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日本(幕末期)と中国・朝鮮の違い
- 日本が明治維新を成立し、独立を保てた理由や他のアジア諸国との違いについて疑問が生じます。
- アヘン戦争やペリーの浦賀来航が起こった背景には西欧諸国との関係性がありますが、なぜ日本が植民地化対象にならなかったのか、その理由も考えられます。
- 地理的条件や資源の観点から日本が特別な存在であった可能性もあります。
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No.4です わざわざお礼記入頂きありがとうございます。 お礼に追加のご質問がありましたので回答させて下さい。 >質問の前にイギリス史もネットで調べたのですが、「クリミヤ戦争」は関係していないだろうと考えていました。 イギリスはクリミヤ戦争の当事者でした。 クリミヤ戦争につきましては 下記サイトをご参照下さい クリミア戦争 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/クリミア戦争 現在の東欧一帯はオーストリア・ハンガリー帝国でしたので御注意下さい。 クリミヤ戦争というのはヨーロッパ諸国の国力を消耗させた戦争です。 スエズ運河の開通が1869年(明治2年)です。 パナマ運河の開通が1914年(大正3年)です。 つまり幕末にヨーロッパから日本へ来ようとするとアフリカ大陸を一回りする必要がありました。 アメリカのニュヨークなど東海岸から来るには南米大陸を迂回する必要がありました。 当時は、帆柱を立てた帆船の舷側に巨大な水車をつけた外輪船で燃料は石炭でした。 石炭がなければ薪でした。 外輪船というのは構造上横波には極めて脆弱でした。 このような状態で燃料を補給しながら日本まで軍隊を運ぶのは並大抵のことではありません。 平たい話がヤッテランネーということになります。 >「本能寺の変」にあると考えても良いのですか? 多少違います。 近世とは江戸時代のことです。 江戸時代というのは武士が統治していたように見えますが、実態は町人と百姓の自治組織の上に乗っかっていただけでした。 現在の村落の風景というのは室町時代に形成されたものです。 室町幕府というのは、全国を統治するという意志も能力も持っていなかった政権です。 戦国大名というのは強盗の集団といったら語弊がありますが、領地の争奪戦で勝ち上がってきた集団です。 この連中から身を守るには自衛組織が不可欠でした。 これが後の村役人と呼ばれる人達です。 この村役人は入れ札すなわち、選挙で決められていました。 つまり、日本人の大半は多数決ということに慣れ親しんでいました。 明治以降に西欧型の選挙制度を導入した際にスンナリ行ったのはこの為です。 江戸時代の租税(年貢)というのはこの村落単位でした。 村落内でだれが負担するかは、この自治組織に委ねられていました。 つまり納税制度についても長い間親しんでいたということです。 物流(商流)も町人がすべて請け負っていて自由経済でした。 城下町の町人も百姓同様の自治組織を持っていました。 町役人というのがこれです。 納税も治安も全てこの町役人に委ねられていました。 時代劇の銭形平次は町人です。 冥加金などの税も幕府や大名はこの町役人の長に言えば済みました。 町人の営業権が株と呼ばれました。売買されていました 現在の株式の元です。 つまり明治以降に株式会社という組織を作っても抵抗感がなかったということです。 米の取引も相場取引でした。 現在世界中で行われている先物取引も、大阪の堂島で米の取引手段の一つとして考案されたものです。 武士の給与である禄(米)を現金に変える際の換金価格は毎年の大阪の相場で決められていました。 工業生産の面でも職人が非常に大切にされていたこともあり技術が高度に発達していました。 西欧から機械技術が導入されても、あくまでも職人を手助けする道具でした。 現在の日本の工場で最終的にものをいうのがこの作り込みの職人技です。 おもしろいお話があります 日本が近代海軍を整えた時期とトルコが整えた時期はほぼ同時でした。 トルコは最後まで完成した艦船を購入していましたが、日本は数隻購入したあとは全て国産化してしまいました。 室町時代末期に火縄銃を見るとすぐに国産化してしまったのと同じです。 江戸時代には平賀源内が見様見真似でエレキテルを復元しています。 日本人というのはこのような性癖があるようです。 以上のように政治、経済、農工業のいずれも明治になって西欧型のものを導入しても全て学習済みだったということです。 これが日本の近世は近代の助走期間だったという意味です。
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- hekiyu
