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渋谷区広尾の歴史について
- 渋谷区広尾の歴史について調べています。広尾1丁目の渋谷橋交差点の開発経緯や広尾2,3丁目の土地の変遷について知りたいです。
- 広尾1丁目の渋谷橋交差点の開発経緯や広尾2,3丁目の土地の変遷について教えてください。
- 渋谷区広尾の歴史について調査中です。広尾1丁目の渋谷橋交差点の開発経緯や広尾2,3丁目の土地の変遷について詳しく知りたいです。
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>広尾1丁目の渋谷橋交差点はT字路であったと見えます。 ??? 現在の渋谷橋は大山道の渋谷川に架かる橋でした。 ご指摘の交差点は四つ辻でした。 >広尾小学校方面に整備された道路 ご指摘の道路が整備された経緯は知りません。 広尾小学校の一帯は長岡藩牧野家の下屋敷でした。(7080坪) 明治に入って江戸の大名屋敷は全て売り払われました。 いっずれも広大だったことから跡地に道割が作られ細分化されました。 恐らくこの時期に現在の広尾小学校の前を通り渋谷橋へ抜ける道がつくられたのではないかと考えられます。 >しかし昔の地図を見るとかつては樹林が広がる土手であったと思われます。 ??? 樹林が広がる土手とされておられるのは、渋谷川による自然堤防ではありませんでしょうか。 一帯は高台で水利が悪いことから、渋谷川の現在の広尾5丁目24付近に水車が設けられていて付近の橋が水車橋と呼ばれていました。 現在の広尾2丁目は麻布村の耕作地でした。 広尾3丁目は下渋谷村の耕作地でした。 現在の広尾3丁目の東京女学院一帯は原宿村の耕作地でした。 江戸市中をはじめ関東地方の村は旗本領と大名領、幕府領が交錯していて、旗本領と幕府領は代官支配地とされていました。 一つの村から複数の旗本へ年貢を納めるケースもあり、又一人の旗本が複数の村から年貢を徴収する場合もありました。 おそろしく面倒ですので、農村の自治組織である村役人が実務を代行していて結果を代官に報告するだけでした。 結果として現在では誰の領地だったかが不明なのが一般的です。 広尾4丁目の日赤医療センターと聖心女子大の一帯は下総佐倉藩堀田家の下屋敷でした(20834坪) 現在の恵比寿2丁目一帯は広尾原と呼ばれる原野でした。 春の七草採りや秋のススキ見物や虫の声を楽しむ行楽地でした。 広尾一帯の江戸時代の光景は江戸名所図絵 天璣之部 第七冊に多数掲載されています。 お近くの図書館に復刻版があるかと思いますので一度閲覧されることをお薦めします。
お礼
丁寧に回答していただきありがとうございます。非常に助かりました。 年貢の話は特に興味深かったです。 十字路の話は私の説明が悪かったためにご迷惑をおかけしました。 航空写真や市街地地図を見ていると、遅くとも昭和39年時点では存在しなかった大通りが昭和53年頃には開通しているはずです。(広尾プライムスクエアの前の通りです) おそらく立ち退き等があったのではないかと推察されますが、自分なりに調べてみようと思います。 改めましてありがとうございました!