こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
まずは、あなたへの回答から先に述べますと、「土木工事」の知識はあったようです。
芭蕉のことはすでにWikiなどでお読みになったとは思いますが、私の知る範囲で付け加えてみましょう。
★寛永21年(正保元年・1644)伊賀国に生まれました。
父は松尾与左衛門。伊賀国を治める藤堂家に仕える武士の身分ではあったが、身分が軽く、生計は主に野良仕事(百姓)で、いわゆる、没落武士でした。しかし、一応は武士の身分でしたので、「松尾」の姓を名乗ることができたのです。
母は伊賀流忍者の祖と言われる伊賀の豪族「百地」(ももち)氏一族の娘。
こうした血筋から生まれたため、また、生まれた土地柄から、芭蕉は後に「隠密」ではないか?と言われるようになりました。
★芭蕉(宗房)には「半左衛門」という兄がいました。
次男でしたので、家を継ぐわけもなく、17歳の時、父の「つて」で津藩伊賀付侍大将であった藤堂良精(よしきよ)家の嫡男「良忠」(よしただ)の世話掛りとして奉公に出されました。しかし、現実的には料理人のような仕事や小間使いでした。
★藤堂良忠は多少なりとも文才があり、京都の俳諧師である貞門派・北村季吟(きぎん)に師事していました。
それにより、宗房も共に俳句を学ぶようになり、次第にその才能を開花させていきました。
"春やこし 年や行けん 小晦日(こつごもり)"
19歳の時初めて詠んだ句です。
藤堂家の嫡男良忠に仕えていれば、いずれは出世の道も開ける。と考えていました。
★ところが、宗房23歳の時に、主人の良忠が急死してしまったのです。
しかたなく、実家に帰り、両親や兄と共に野良仕事などをしていましたが、
==どうも仕事が合わない==
と考えるようになり、思い切って兄の半左衛門に話したところ、
「好きなようにしてもいいよ」
と優しく言われ、寛文12年(1672)29歳で江戸へ出てきました。
★日本橋に住まいを借りて、亡き主人であった良忠が師事していた北村季吟などの人脈で、盛んに句会などに参加をし、宗房自身も人脈を広げていき34歳で「宗匠」にまで登り詰めました。
★宗匠としての仕事は、句会、門人、弟子などの句を添削して、わずかな銭を貰うくらいで、到底、生活は成り立ちませんでした。
★そんな折、人脈により、神田上水懸桶(かけひ=現代で言えば、水道管の架け替え)工事の現場監督の仕事が舞い込んだのです。
人脈の中には町人だけではなく、御家人、旗本などもおり、大きく言えば「幕府」との接点もできていたのです。
では、どこでそのような知識を身に着けたのでしょうか。
★実は、宗房が仕えていた藤堂家は、戦国時代、城造りの名手と言われた藤堂高虎の家柄だったのです。
おそらく、藤堂家でも嫡男良忠へそうした城造り、土木工事などの技術や手法が教えられたと思いますが、その時、主人と一緒になって宗房もそうした知識を身に着けていったと考えられます。
★こうした知識を買われ、また、幕府とのつながりにより、神田上水懸桶工事の現場監督。そして、江戸の街もまだまだ開発途上でしたので、そうした土木工事の責任者などとヘッドハンティングされていったのです。
★延宝8年(1680)、宗房は日本橋から深川へ移り住みました。6畳1間という狭い小屋のような家でしたが、その庭に「芭蕉の木」が1本あり、枝振りが良かったため宗房は自分の住まいを「芭蕉庵」と名付け、そして、自らも「芭蕉」と名乗るようになったのです。
芭蕉は、この引っ越しに際して弟子に、
「江戸の街の喧騒に疲れたからだ」
と、言ったといわれています。
★46歳で、江戸から旅立ち「奥の細道紀行」が始まったのです。
「人生わずか50年」と言われた頃でしたので、随分と年齢がいってからの旅だったと言わなければなりません。
旅立ちに当たっては、門人、弟子からの「餞別」が届き、そして、伊賀に住む兄の半左衛門からも「餞別」が届いたとのこと。
芭蕉は兄に感謝の便りを送りました。
お礼
ご回答ありがとうございます。