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人はどうして・・・
人はどうして自分が死にたいと考えている状態でも人には生きていてほしいと願ってしまうのでしょうか? その人にこの世で幸せに生きていてほしいと思ってしまうのでしょうか? 死んでこの世から逃げだしたい気分なら、 そんな辛い世にいて同じように死にたいとか 死にかけている人を見て 「これで楽になれるね、よかったね」って祝福してあげてもいいはずなのに。 どうして頑張って、少しでも生きてほしいと願ってしまうのでしょうか? 知識不足・人生経験不足なのか考えてもしっくりくる答えが浮かびません。 よろしくお願いいたします。
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- potatorooms
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ヒトって社会性動物です。しかも、一部のサルと違って、他人の子育てをする、自己遺伝子だけでなく、集団としての遺伝子を後世に残そうとする修正があります。 集団の中で個が不要だとか、周りに劣る要らない要員だと認識した場合、自分を消去することがあります。 また、その不安から、オメガ、集団の中で劣った存在を作り、いじめ、排除する修正があります。 一方で、集団で役割を持った構成員の存在は尊重します。この機能がないと、集団が成長することはありません。 ご質問のケースは、対象者が、集団から要らない要因とは認識できておらず、たいせつな構成員だという認識だからです。 相手の個人の気持ちよりも、自分の中に本能的に持つ集団を維持すること、社会の中での相手の価値で判断をするからです。 情や理性ではなく、生存本能だけで理屈を組み立てると、こんな説明もできます。
心は自然に「幸せそう」「楽しそう」なものに目を向けます。 自分がそうなれてるなら、それを見て幸せな気持ちにもなれますが、 自分がそうでない時にそれを見ると心は凹み悲しみ辛くなります。 頑張っても頑張っても届かないと悲しみが深くなり限界になって 怒りや憎しみや嫉妬に染まってしまう事もあります。 自分の中の負の感情が嫌で受け入れたくなくて自己嫌悪して 人と仲良く幸せになる資格がないと諦めてしまう優しい人も居ます。 (自己嫌悪も躊躇もなく負の感情を吐き散らしてしまう人も多く居る。) 結局のところ、何が「希望」や「幸せ」か心が知っているから 自分がそうでない状況に絶望したり不幸を感じるんです。 希望も幸せも感じた事がなく知らない人は、絶望も不幸も感じません。 どこまでも無機質に、ただ現実があるという世界観で生きています。 ・誰かと同じ気持ちを共感しあう。 ・誰かに優しくされる。 ・誰かに興味を持ってもらい受け入れられる。 そうした心が感じる幸せが、 「かつてあった。」「あちこちにある。」と知っているから >この世で幸せに生きていてほしい と願うことができます。 気持ちや想いが繋がり、共感しあい、報われる時の幸せを知っているから、 その気持ちが途絶えて失われてしまう死を悲しみ生きて欲しいと願う。 あなたが今感じている気持ちの理由はこうした所にあるのではないでしょうか。 ここからは余談になります。 人の心はそんなに強くありません。 誰一人として自分を受け入れてくれないとどんな人でも強い不安に襲われ、 自分を受け入れてくれそうな人に心は縋り付こうとしてしまいます。 縋り付いて振り払われると泣いて良心に訴えたり、脅したりすらし始めます。 今、心の支えが無く幸せから遠い人ほど不安定な心を垣間見せます。 人の心は結構自分勝手なものです。 自分が大好きな人物や作品を知って欲しい、共感して欲しいと押し付けながら 相手に全く同じ事をされて知ってもらえず共感してもらえないと拗ねます。 共感して欲しいのに共感してくれないと、 相手が大好きな人物や作品を、そんなのどこが良いのどこが面白いのと口走り 相手の大好きな気持ちを深く傷付けてしまい、自覚できなかったりもします。 親切や善意や愛情も、 こうしたらきっと相手もこうしてくれる という期待や打算が多く、 相手が期待通りの反応をしてくれなかったら失礼な人とか礼儀がなってないとか 軽々しく口走ってしまうほど、人の心はお互い様に結構、自分勝手なものです。 