴィナスの「他者論」とはあんまり関係ないと思いますが、正義は関係としてあるもので、関係がなかったら、正義と言っても、無意味。 他者の行ないを見て、あれが正義なのか?と知って、それに倣う。 でも、アジア的専制国家では、それは通用しない。 正義だから、それをしようと思っても、直ちに弾圧されるから。 今の中国の民主的活動家・劉堯波(?)が直ちに逮捕され、監獄にぶち込まれ、肝臓がんで死んだのを見ても分かる。 専制国家は絶対に積極的自由を認めない、まあ、消極的自由なら、認めないわけでもないから、海外へ逃亡すれば良かったと思う。 レヴィナスは難しいから読みません、あしからず。