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邪馬台国大分平野周辺説について

邪馬台国が杵築や大分など別府湾岸域にあった可能性ってあるのでしょうか。 ネットの掲示板で騒がれていて気になっています。 「邪馬台国はここだ」みたいな決めつけや主張は結構ですので、大分市・杵築市周辺にあったとして矛盾があるかないか、あるとすればどういう点が問題なのか教えて下さい。

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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.1

>大分市・杵築市周辺にあったとして矛盾があるかないか 矛盾は、ないと考えると・・・。 そもそも、魏志倭人伝を読む限り「一行は、九州地方を南に下って」います。 近畿説は「魏志倭人伝」に記載している「方位」は「間違っていると判断する事」が必須条件・前提条件です。 >あるとすればどういう点が問題なのか教えて下さい。 矛盾があるとすれば・・・ 魏志倭人伝を素直に読んで地図を進むと、奄美大島・琉球列島に到着します。

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回答No.3

返答もなくつまらないので、少し追記してみよう。 大分説はよく知らないのだけれど、おおよそ奴國を福岡平野、不彌國を福岡県宇美町とし、投馬國を日田とするのだと思う。 とすると、末盧國から奴國までは方位が東または東北となるが、記述は南東とかなりのずれがある。しかも次の不彌國への方位のずれは、また別のものとなる。さらに投馬國=日田、邪馬台国=別府も東→東だが、記述は南→南と、なる。 奴國→不彌國が、地図では南、記述では東、のずれ、であることを除けば、おおよそ全体が45度~90度のずれとも言えるが、5つしかない内の1つ(のずれ)が統一的でないのは減点だし、さらに全体の方位がずれているというのは、これはどの説にも言えることだが、大いにマイナスポイントだと言える。 不彌國以降の行程も、日数をある程度受け入れての距離とみられるが、全体の行程が万二千里と書かれていることを無視している(不彌國までで一万一千七百里の記述)。 また日数を行程とすると、日田・別府までの距離は短く、かつその距離比も正しいとはいえない(水行二十日と水行十日陸行一月)。水行も謎として残る。 水行陸行は、末盧國から伊都國へが陸行と記述されつつも、船からの陸揚が伊都國で行われたかのような記述もあり、この謎が解けないのを良いことに水行陸行を無視しがちだが、これもマイナスポイントと言える。 ざっとこのようなところか。

回答No.2

もう10年ほど前になるのですが、私の説をば。え、そんなのは要らない? まぁそういわずに・・ 魏志倭人伝には2度、魏からの使いがあったことが書かれていて、なぜか今までそれを無視してきたのですが、簡単に言えば福岡平野ルートと佐賀平野ルートの2つ別の行程だったというだけの話なのです。なので、久留米あたりで確定で、もしかしたら2度目の佐賀平野ルートでは遺跡で有名な吉野ケ里であった可能性はありますが、大分とかの可能性はゼロです。 大分だと、距離も方位も国名も全然一致しないから、無理やり一致させるしかないでしょ。 ちなみに、卑弥呼が死んだのも西暦247-8年ではなくもっと前で、おそらく西暦242-3年(2度目の倭の使いの年初かその前年)です。 かように、魏志倭人伝に関する大きな2つの発見をしたのだけど、なかなか世間に知れ渡らないものですw # ところで、ネットで話題って、どこで話題なのでしょう?

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