人は愛されたい時期にお腹いっぱい愛されると愛に飢えなくなります。 愛を確かめたり、試したり、試し過ぎて信用されてない悲しみを与えるなど 泥沼の悪循環に囚われ難くなります。 人は感想や気持ちを伝えたい時にお腹いっぱい伝える事ができると満足し、 自分が話したい欲求で強引にならず、相手の話を聞いてあげやすくなります。 沢山愛され、沢山気持ちを伝え受け止められると、 人はガツガツしなくなり、受け身で温和になって行きがちです。 「愛されたい」「伝えたい、共感されたい」という欲求が満たされていない人は 「愛されたい」「伝えたい、共感されたい」という人同士では欲求が衝突し、 我慢から傷付く一言がこぼれ出て喧嘩し疎遠になりやすくなります。 すると自然に「もう十分に愛され伝え共感された受け身で温和な人」に近付き、 一方的に「仲良し」にされてしまう事があります。 相手に精神的に依存され執着されると、 ただ自然な自分の意見を言っただけなのに、 相手は「傷付いた」「そんな事言う人だとは思わなかった」とか 子供っぽい自分勝手な主張をしてしまう事があります。 受け身で温和だとそうしたトラブルに巻き込まれやすく、 相手の「愛されたい」「伝えたい、共感されたい」という欲求が強ければ強いほど 愛着が激しく、執着し深い憎しみを抱えるようになる事もあります。 あなたの様な優しい人柄の人は上記のようなトラブルに巻き込まれやすいので 注意した方が良いと私は思います。 人の心は強くなくて、世界中の苦しむ人を支える強さは無いし、 たった1人の消えない悲しい記憶を取り去ってあげる事も出来ません。 悲しい記憶から何度も何度も悲痛な感情が吐き出され続け、 可哀想だから見捨てられないからと受け止めてあげ続けると、 こっちまでどんどん辛く苦しく受け止めきれなくなってしまいます。 あなたに生きてほしいと願う人が1人でも居るならば、 その人を悲しませない為に、 受け止めきれないものを突き離し見捨てる事も時には必要になります。 全部の人の想いを叶える事はできません。 一番大切な1つを人の想いを叶える事だけを考える。 そこから再出発する事も生き方の1つだと思います。 また、1人の人と長く深く付き合う事はなかなか難しいものです。 容姿、成績、興味、夢、恋愛、人柄、周囲の目、家族、収入など 皆1人1人違う為、 長く付き合い長く知ると、どうしてもお互い悲しみや嫉妬が芽生え、 心の中に好きと嫌いが一緒に存在するややこしい事態が増えて行きます。 人と深く長く付き合うには、適度な距離感がどうしても欠かせません。 家族も、恋人も、夫婦も、親子も、友達もそうです。 お互いが嫌な気持ちを意識し過ぎてしまわない「適度」が必要です。 どんな失敗の人生経験も、ちゃんと次に活かせば無駄にはなりません。 過去ばかり見つめず、次はこうしようと考えて決めたら 過去はもう振り返らないように何か気分転換をして下さい。 長く長く生きている人だって失敗します。 失敗をちゃんと次に活かしていけば人は少しずつ成長できます。 人との心の繋がりが、幸せを生み、生きる意味を抱かせて行きます。 特別な能力が無くてもできる事は色々とあります。 例えばこちらの回答No4に記されているような事や、 https://okwave.jp/qa/q8181203.html お年寄りや親と一緒に暮らせない子の話し相手のボランティアなど 人の心との接点を持つという選択。 日本ではただの当たり前の衛生知識や栄養知識がない為に、 幼い子供が失明したり病死する国に行って、 現地の言葉を覚えて知識を伝えなぜ必要か伝えて命を救ったり。 動物や植物の保護活動のボランティアに参加したり。 特別な何かができなくても、 誰にでもできる何かで、誰かを助ける事はできたりします。 人に必要とされる道が見つかれば、 心は自然に前へ向かおうとし始めます。 最初の一歩を勇気を持って踏み出してみて下さい。 心に何かを感じる事ができれば、 自然に生きている意味も湧き上がって来ますから。 それでは長文失礼しました。 あなたの未来に安心や幸せが多くある事を祈ります。
- sakura-333
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・自分は頑張る気力が失せてるけど、他人事として少しの望みでもあるから。 ・死ぬ勇気がなく、この世の辛さを一緒に味わう仲間がいる事への安心感から。