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何故、日本で明治維新が成立したのだろうか? ↑ 当時の日本が武士政権だったから、という説が 強いです。 武士というのは、戦争のプロですから、阿片戦争での 中国の惨敗を目にして、大いなる危機感を抱くことが 出来たのです。 これに対して中韓は文官支配の国でしたので そういう欧米列強の武力に対して鈍感だったという のです。 独立を保てたのか? ↑ これには諸説あります。 欧米にとってそれほど魅力が無かったとか 国家としてのまとまりが強かった、とかが ありますが、武力説も強いです。 当時の英国人などの手記を見ますと、日本の 武力というか野蛮さ、特にローニンに対する 恐怖が生々しく紹介されております。 もし、日本を植民地にしたら、何十万もいた ローニンがテロして、収拾がつかなくなることを 怖れた、というのです。
お礼
私の質問の趣旨に沿ったご回答ありがとうございました。 サラッと読むと、何となく、「そうだな」と理解できます。ただ、ご回答の意味をしっかり理解しようとすると、「中韓は文官支配」ということについても、当方に知識がなくて、行き詰まってしまいます。ただ、なんとなく、「武士」だから出来たのだということも納得できます。 ただ、「文官支配」か「武士支配」か、だけで……割り切れない疑問があるのです。 <(_ _)>質問者のレベルが低くて申し訳ありません。 武力説・ローニン……初めて知りましたが、興味深いですね。西洋の最新鋭武器を持って対抗すれば何でもないと、強引に押し寄せてくるのが西欧だと思っていたのですが、ローニンに限らず、生麦事件など、異人相手の事件(確か堺?でも大きな事件がありましたよね)も大きな恐怖になっていたのかも知れませんし、少しひいき目に見ると、日本なり、日本人のことを十分に知っていたということもあるかもしれませんね。
- catpow
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>>「戊辰戦争」の犠牲は一体何だったのか???という気がします。 まあ、日本の植民地化には反対だとしても、新体制をどうするか、既得権をどうするか?などにおいて、完全に一致できるわけありませんからね。 明治維新であっても、天皇制を残したままだったので、不完全な民主化であり、天皇制は廃止すべきだったという意見もありますし。 ですから、大きな方向性を決めるときには、どうしても反対勢力は残りますし、そういう犠牲はつきものだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
超大まかにいいますと、中国や朝鮮は古代のままいきなり近代を迎えました、 日本はヨーロッパ諸国と同様に古代、中世、近代と歩みました。 しかもご丁寧にヨーロッパにも見られない近代への助走期間とされる近世を260年も過ごしました。 近世という時代区分は日本史独特のものです。 源氏物語などの平安時代にいきなり黒船が現れたと想像してみて下さい。 この姿が当時の清王朝や朝鮮李王朝の姿でした。 教科書の年表などには現れませんが、日本は非常に早い時期からヨーロッパと接触を持っていました。 室町時代にはフリピンなどへはごく普通に日本船が往来していました。 日の丸も元々はこの室町時代に海外の交易船が船どうしの識別用の旗に使っていたデザインです。 白地に赤丸で日本船と解りました。 タイをはじめ現在のマレーシア、ベトナム、フィリピンなどに日本人街を作って暮らしていました。 ザビエルも中国へ行く予定だったのを途中で日本人の若者に会い急遽日本行きに変更しました。 戦国時代末期には日本人の手でガレオン船を作り太平洋を横断してアメリカ大陸を越えてスペインにまで使節団が出かけていました。 家康もオランダ人のヤン・ヨーステンやイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)などを外交顧問として大切にしていました。 江戸幕府も鎖国をしていた訳ではありませんでした、 情報と交易を幕府が独占していただけです。 オランダから定期的に情報がもたらされていてナポレオン戦争も知っていました。 アヘン戦争の発端も経過も顛末も知っていました。 ペリーの来航も事前に知っていました。 知らなかったのは薩長の下級武士達でした。 大黒屋光太夫のようにロシアを縦断して女王に拝謁して帰って来た人もいました。 ジョン万次郎のようにアメリカ帰りの人もいました。 このように中世と呼ばれる戦国時代に実力本位の武将が海外と接触を持ち続けていたことも大きく影響しています。 >日本は、極東の島国という地理的条件に恵まれ、運が良かっただけ? 運がよかったとすれば、明治維新の時期とクリミヤ戦争の時期が重なっていたことも幸いしました。 ヨーロッパ各国に、日本の武士団と一戦交えるだけの戦力を極東まで送る余裕がなかったのが幸いしています。 幕府に対しても薩長に対してもフランスなど諸外国が軍事顧問団の派遣を申し入れていましたが、両者ともに武器や船舶の購入に留めていました。 この両者共通の判断も大きく影響しています。
