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松尾芭蕉

松尾芭蕉は、詩人になる前は建設業だったのでしょうか? 工事に携わったという記述を読みました。

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  • kagakusuki
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回答No.2

 松尾芭蕉は詩人ではなく俳諧師です。(まあ、俳諧師が詠む連歌や俳句も詩の一形式ではありますから、詩人の一種と言えない事もありませんが、一般的な意味での詩を嗜む人とは異なります)  松尾芭蕉が生まれた家は平氏の末流を名乗ってはいたものの農民でした。  但し、苗字・帯刀は許されていたそうですので、階級だけは武士に準じる待遇の農民といったところでしょうか。  つまり、松尾芭蕉は最初は農民でした。  そして、数えで19歳の時になると、伊賀国上野の城代付の侍大将の藤堂新七郎良清の養子で、俳人でもあった良忠(俳号は蝉吟)に料理人として仕える様になったという事です。  その後、主の良忠が師事していた京都にいた北村季吟の門下に入り、俳諧の道に進んだのだそうです。 【参考URL】  松尾芭蕉 - Wikipedia > 1.1 伊賀国の宗房   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89#.E4.BC.8A.E8.B3.80.E5.9B.BD.E3.81.AE.E5.AE.97.E6.88.BF  文芸ジャンキー・パラダイス > あの人の人生を知ろう > 松尾芭蕉     http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic37.html  无型 -文学とその朗読 > 松尾芭蕉 (1644-1694) の生涯、俳句と朗読   http://mukei-r.net/poem-basyou.htm

DCLOZUWGHFCJA
質問者

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回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、あなたへの回答から先に述べますと、「土木工事」の知識はあったようです。 芭蕉のことはすでにWikiなどでお読みになったとは思いますが、私の知る範囲で付け加えてみましょう。 ★寛永21年(正保元年・1644)伊賀国に生まれました。 父は松尾与左衛門。伊賀国を治める藤堂家に仕える武士の身分ではあったが、身分が軽く、生計は主に野良仕事(百姓)で、いわゆる、没落武士でした。しかし、一応は武士の身分でしたので、「松尾」の姓を名乗ることができたのです。 母は伊賀流忍者の祖と言われる伊賀の豪族「百地」(ももち)氏一族の娘。 こうした血筋から生まれたため、また、生まれた土地柄から、芭蕉は後に「隠密」ではないか?と言われるようになりました。 ★芭蕉(宗房)には「半左衛門」という兄がいました。 次男でしたので、家を継ぐわけもなく、17歳の時、父の「つて」で津藩伊賀付侍大将であった藤堂良精(よしきよ)家の嫡男「良忠」(よしただ)の世話掛りとして奉公に出されました。しかし、現実的には料理人のような仕事や小間使いでした。 ★藤堂良忠は多少なりとも文才があり、京都の俳諧師である貞門派・北村季吟(きぎん)に師事していました。 それにより、宗房も共に俳句を学ぶようになり、次第にその才能を開花させていきました。 "春やこし 年や行けん 小晦日(こつごもり)" 19歳の時初めて詠んだ句です。 藤堂家の嫡男良忠に仕えていれば、いずれは出世の道も開ける。と考えていました。 ★ところが、宗房23歳の時に、主人の良忠が急死してしまったのです。 しかたなく、実家に帰り、両親や兄と共に野良仕事などをしていましたが、 ==どうも仕事が合わない== と考えるようになり、思い切って兄の半左衛門に話したところ、 「好きなようにしてもいいよ」 と優しく言われ、寛文12年(1672)29歳で江戸へ出てきました。 ★日本橋に住まいを借りて、亡き主人であった良忠が師事していた北村季吟などの人脈で、盛んに句会などに参加をし、宗房自身も人脈を広げていき34歳で「宗匠」にまで登り詰めました。 ★宗匠としての仕事は、句会、門人、弟子などの句を添削して、わずかな銭を貰うくらいで、到底、生活は成り立ちませんでした。 ★そんな折、人脈により、神田上水懸桶(かけひ=現代で言えば、水道管の架け替え)工事の現場監督の仕事が舞い込んだのです。 人脈の中には町人だけではなく、御家人、旗本などもおり、大きく言えば「幕府」との接点もできていたのです。 では、どこでそのような知識を身に着けたのでしょうか。 ★実は、宗房が仕えていた藤堂家は、戦国時代、城造りの名手と言われた藤堂高虎の家柄だったのです。 おそらく、藤堂家でも嫡男良忠へそうした城造り、土木工事などの技術や手法が教えられたと思いますが、その時、主人と一緒になって宗房もそうした知識を身に着けていったと考えられます。 ★こうした知識を買われ、また、幕府とのつながりにより、神田上水懸桶工事の現場監督。そして、江戸の街もまだまだ開発途上でしたので、そうした土木工事の責任者などとヘッドハンティングされていったのです。 ★延宝8年(1680)、宗房は日本橋から深川へ移り住みました。6畳1間という狭い小屋のような家でしたが、その庭に「芭蕉の木」が1本あり、枝振りが良かったため宗房は自分の住まいを「芭蕉庵」と名付け、そして、自らも「芭蕉」と名乗るようになったのです。 芭蕉は、この引っ越しに際して弟子に、 「江戸の街の喧騒に疲れたからだ」 と、言ったといわれています。 ★46歳で、江戸から旅立ち「奥の細道紀行」が始まったのです。 「人生わずか50年」と言われた頃でしたので、随分と年齢がいってからの旅だったと言わなければなりません。 旅立ちに当たっては、門人、弟子からの「餞別」が届き、そして、伊賀に住む兄の半左衛門からも「餞別」が届いたとのこと。 芭蕉は兄に感謝の便りを送りました。

DCLOZUWGHFCJA
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回答No.3

幕府の役人で土木工事を担当する役職だったらしい と言う説はあります しかし芭蕉は実は謎の人物なのです ・単なる浮浪者(但し俳句が抜群に上手かったので行く先々で施しを受けられた) ・公儀隠密(幕府のスパイとして諸国を放浪していた) ・架空の人物 ・水戸光圀と混同説 など色んな説があるのです

DCLOZUWGHFCJA
質問者

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  • eroero4649
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回答No.1

松尾芭蕉の正体については、実はよく分かっていません。だから「奥の細道」は東北各藩を偵察する旅で、松尾芭蕉は幕府のスパイだったという説がありますね。

DCLOZUWGHFCJA
質問者

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