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日本人の考え方は何から来ているのか?
私は、西欧人とアジア人、両方との付き合いがありますが、西欧人と日本人に共通の価値観があるのか西欧人には基本的に違和感を感じません。アジア人、つまり東南アジア人やインド人、中東アフリカのイスラム教徒等との付き合いでむしろ大いなる違和感を感じる事がしばしばです。 我々日本人は、人は親切であるべきだとか、思いやりを持つべきだとか、理解のある人間であるべきだとか、責任感を持つべきだとか、そのような考えを無意識に持っています。そういうのは西欧人と共通するようで、会話もスムーズになります。 我々日本人の大半は無宗教ですが、日本人のこのような考えはどこから来ているのでしょうか? かつて、山本七平氏が「日本教」という著書を著し、その中で日本人は誰でも日本教の信者であると書いてました。日本人のクリスチャンは日本教徒キリシト派であって、決して日本教徒からは脱することは出来ないと・・・なかなか説得力のある論述でした。 彼の指摘が正しいとしても、それにしても、その日本教がどこから来たのか、どういう経緯で成立し、日本人の精神を支配するようになったのか、私の記憶ではそのようなことは書いてなかったように思います。 日本人が考え、行動する時、何かの考えに支配され、従っているはずです。早い話、親が子供に「優しい子になって欲しい」という話はよく聞きます。「優しい子になって欲しい」という考えはどこから来ているのでしょう? 日本には仏教や儒教が入って来ましたが、それらに影響を受けたせいでしょうか? インド人やフィリピン人よりも、西欧人との共通項があるというのが不思議です。 宜しくお願いします。
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- veradico
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>我々日本人は、人は親切であるべきだとか、思いやりを持つべきだとか、理解のある人間であるべきだとか、責任感を持つべきだとか、そのような考えを無意識に持っています。 >そういうのは西欧人と共通するようで(す)。 >…日本人のこのような考えはどこから来ているのでしょうか? 以下の2つがあると思われます。 (1)日本人が持つ、長期的な意味での時代に左右されない行動様式(エトス)。 (2)短期的な意味での時代の影響を受ける「霊」(人々を動かしている支配的精神態度:プネウマ) (1)は、例えば、江戸時代から明治近代国家になっても、明らかに変わっていないと思われる日本人の行動様式があります。一例では、「察し」「恥」「謙譲」「敬語」「タテマエ」、などでしょう。(2)は、明らかに明治維新以後、日本人は欧米人(主にアングロ・サクソン人)の「エトス」の影響を受けるようになった。さらに、大東亜戦争に敗北して連合軍(主にアメリカ)の占領支配を受けた結果、アメリカ人が持ち込んだ価値観やプネウマ、例えば、個人の欲望、快楽追求、物質・金銭主義などの大幅な優先を是とする、などの影響を受けた。さらに、近年の情報化社会により加速した欧米先進国からの精神的・文化的な影響もあります。以上の点は、いずれも現在のわれわれ日本人の精神態度の内に存在しており、日本人にそのように振る舞わせる力になっていると思われます。
- 雪中庵(@psytex)
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日本文化は「西欧と共通性がある」のではなく、 集団主義において、自分のポリシーや価値観ではなく 何でも回りに合わせるだけだ。 アメリカ人にとって、何でも薄笑いを浮かべて思った ことを言わない日本人より、自己主張の激しい中国人 の方が理解できる(仲良くできるとは別の話だが)のだ。 日本の文化的気質のベースを成すのは、中国・江南地方 にある最古(8~9000年前)の水田遺跡を核心部とする、 日本~中国・江南地方~雲南~ブータンの「ジャポニカ米 稲作農耕文化圏(=温帯モンスーン地域=常緑照葉樹林帯 =血液型A型地域)」である。 その特徴は、集約農法に適した強固な地域コミュニティの 集団主義の協調性、雨季に拘束された年間を通じた計画 的生産の几帳面さ、といった“A型の性格”である。 ところがジャポニカ米以外の稲作農耕地域はもとより、先述 の同じ文化圏においても、他の文化圏にはない日本文化の 特徴は、上記の稲作農耕を伝来した渡来人と混血した縄文 人=太平洋全域に分布する航海能力を持つポリネシア人 の島国文化である。 隔離された土地に常に同じ顔ぶれが過ごすため、相手に 合わして遠慮する日和見的性格は、稲作農耕文化の集団 主義とは微妙に異なる融通無碍なものだが、この世界の 代表的集団主義がオーバーラップした稀有な集団主義的 性格は、たまたま工業化の大量生産作業に適しており、 アジアの片隅にこつ然と先進工業国を興せしめたのだ。