- AnataO192
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>人はどうして自分が死にたいと考えている状態でも人には生きていてほしいと願ってしまうのでしょうか? ・自分が1日中ほんとうに死にたいと考えている時期は、人のことなんか考えませんよ、考えられないほど重症な状態ですし、願うなんて余裕などないと思いますよ。 (衝動的に自殺してしまう人もいますね) >その人にこの世で幸せに生きていてほしいと思ってしまうのでしょうか? 言う人言われる人両者とも、死にたいレベルが軽い人で、言う人は言われたことによって救われた経験者。 言われた人は「死にたい」ということを簡単に人様へ言ってはいけないことを知りながらも、ついこぼしてしまった人で、たぶんこれから「死んだらダメ」と言う側になれる人。 簡単に言うと、前述した経験者が言う言葉であって特に幸せになってほしいなどとは思っていない。 単純に「生きてりゃ何とかなるもんさ」みたいな感じですよ。 例外はお決まり文句をどこかで覚えてきた偽善者による台詞。 >「これで楽になれるね、よかったね」 ・という人が居るとすれば、不治の病で自殺が認められている法律がある外国の例外、または、おこちゃまな脳みその持ち主で、癇癪持ちの皮肉な丁寧語。 ※死にたいとき「死にたい」と言ってみたら「私も毎日死にたいと思っている」と真剣な友だちのつぶやきを聞いて「なんでこいつ死にたいのかな?」と思ったことがあるが、ある意味負けたような感じ…。 絶望状態において、一縷の望みが本人の無意識のうちにはたらき「死にたい」と言っているのかもしれない。 それはもう何年も経っているが現在は「救われた」のかなと自身思っているのか…その時のことを忘れることはない。 そのころ元気だったその友だちは現在植物状態で寝たきりになってしまった。 …もう一つ答えとして、「祝福するという考え」がどこから来たのか質問者さんは自問自答していれば、よい答えが見つかるのではないかな。
- kurokuro_siro
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「死にたかったけど、とどまったらちょっといいことがあった」という経験をしたからじゃないでしょうか。
- 177019
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「人は生きるために生きています。」貴方、指に小さな怪我をした記憶はありますか?怪我したという事は血が流れ出ます。でもそのままにしておくと血は自然に止まります。学校で習いませんでしたか?「血液の凝固作用」これが生命、命なのです。どんな外敵に傷付けられようと血が流れ出ようと、いつの間にか白血球が集まって来て、その傷を塞ごうとする作用、つまりは命を守り生き抜く作用が人間には元々備わっているのです。だからどんなに辛く苦しい状態の人を見ても私は「生きて下さい、頑張って下さい。」と励まします。生きている限り解決出来ぬ問題は一つとてありません。時間は掛かってもすべて解決します。「死んでこの世から逃げ出したい?」この世で死んで生き帰った人間はいません。死んだらバラを引いた花園のような世界があるような、それは一部の仏教宗派が言う事であって文献的に何の根拠も無い話です。では「死」とは何ですか?自然な事なのです。人は朝起きて夜眠ります。これと同じく死があって生があります。これを繰り返すのです。特別なものではありません。この自然な営みをある宗派は一度と考える。だから葬式に相当なお金が必要となるのです。自然な事に当たり前の事に何で多額の金員が必要なのでしょうか?そして、地獄や極楽がある訳ではありません。死後の生命はそれまでの集積された業報によって厳然と苦楽を感じ続けて行くのです。そしてその死後の生命が燃え盛る溶岩の中に身が焼き尽くされているような苦しみを感じていれば地獄ですし、歓喜に満ちた楽しみの中に安息していれば成仏です。これは臨終の時にその死相を見れば分かる事です。だからこの臨終の時の相が一番大事なのです。
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