お礼
ご回答ありがとうございました。 源氏物語などの平安時代にいきなり黒船が現れたと想像してみて下さい。この姿が当時の清王朝や朝鮮李王朝の姿でした。……(*^_^*)現代の子供でも、もしかしたら宇宙人がいて、もしかしたら、今晩来るかも知れないと、信じている子供もいるのではないかと思いますが……それ以上の驚きだったのですね。 運がよかったとすれば、明治維新の時期とクリミヤ戦争の時期が重なっていたことも幸いしました。……そもそもの疑問が、アヘン戦争から、何で13年後にペリー来航なのか?ということでした。イギリスで何があったのか???と、質問の前にイギリス史もネットで調べたのですが、「クリミヤ戦争」は関係していないだろうと考えていました。 「近世を260年も過ごしました。近世という時代区分は日本史独特のものです。」……歴史に無知な者の想像ですが、この要因のひとつは、「本能寺の変」にあると考えても良いのですか?差し支えなければ、お考えを教えて下さい。
- あずき なな(@azuki-7)
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国の興亡ってのもあるでしょう 日本は少なくとも1国として国体を保ってきました 中国や朝鮮は何度も滅亡し違う民族が国を作って来ました なので国に対する見方が日本とは全く違ったのでしょう ちなみにペリー来航の目的は日本の植民地化計画の1つですよ ペリーは日本を開国させたあとあっさり日本をのっとるつもりでした しかし彼は「日本人」に感嘆したのです 実際彼は日本に来るまで「日本とはレベルの低い島国」だと思っていたようです しかし実際は礼儀を重んじ、伝統を大切にする文化的な国家と民族であると知り 支配するより生かす方が得策だと考え 植民地化を断念したのです 日本が明治維新で西洋の文化を取り入れ急速に発展して近代化が実現できたのは このペリーを感嘆させた幕末の「日本人」が居たからに他なりません 中国や朝鮮にそんな人たちはいませんでした
お礼
ご回答ありがとうございました。 国の興亡ってのもあるでしょう……???運命論ですか??? 中国や朝鮮は何度も滅亡し違う民族が国を作って来ました……中国史、朝鮮史については全く無知ですが、朝鮮も「違う民族が国を作って来た」く地域なのですか??? なので国に対する見方が日本とは全く違ったのでしょう……「この部分を簡潔に知りたい」というのが、質問の趣旨です。 「ちなみにペリー来航の目的は日本の植民地化計画の1つですよ」……だと思うから、何故、中国・朝鮮と結果が異なったのか?というのが質問の趣旨です。 「礼儀を重んじ、伝統を大切にする文化的な国家と民族であると知り、支配するより生かす方が得策だと考え 植民地化を断念したのです」……これが中国・朝鮮と日本の違いですか??? 「日本人」が居たからに他なりません、中国や朝鮮にそんな人たちはいませんでした……何となく、ただ何となく……<(_ _)>当時の中国・朝鮮の人材を知りません……分かりますし、質問の趣旨にも沿っていますが、私が知りたいのは、「人材がいない」としたら「何故いないの科?」ということです。当時だって日本の何倍も人口はいたのでしょ。「人材」が、あるいは「人材だけ」が要因であるとすれば、その人材が生まれなかった背景、生み出せなかった背景、あるいは掘り出せなかった背景のようなものを知りたかったのです。
- jkpawapuro
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当時の植民地化政策は、相手の国内に内乱を起こして武器の輸出で多額の借金を背負わせていき、その片方の勢力に間接統治させながらどんどん言いなりにしていくというのが一つの手法です。 イギリスやフランスがいかに強力な艦隊をもっていようと、自分らだけでは相手国を陸戦で完全征服させるのが不可能だからです。 その方向通りイギリスが薩長に、フランスが幕府に武器を輸出し借金でカタにはめようとしていきます。そしてさあ日本で内乱を・・・と思った瞬間なぜか徳川慶喜が大政奉還で無条件降伏です。このおかげで幕府も新政府も日本丸ごと言いなりにさせられてしまうほどの莫大な戦費による借金を背負うことなく新政権が樹立されたのです。 日本に市場価値なり魅力が無かったか・・・? うーんそりゃあ中国の方が市場価値としての魅力は高いです。ですが日本も国内で大量の金銀が流通し高値で売れる生糸があります。魅力がなかったわけではありません。もちろん中国の次は日本と思っていたでしょう。 