- amenhotep2000
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rsemq819nlさん こんばんは。 結論から書くと、日本人の人間力とは「寛容」の精神と思います。 これは、現在でも、人間関係で「お互い様です。」などと、他人を許容する能力で、日本の農耕社会から育まれた精神と思っています。 しかし、悪く解釈すると、YES、NOをはっきりさせないということになり、現在のグローバル化の中でキリスト教的な善悪二元論が日本においても求められることになっていると思われます。 しかし、この日本人の「寛容」のこころが、サムエル・ハンチントンの著書「文明の衝突」で世界にただ一つだけという日本文明を生み出したと思います。 天皇の祖先とされ、日本という島を造ったのは、イザナギの神、イザナミの神と言われていますが、6世紀の欽明天皇の時代に朝鮮から仏教が伝来すると、これらの日本の神々も、8世紀頃、 「神の身を受けているゆえに苦悩は深い。よって仏法に帰依して神道から免れたい」 と人間にお告げをして、日本の古来の神々は仏になるための修行の過程にあるとされました。 これを、本地垂迹説と言い、神社の境内に神宮寺が建てられ「神仏習合」が行われました。 シルクロードの東の果てにある、ガラパゴス諸島のような、日本人の「寛容さ」がうかがい知れます。他国の文化を柔軟に受け入れ、独自の文化として融合させる。 例えば、「ラピスラズリ」という、古代エジプトで魔除けとして、ピラミッドの王の棺に使われた宝石は、聖書においても、出エジプト記35章に神の幕屋の建設に使ったと記述がありますが、日本では、「瑠璃」と呼ばれ、日本の仏教においても魔除けとされました。 仏教は来世も考える宗教ですが、当時の民衆においては、現世で飢え死にせずに生きる、ということが、もっとも大事なことであり、仏教に帰依したはずの神々を祭ることで、五穀豊穣を願いました。 来世信仰でなく現世的な利益を願いというと不純のようにも思われますが、それは、現代に生きる私たちが「飽食の時代」に生きていることにより、考えず見過ごしていることであり、日本の世界遺産に登録されましたが、「祭り」というものは、そのような当時の民衆の切実な願いが込められていると思います。 このような、日本古来の神と仏教が融和した時代が長く続きましたが、明治になり、西欧列強の植民地支配を逃れるため、天皇を神として奉り、仏教から切り離し、西洋の科学を取り入れ富国強兵が行われました。仏教は廃仏毀釈により、現在にあれば国宝級の仏像は薪として燃やされ、経典は土産物屋の包み紙にされたそうです。 当時は西洋だけでなく、東洋からも「日本は西洋のマネをする猿」などと笑われましたが、激動の明治を生き抜いた人々によって、日露戦争に勝利し、近代国家であることを世界に認めさせることができました。 しかし、その後、軍部暴走により太平洋戦争に突入し、敗戦により、天皇も象徴天皇として神でなくなりました。新渡戸稲造が苦労して英語で書いた武士道も特攻隊とともに捨てさりました。 戦後、焼け野原から日本を復興させたのは、科学と思います。しかし、私が思うに、明治時代、日本は急速に西洋文明を取り入れるにあたり、この科学というものをよく考察していなかったのではないかと思います。 西洋の中世のキリスト教社会においては、禁欲と節制が神に至る道徳として教えられました。 しかし、キリスト教の教会の力が弱まると共に、西洋において禁欲と節制ではなく、その反動として、欲望を満足させることこそが、幸福につながるという哲学的な考えが支配的になってきます。 科学はこの哲学的考えに良くマッチして、産業革命を起こさせる技術に結びつきました。 そして現在の我々も、科学の発達において、食や健康にもおいて、恩恵を受けています。 しかし、科学が力をつけるにつれ、私に言わせると「科学教」という宗教に現在の人々は、溺れているのではないかと思うことがあります。つまりお金とモノが支配する物質社会です。 日本において高度経済成長期は、科学教が十分役割を果たし、所得倍増、3Cという三種の神器を買うのが、仕事のモチベーションになりました。 そして、日本はついにバブル期において、世界一になりました。 当時は日本万歳、西洋はもういらないと日本中の人々が踊りました。しかし、当時において、こんなに「モノ」に満たされているのに、「こころ」は満たされない。幸福度指数がブータンより日本が低いのはなぜかと議論されました。 しかし、結果はバブルという泡という幻であり、現在にいたるです。 私は、日本人の強味である、「寛容」という人間力を発揮し、人々がお互い尊重しあい、新しい未来を創り上げていくのがいいのではないだろうかと考えています。 そして「モノ」ではなく、「こころ」を大事にする。 最後にアインシュタインの言葉を書きます 「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である。」アインシュタイン
- MONKEYMONKEY
