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年貢町屋とは?江戸の地図に存在する町の一つ
- 年貢町屋とは江戸時代の町の一種で、国立国会図書館のデジタル資料によると、不忍池周辺に存在していました。
- 江戸の地図には「年貢町屋」という表記があり、上野町など複数の場所で見られます。
- この町は延宝年間以降、「年貢町屋」として区分されており、周りの町は「東叡山領町屋」と「拝領町屋」という名称です。
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こんにちは。 bungetsuです。 >>近くには田畑がなさそうです。 >>沿革図書には延宝年間(1673~81)以降「上野2丁目年貢町屋」と記載されているそうです。 >>しかし、町家の中に年貢を納める農家も混在したから「年貢町屋」としたのであれば、質問自体が的外れだったということになりますね。 ★申し訳ありません。 私の回答で、 享保4年(1719)頃から「年貢町屋」の呼称が成立したのではないか、 と書きましたが、すでにそれ以前から「年貢町屋」の呼称は存在していたようですね。 ★「小日向三軒町年貢町屋」を再度調べてみました。その結果、 万治年間(1658~1661)に長兵衛以下3人の者が家作、及び、同地の耕作を許された。 とあり、この頃からすでに「年貢町屋」の呼称が成立していたのかもしれません。 考えを改めなくてはなりません。 南北に約36m、東西に約15~32m、とありますから、小さな町屋だったようです。 ★さらに調べた結果、 私の所有する幾つかの史料を再検討してみたところ、「田」の文字は一切記載されておらず、どうやら「畑地」として農耕を営んでいた可能性があるようです。 ★おそらく、明暦の大火(明暦3年・1657.1.18)以後の江戸の町作りの中で、 例えば、余った地、開発が困難な地、町作りに特に必要のない地、などが考えられます。 ★農家として開発を許された土地である限り、「田」からの収入は無く「年貢」を納める必要は無くても、「農地」である限り、直接的に「勘定奉行」や「町奉行」の管轄する地ではなく「代官」の管轄としたのではないでしょうか。 ★そこで考え出されたのが「年貢町屋」という呼称だったのかもしれません。 ★しかし、その後に町人の増加により、「年貢町屋」周辺が開発をされ、町人の町も成立していった。しかし、一旦「町名」として成立したからには、極端に言えば、その後に「畑地」でなくなったとしても、幕府が倒れるまで、その呼称が存続したのかもしれません。 ★ただ言えることは、明暦の大火以後の町作りの歴史の過程で、 享保2年(1717)に就任した大岡越前守の改革の一端として、 享保4年(1719)、本所、深川、両国、などを町奉行の管轄とした時点で、江戸町内にあった「年貢町屋」の管轄も「代官」ではなく、「町奉行(所)」に移管されたことは間違いはないようです。 ★家康が江戸に入府してから、当初は、「伊奈忠次」と言う者が代官頭に任命され、その後「関東郡代」と呼ばれるようになり、12代に渡って世襲してきました。役宅は千代田城の常盤橋御門内にありました。しかし、明暦の大火で焼失してからは、現在の中央区日本橋馬喰町二丁目付近に役宅を移転しました。 その後、伊奈忠尊が不祥事を起こして失脚をした寛政4年(1792)以降は、勘定奉行が関東郡代を兼務することとなりました。 どのような点が、あなたの考えを改める必要があるかは存じませんが、 私も考えを改めました。いや、改めざるを得なかった、というのが本音かもしれません。 これからも、お互いに研鑽を重ねてまいりましょう。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>年貢町屋とは何ですか。 ★簡単に言うと、 「年貢町屋」とは、年貢を納める農家がある町。 つまり、以前は「〇〇村」だったものが、「✖✖町」(ちょう、または、まち)と名前を変えただけです。 例えば、「小日向三軒町年貢町屋」と言われる場所がありますが、そこには、三軒の農家があり、その農家が所有していた土地(農家も含めて)を町名に変更するにあたって「小日向三軒町年貢町屋」と呼ぶようにしたことから由来しています。 ただ「〇〇村」から「町名」に変更しただけで「年貢」を依然として納めていた町、ということになります。 その他にも、主に郊外になりますが、「本所松坂町二丁目年貢町屋」、「麻布今井町年貢町屋」、「上野町二丁目年貢町屋」・・・など、調べれば結構ありますよ。 ★現代の考えでいくと、 例えば、不忍池付近は都会化されて開けていますので、 「そんな田畑があったの?」 と言われるでしょうが、はい、昔は江戸のど真ん中にも田畑は点在していたのです。 ★もっと極端な例を述べますと、 大名家の主に下屋敷には田畑がありました。 大名の規模にもよりますが、約1町歩位はありました。 これは、お殿さまに百姓の辛さを知ってもらうためでした。 ここで働く百姓(平均4~5人)は、下屋敷内の長屋に住まいを与えられていましたが、住所があって無いようなものでしたので、「〇〇(守)殿百姓」と呼ばれていました。 ★この「年貢町屋」の歴史は、と言うと、 ◎明暦の大火後の町造りの過程(明暦3年・1657・1月以降)で、江戸府内も手狭になったことから、北の浅草方面の開発や南の埋め立て地の拡大、開発を幕府として正式に決定し、芝、三田、飯倉(港区)、下谷(台東区)などの街道沿いの地域は「町並地」として、年貢関係は「代官支配」、人別帳関係は「町奉行支配」と決めました。 ◎さらには、大川(隅田川)の対岸である、本所、深川、あたりまでをも「市街地」とする方向で検討がされ、それまで、軍事上の理由から「橋」を極力造らない方針でしたが、すでに泰平の世になったと判断をし、万治元年(1658)両国橋を完成させ、万治2年から本格的に、本所、深川、両国、などを整備始めました。 ◎同時に、江戸の町人を武蔵野台地への強制移転をすると共に移転先の地の新田開発なども促進しました。 例えば、万治元年には「火除地」(ひよけち)を確保する、と言う名目で、神田連雀町(「連雀」とは行商人のこと)の住民25戸を連雀新田(現・三鷹市連雀町)へ、明暦の大火で最も被害の甚大だった本郷元町の吉祥寺門前町の住民を吉祥寺村(現・武蔵野市)、芝西久保城山町の住民を西窪新田(現・武蔵野市)へ移転させました。 ◎正徳3年(1713)、代官支配地であった町屋259町を「町並地」に編入し、同時に、代官支配から町奉行所支配地とすることとしました。 「町屋」とは・・・雑多な職業を持つ人たちが住んでいた町。 「町並地」とは・・特定の職業(職人)などを一か所に集めて住まわせた。例えば、「鍛冶町」(鍛冶屋が集まった町)、「大工町」(大工が集まった町)、「紺屋町」(染物屋などが集まった町)などです。 ◎また、代官そのものは元々は勘定奉行の支配下に置かれており、本来勘定奉行(所)が行うべき「作付面積」、「収穫量」、「年貢の徴収」etcを「代官」という肩書を付けて代理事務をさせていた、と言うことで、大元としては極端な言い方をすれば、代官が受け取る=勘定奉行所が受け取る。も同じ穴のムジナとでも言うことになるのです。 そして、代官は江戸の街中に住んで「手代」と呼ばれる者(部下)を現地に派遣して業務を行っていました。現在の中央区日本橋馬喰町二丁目付近にも代官の役宅があったのです。 ◎そして、享保4年(1719)には、本所、深川、両国、なども町奉行支配地としました。 この時に、年貢米の徴収役務等が完全に代官から切り離され、直接、勘定奉行所が受け取るようになりました。 従って、おそらく、この時をもって、「年貢町屋」という呼称が生まれたものと考えます。 ★余談ですが、「拝領町屋」というものもあります。 これは、本来は幕府から「〇〇(守)殿屋敷」として与えられていたものが、町民の増加に伴い、「〇〇(守)殿屋敷」の一部を幕府に返上させ(ある意味では、強制的に取り上げて)町民のための街にしたことから由来しています。 「本所松坂町一丁目拝領町屋」などが有名ですが、これは、ご存じの通り、赤穂浪士の討ち入りにより吉良上野介が打ち取られた地で、幕府は吉良の屋敷を強制的に取り上げて町民に開放し街に変えたものです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >★簡単に言うと、「年貢町屋」とは、年貢を納める農家がある町。 “年貢を納める農家がある”ということは、その町の大半は農家ではなく、商家(門前町だから小商いの店か、飯屋のような店)だったということでしょうか。 私は、ほぼ全戸が年貢を納めている、と解釈して質問しましたので、今、混乱しています。 「小日向三軒町年貢町屋」の例は、よく分かります。 「本所松坂町二丁目年貢町屋」、「麻布今井町年貢町屋」は質問前に調べておきましたが、年貢を納める農家・農地があったのだろうと想像できました。 そこで質問には「上野町一丁目年貢町屋」「上野町二丁目年貢町屋」を採り上げました。 URLの地図は、天保15年辰年3月調のものですが、地図を見る限り上野町の周りには、東叡山領の町並地、大名屋敷、武家地、大縄地が多く、近くには田畑がなさそうです。 それでも年貢を、通貨で代納していたにせよ、納めていたのか、という疑問です。 沿革図書には延宝年間(1673~81)以降「上野2丁目年貢町屋」と記載されているそうです。 当時は、周りに農地が広がっていたのでしょう。 しかし、天保、嘉永、安政のころになっても「年貢町屋」の名のままです。 同じ通りにある、他の“ふつうの町”は年貢免除で、その代わりに使役があったのか、商いの運上金を納めたのか知りませんが、「年貢町屋」は別扱いだったというのは何故、という疑問です。 町ができたころの町の名の名残で「上野1丁目年貢町屋」の名が続いていると思いましたが、そうではなさそうです。 しかし、町家の中に年貢を納める農家も混在したから「年貢町屋」としたのであれば、質問自体が的外れだったということになりますね。 何か「年貢町屋」と区別しておかねばならない事情があったのでしょうね。 大いに歴史を楽しむことができました。満足しています。
お礼
ご親切なご回答真にありがとうございます。 もう少し考えてみます。 「役宅は千代田城の常盤橋御門内にあり」を読めば、地図でその門の位置を確かめたり、門の名の由来は何だろうとか、では一体、千代田城の門の名は何を本に決めたのだろうとか、すぐ横道に逸れてしまいます。 「日本橋馬喰町二丁目付近」であれば、私の住む城下町にも「博労町」があり、そこに居た友人を思い出したりしています。 江戸では、元は「博労町」だったが、「馬喰町」に変わったそうですが、なぜ、と考えると進みません。 お蔭様で江戸の町を楽しんでいます。 片言隻句に拘って、素直に分かりましたと言わぬ私に、いつも親切に付き合って下さることに感謝しております。 今後もよろしくお願いします。