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贈訓導とは?
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「昭和初期に(60後半で)亡くなってた」方と下記実例とは 同様とは言えませんが、 先ずは「贈中講義」「贈少講義」「贈訓導」の実例から。 〇『金光教学 金光教教学研究所紀要 46 /2006』 http://www.konkokyo.or.jp/kyogaku/pdf/kiyou46.pdf <129/167> ○戦歿した教義講究所卒業生の弔慰祭 昭和一二(一九三七)年一二月一六日 (「支那事変戦歿教友弔慰祭」『教報』第四四号附録(昭和一三年一月一日) ●H原金道 第七回本科卒業生、姫路教会所々属、贈中講義。 ●N村正好 第二十七回予科卒業生、第十回本科在学中応召、中津教会所々 属、贈少講義。 ●O尾茂 第五十一回別科卒業生、清水教会所々属、贈訓導。 ・『官報.1939年4月8日/大蔵省印刷局[編]/日本マイクロ写真』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960169/22 <22/49>(362頁1段目11行目) 陸軍歩兵中尉従七位勲六等 H原金道 兵庫縣 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960169/33 <33/49>(384頁3段目30行目) 陸軍歩兵伍長 N村正好 大分縣 ・『官報.1938年10月6日/大蔵省印刷局[編]/日本マイクロ写真』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960020/8 <8/49>(238頁1段目9行目) 陸軍歩兵上等兵勲八等 O尾茂 同(※靜岡縣) 上記3名は教義講究所が弔慰祭を行いました。 「贈中講義」「贈少講義」「贈訓導」の事由には特に言及されていませんが、 名誉の戦死に伴う昇級と考えて間違いなく、 これは、後記「金光教教規(明治33年6月16日内務大臣認可・同月18日発布)」 の「第七章 褒賞懲戒」第六十一條「褒賞ヲ授與スヘキ者授與前死亡シタル トキハ之ヲ遺族ニ與フ又時宜ニ依リ教師等級ヲ追陞スルコトアルヘシ」の内 後半部の「時宜により教師等級を追陞(※≒昇)することあるべし」との定め に基づくもでしょう。 「昭和初期に(60後半で)亡くなってた」方が上記と同様とは言えないとし ても、生前、何らかの功績、貢献があったからこそ前記第六十一條の「時宜 により教師等級を追陞(※≒昇)することあるべし」に該当し「贈訓導」を授 けられた事には違いは有りません。 さて、制度面に関しましては下記が詳しいようですから、 一度覗かれてみては如何でしょうか。 〇『金光教条規/金光教本部/金光教本部/昭和12.9.15』 (昭和十二年七月現行) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094656/1 「金光教教規(明治33年6月16日内務大臣認可・同月18日発布)」の第五章の 第四十九條に教師の等級称号が下記のとおり定められています。 一級 大教正 二級 権大教正 三級 中教正 四級 権中教正 五級 少教正 六級 権少教正 七級 大講義 八級 権大講義 九級 中講義 十級 権中講義 十一級 少講義 十二級 権少講義 十三級 訓導 十四級 権訓導 十五級 教師試補 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094656/10 <10-11/62>(11-12頁) 前述の「第七章 褒賞懲戒」に関しましては http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094656/11 <11-12/62>(13-14頁) あと、「教義講究所規則(大正13年9月27日文部大臣認可)」の第五章 学科及講究期間(第九條~第十二條)によれば、 教義講究所に本科・予科・別科の三科を置き、 講究期間は本科2箇年、予科1箇年、別科6箇月(5~10月と11~4月) となっています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094656/49 <49/62>(84-85頁) 「教師補命規則(明治39年12月14日内務大臣認可)」には、 昇級に関する事項が定められています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094656/36 <36-38/62>(58-63頁) 以上 残念ながら「生前、何らかの功績、貢献が」何かまでは わかりかねますが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- D-Gabacho
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その「訓導」は金光教会学問所などの学校の教師を意味するものではなく、金光教の神官を意味する教導職の「訓導」だと思います。教導職には権訓導から大教正まで14階級あり、訓導は下から2番目です。「贈訓導」ですから、生前は1階級下の権訓導だったか、あるいは平信徒だったけど多額の寄付などで教団への貢献を認められて、死後称号を贈られたとか、そういうことじゃないでしょうか。 政府が全僧侶・神官を教導職に任命していた公的な教導職制は明治17年で廃止されますが、その後も金光教など教派神道の各教団で存続し、一部では現在も使われているようです。金光教で今使われてるかどうかは、詳しくないのでわかりません。 教導職(wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E5%B0%8E%E8%81%B7#.E6.95.99.E5.B0.8E.E8.81.B7.E9.9A.8E.E7.B4.9A
- takuranke
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#1です。 >その、「神道金光教会学問所」というのは、何年間行かなきゃいけない。とか年齢制限はあったのでしょうか? 昔は知りませんが、いまの学院(金光教教師の養成学校)は1年。 学問所は、金光教の教えを伝えるための人材育成機関(教師養成所)として設立されたもので、当時一緒に併設された一般子弟の教育部門が後の中学校令で普通中等教育機関として認可されたことに伴って学問所の名称を改めています。 あくまで金光教教徒のみ入ることが可能な養成機関です。
- takuranke
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>亡くなってから功績を認められて、訓導の称号?を送られた。とかですか…? 明治27年に神道金光教会学問所を開設しているので、 ここで教師(訓導)となるために勉強していたけど、 志半ば(卒業間近)で亡くなったとか。 たしか、訓導は明治期の小学校教員で正規の免状を交付された教員の呼称として使用されていたこともあります。 一部教科のみは準訓導。
お礼
ありがとうございます。 その、「神道金光教会学問所」というのは、何年間行かなきゃいけない。とか年齢制限はあったのでしょうか? もし1年制とかだったら、うちの先祖は66でそこに入ったことになるので。 今の大学みたいなは年齢問わないなら別ですが、年齢制限ありなら「なぜ?」ってことが色々でてきそうなので…
お礼
ありがとうございます!参考になるかは分かりませんが、そのお墓の贈訓導の部分の画像載せました。(場所ばれしないためにかなり変に切ってますし、名前も消してますが…