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♯5 別に本にこだわってないですよ。本「など」から得た教養の違いだと申し上げております。 (日本人だってゲームしかしとらん) 教養に欧州と日本の共通点を無理やり求めても仕方ないのではないかと思いますが(単に、勉強・教育したからでしょ)、強いて言えば、騎士道と武士道が似てるからじゃないですか?。 武力で「ただ敵を抹殺してる民族」と、「武力で秩序を模索してる民族」が、インド、中国、中東と、欧州や日本が違うところじゃないですか。 つまり大義ですね。 ま、アテルイや、インディアンが聞いたらさぞこけると思いますが。
- sutorama
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いえ >大昔からさまざま戦争を繰り返し これについては日本と同じく、ヨーロッパ大陸内の領土の奪い合いなどの話です >西欧人との共通項があるというのが不思議です この質問文からひねり出しただけですので、同じく、私の考えではありませんよ 何かのヒントになるやも?ってだけですね
- nekosuke16
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神道の原点は自然に対する畏怖と感謝です。 そこに朝日が昇れば、今日の無事を感謝し、山の雪解け水が田畑を潤すならば、山に向かい手を合わせる。 逆に、大嵐や大水は、自然の恐ろしい実態を実感させる。 日本人の精神の原点でしょうね。 500年代に仏教が伝来し、聖徳太子の17条憲法には、神道の神髄と仏教との融合が見て取れ、「和を以て貴しとなす」という言葉には、当時からある日本人の感性が窺われます。 江戸時代に入り、論語を代表とする四書五経などの儒教が盛んになり、そこにある五常である仁、義、礼、智、信は、まさに日本人の心に根差すものであり、それを具体的に実践している民族とも言えるでしょう。 やがて、維新以降の教育勅語などでも忠孝や長幼の序といった感性が、継続的に引き継がれてきたということでしょうね。 戦後の道徳の時間なども、基本的にはそうした考え方が基礎にあり、近年に至るまでの間、国の政策として長い時間を掛けて、広く国民に行きわたった感覚なのだと思いますよ。 ただ、山本七平さんではないですが、こうした日本人の感性の原点が、西欧にある人間中心的な世界観ではなく、古代の時代から存在していた自然の中で生かされているという感謝の気持ちと畏怖心とが融合した、日本人独自の感性の中から日本教という名前が浮かび上がったのだと思いますよ。 現在は、かつてはキリスト教社会の中で生きていたヨーロッパの人々も、人間社会という現実に中で、ともすれば、宗教的なものが薄れている状況では、インドやフィリピンなど発展途上の国々と比べれば、宗教的なものを含めて自由なのだと思います。 そうなると、日本人の感性は自然崇拝を原点としても、何か特別な神様に捉われることのない自由な世界観ですから、当然、現在の西欧人とも共通項が出てくるのではないかと思います。 しかし、折角、西欧人の感性が日本人に近付いているさ中、日本という国が無理に西欧化しようとばかり考えている、 日本人のこうした感性は、これからも大切にしてもらいたいものでがね。
- MONKEYMONKEY
- ベストアンサー率25% (139/550)
教養でしょう。ちょっと勉強するとか本を読めば、誰でも何が恥ずかしい事かわかります。 日本人であろうとなかろうと、西洋人でもアジア人でも、恥(shame)を意識し、自ずと行動が変わります。 全員が教養がなくても、そういう人が何割いるかで、社会全体の意識が変わる。 ということでしょう。 優しいだけじゃなく、優しくて強い子と考えます。それはどの世界でも同じだと思います。強いを押し出さないのは恥ずかしい事だからで、弱ければ競争に勝てません。 どの世界にも、ありがとう、ごめんね、いいよ、という言葉自体はあるはずです。 無教養な人が恥知らずなだけです。
補足
回答ありがとうございます。 でもちょっと待って下さい。 日本人が世界一読書好きで知を愛する人種であることは私も知っています。 日本人に比べれば一般の欧米人は殆んど読書しません。 しかし、"教養"のレベルは日本人より高いと思います。戦前の日本は知りませんが、少なくとも私が知っている戦後の日本人よりは間違いなく高いです。 私がよく知っている西ヨーロッパ人の知り合いですが、読書が嫌いで先ず本を読みません。しかし、現代の日本人が失くしつつある貴方がいうところの"教養"をたっぷり持っています。こういう反例も身近にあるんです。 こういう事実を織り込んだ上で、今一度考えられることをお勧めします。 >どの世界にも、ありがとう、ごめんね、いいよ、という言葉自体はあるはずです。 あることはあっても、殆んど死語状態ですね。
- hekiyu