なぜアヘン戦争から13年も手をこまねいていたか、イギリスの場合アヘン戦争もかろうじて議会を通っています。議会制の国ですからね、相手国に隙(内乱の兆し)でもないと、いたずらに自分から戦争をふっかけられる国でもないってことでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。 ただ、ご回答には、私の知識では理解できない部分、見解を異にする部分が多少ありました。私の意見を述べさせていただいて、「お礼」に変えさせていただきます。 「徳川慶喜が大政奉還で無条件降伏です。このおかげで幕府も新政府も日本丸ごと言いなりにさせられてしまうほどの莫大な戦費による借金を背負うことなく新政権が樹立されたのです。」……つまり、慶喜のおかげで、植民地が避けられたのですか???「風が吹けば桶屋が儲かる」式で考えると分かるような気がしますが、15代将軍というのは、私には、単に武士の頭領としての資質が極端に欠如していた人物としか思えません。頭脳は明晰だったようですが。徳川300年の結晶だとすれば、家康は号泣しているのでは。それに質問の趣旨は「中国・朝鮮と日本(幕末期)の違い」ということなのです。 議会制の国ですからね、……???議会の承認が得られないために、アメリカに先を越されたのですか??? アヘン戦争もかろうじて議会を通っています。……アヘン戦争における中国の惨状は、イギリス議会が承認したのですか??? 相手国に隙(内乱の兆し)でもないと、いたずらに自分から戦争をふっかけられる国でもないってことでしょう。……当時の日本は、「兆し」どころか、「内乱状態」だったのではないですか?その点、中国や朝鮮の方がむしろ「安定していた」というか「安定しすぎていた」という気がするのですが??? 中国史、朝鮮史については、全くの無知ですので分かりませんが、この辺もご回答には繁栄されることもあるのでは??と考えています。
- catpow
- ベストアンサー率24% (620/2527)
日本には、「この日本をすばらしい国にしよう!」と考えられている天照大神をトップにした、日本神道系の神様たちがいらっしゃいます。 また、儀式だけの神道ではダメだと、数学・物理学的な内容まで含んだ仏教を導入して文明の高度化をおこなう判断をした、聖徳太子をはじめとする、すばらしい方たちがいました。 さらに日本を中国や欧米などの外敵から守ろうとした日蓮系的な人達もいますね。 日本には、そんな多数のすばらしい神様と過去の偉人たちがいて、きたるべき未来を見据えて、必要な人材が地上に現われたので、その人的財産を使って、明治維新が成立したり、独立を保てたり、戦後の奇跡のような発展ができたといえます。 ちなみに、江戸末期、明治維新の前には、当然ながら欧米諸国は、日本も植民地にしようと狙っていましたよ。 ただ、高杉新作などを初めとして、海外の植民地の惨状を知っていました。 また、「武士道」という自分の命を捨てても、日本を守ろうという、刀を持った、すばらしい軍人精神の侍たちが国内に多数いたということも、日本の植民地化を防ぐ具体的な力になっていました。 「日本を植民地にすることがあってはいけない!!」という強い意志が彼らにあったので、不可能といわれた、薩長同盟や江戸城無血開城が実現し、明治維新へとつながっていったのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 宗教が、人々の心を救うことを否定しませんが、質問の趣旨ではありません。宗教が関係しているのであれば、「宗教」の観点から、中国、朝鮮と日本の違いを教えて下さい。 「日本には、そんな多数のすばらしい神様と過去の偉人たちがいて、……戦後の奇跡のような発展ができたといえます。」……それじゃ、何で太平洋戦争に負けたのですか??? 「武士道」という自分の命を捨てても、日本を守ろうという、刀を持った、すばらしい軍人精神の侍たちが国内に多数いたということも、日本の植民地化を防ぐ具体的な力になっていました。……???明治維新というのは、「侍たちの軍人精神」がもたらした「維新」なのでしょうか?私は、むしろ「武士の世界は終わった」ということを、みんなが理解し始めたエネルギーが時代を動かしたのではないかというような気がします。 「日本を植民地にすることがあってはいけない!!」……このことなのです。アヘン戦争から、ペリー来航まで、13年あるわけですから、世の中を動かすほどの実力のある偉人は、当然考えていますよね。しかし、「薩長同盟や江戸城無血開城」が「日本を植民地にすることがあってはいけない!!」と直結しているでしょうか???それだったら、「戊辰戦争」の犠牲は一体何だったのか???という気がします。
お礼
再度のご回答ありがとうございました。 やはり「文字だけのやりとり」というのは誤解を生じますね。