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我々日本人は、人は親切であるべきだとか、思いやりを持つべきだとか、 理解のある人間であるべきだとか、責任感を持つべきだとか、 そのような考えを無意識に持っています。 ↑ そういう考えを持っていた方が生きやすかった からだと思います。 どうして、生きやすかったのか。 日本は島国で、米を主食とする農業国でした。 そこから、外敵に備えるよりも、仲間内の和を 大切にするようになりました。 和を以て尊としとす。 です。 和を大切にする人は歓迎され、しない人間は排斥されます。 仲間内の和を大切にする、そこから親切、思いやり、 不快な思いをさせない云々が出て来たのだと 考えています。 ちなみに、和は悪い方にも顕れます。 ○2013年 談合 米司法省への罰則金支払い 米国+ドイツ+韓国 で360億 日本 だけで1700億円 そういうのは西欧人と共通するようで、会話もスムーズになります。 ↑ 欧米の倫理観はキリスト教に基づきます。 つまり神様との約束です。 この違いから、菊と刀の著者、ベネディクトは、日本人は誰も見ていなければ 悪さをするが、欧米人は無人島でも悪さをしない、 故に我々の方が優れている、という主張をしています。 神はどこにでもいるから、というのがその理由です。
補足
回答ありがとうございます。 結局皆さん、日本人の思考を律するものは何か、考えて来られなかったのでしょうかね? 欧米人は、基本一匹狼で和を大切にしませんが、一般的には日本人よりも思いやりがあり親切です。欧米で生活してみればそれは感じると思います。 そういう事実を踏まえれば、和と思いやりは、必ずしも直結するものではないと分かるはずです。
- sutorama
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脳科学ですが 日本人は世界一、心配性であることが分かっています https://matome.naver.jp/odai/2140454037287551401 『「何か心配事がありますか?」に「はい」と答えた人の割合を国別に集計した結果、一位は日本』 この関連として、幸福度ランキングで日本の幸福度は世界157か国中、53位という結果になっていることも、同じ説明がなされています https://nikkan-spa.jp/1117357 『一度失敗しただけで人生が狂うと思い込まされている』 また、儒教などの教え『祖先を敬い、祖父母、両親を敬い孝養を尽くせ、という教え』が重なり、こうしておけば人間が成長する(失敗しない)というような、質問文に書かれている事柄につながるかと思います http://nikkan-gaishi.com/RMAnxiety1.html ヨーロッパも近い思考で、大昔からさまざま戦争を繰り返し、「備え」という部分で共通しているかと思います >日本人が考え、行動する時、何かの考えに支配され、従っているはずです このURLにある「不確実性回避傾向(不確実なことは避けたがる傾向)」ランキングでも日本は1位ですが、書かれているインドは9位と、まったく逆の結果あるので、なんらかのヒントがあるやもしれませんね
補足
回答ありがとうございます。 私の観察では日本民族が世界一弱気の民族ですから、心配性というのは弱気が生み出す属性ですから、調査結果には納得します。 >大昔からさまざま戦争を繰り返し これはヨーロッパに限らず、世界中どこでも同じですから、理由にはならないと思います。
>は親切であるべきだとか、 思いやりを持つべきだとか、理解のある人間であるべきだとか、責任感を持つべきだとか そんな素晴らしい 価値観は食べることに 困ったことのない 日本人の勝手な価値観です。
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補足
回答ありがとうございます。 せっかく回答していただいて申し訳ないのですが、nekosuke16さんの思考には不十分なところがあると思います。 日本人の感性を日本人固有のものと思われているようですが、これはシャーマニズムとかアニミズムと言って全世界の未開民族に共通するものです。アイヌ民族も同じというか、アイヌ人はこのような自然に対する姿勢を彼ら独特のものだと言って誇っております。丁度貴方がここで誇っておられるように。 山本七平氏は日本教を人間教とも呼んでおり、それは神道などとは無縁の捉え方だったと記憶しています。日本人は”人間”という絶対的な存在を信じている。ヒドイことをした人を「アイツは人間じゃない」という。また一方で「人間らしい生き方をしたい」なんてことも言う。「人間くさい」とか「人間的」とか、日常の生活でヤタラ"人間"を持ち出す。西欧人がやたら"神"を持ち出すのに似ている。そしてその"人間"というのが絶対化された人間で、現実には存在しない人間を掲げてモノを言っている。 だから、日本人は現実にはない、絶対化された"人間"を信じてモノを言っている。だから"人間教"と命名したのです。 日本人の感性が自由な世界観に基づくというのも、もっと説明の欲しいところです。 西欧となぜそれが共通するのか?