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花魁とは、風俗嬢だったのですか?

花魁とは、風俗嬢だったのですか?

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  • oska2
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回答No.7

>花魁とは、風俗嬢だったのですか? 他にも回答がありますが、超高級風俗嬢ですね。 当時の日本全国でも、数人しか花魁は存在しません。 日本舞踊・三味線・太鼓から、俳諧まで色々な知識・教養も持っていました。 豪商・士など、色んな客に対しても対応できるのです。 「一見さんお断り」なんですよ。 花魁に会うまでに、現在価格で数百万円程度が必要でした。 先ずは、宴会。「飲めや!歌えや!」で、その日はお終い。 当然、花魁は参加しません。 ※この客は、カネを持っているのか?信用できるのか?を確認中。 数回宴会をすると、やっと花魁がきて一緒にお酌。 これを数回すると、花魁が芸を披露。 やっと顔馴染になると、(次回から)花魁が部屋にやってきます。^^; 当時の最下層の女性が、現在の価格で5000円程度の時代。 数百万円も必要な女性が、花魁です。 当時、吉原に勤務する女性は「それなりに、評価」されていました。 「家族を養う為に、自らを苦界に沈めた」という事ですね。 ですから、大枚をはたいて見受けをする旦那衆も多いのです。 ただの風俗嬢だと、大枚を出しませんよね。

USOWKLZG
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その他の回答 (7)

回答No.8

幕府公認の吉原の高級風俗嬢の事ですね 遊女には身分がありまして 太夫が最高位でしたが明暦年間に太夫が消滅してからは花魁が事実上の最高位となりました 当時の花魁は今の風俗嬢のように世間から白い目で見られたりはせず 幕府公認のお仕事として庶民からも一目置かれていたのです

USOWKLZG
質問者

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回答No.6

高級娼婦な所もありますが、現代のイメージとしてはフェラーリのような金持ちのステータス的な「モノ」だったと思います。

USOWKLZG
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回答ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.5

仕事の目的は同じでした。 現在はTVの時代劇などでは江戸時代の遊女を花魁と表現しますが、厳密には少し違います。 花魁というのは、江戸幕府公認の娼婦街であった新吉原の中で使われていた遊女の身分呼称でした。 最高位の遊女を花魁と称していました。ナンバーワンの風俗嬢ということです。 このために実在していた花魁の数は極めて限られていました。 蛇足 江戸時代の新吉原の風俗については華やかな面だけが話題になっていますが、実態は悲惨なものでした。 江戸時代には、この新吉原をはじめとして各地の娼婦街の遊女になると、戸籍から抹消されました。 人権という思想が無い時代でしたので、商品として扱われました。 病気にかかっても放置されていました。 (不良品扱いです) 結果として平均寿命は23歳前後と推定されています。 (寿命です。平均年齢と誤解しないで下さい。10代で亡くなった女性はザラでした) 死ねば、戸籍がありませんので、遺体は付近のお寺に掘られた穴に投げ込みました。 投げ込み寺と呼ばれ各地に残っています。 このような事を行う廓の経営者を仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の8つの「徳」を忘れたものとして忘八と呼ばれていました。 現在も新吉原の跡地である千束四丁目界隈には風俗店が櫛比していますが、その横に浄閑寺というお寺があります。 このお寺も投げ込み寺でした。 余りの惨さにこのお寺の住職が心を痛めて、過去帳を作り法要しました。 この過去帳から割り出したのが上記の平均寿命です。 明治以降も公娼制度が残っていましたので、関東大震災や東京空襲などで焼死した遊女のお骨を納めた新吉原総慰霊塔というのが現在もあります。

USOWKLZG
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回答No.4

ひらたくいえばそういうことになります。

USOWKLZG
質問者

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回答ありがとうございました。

回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずはあなたへの回答から述べますと・・・はい「最高級の超インテリ風俗嬢」でした。 (よもやま話) ★吉原誕生。 慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた者がいた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。 ★遊女とは。 江戸時代、吉原で営業する公娼を「遊女」と呼び、潜りの私娼を「売女(ばいた)」といいわけた。したがって、「遊女」「売女」の違いができたのは、元和3年(1617)に元吉原ができてからである。 ★吉原の最初は金持ち専門。 吉原ができた当初は、大名や裕福な武士、豪商などしか相手にされませんでした。つまり、幕府としては、裕福な大名や武士などが居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と言う事情から、とにかく、銭を使わせて「貧乏にさせる」と言う政策だった。 庶民に開放されたのは、元禄年間のことでした。 ★遊女は奉公と呼ばれた。 遊女になるのには、さまざまな理由があった。貧しい農家に生まれ売られた者、商人や武家であっても借金のカタに奪いとられた子女、同棲中の男に騙されて身売りさせられた者。 しかし、吉原は幕府公認、そして、幕府は「人身売買」を禁止していたため、公には「売買」ではなく「奉公」と呼ばれていた。 ★「遊女」の階級。 まずは、最高級なのが「太夫」、そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級であった。太夫は一番多い時で70人余りいたという。しかし、彩色教養兼備の遊女が少なくなったため、寛保年間(1741~1743)には2~3人にまで減少し、ついには、宝暦年間に「太夫」の位はなくなってしまった。 ★なぜ「太夫」はなくなったか。 「太夫」は容姿だけが資格ではない。声曲、お茶、お花、香合、そのほか芸事全般、和歌、囲碁、将棋、文字の上手さ、などを身に付けていた。中には「八代集」や「源氏物語」、「竹取物語」を覇読したり、漢文を「レ」(れてん、または、かえりてん)なしに読める者までいて、当時の最高のインテリ女性であった。だから、客も大尽らしく振舞わなくてはならず、一晩寝るためだけに買うと大恥をかいたという。大名気分にはなれたものの窮屈極まりなかった。そこで、「太夫」がいなくなった時点で、そこそこの容姿、教養を身に付けた「花魁」へと替わっていった。 しかし、京や大阪では「太夫」の名称は残りました。これは、京や大阪では、踊りや芸事に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。ただし、江戸の「太夫」のような教養はあまり必要ではなかった。 ★花魁誕生。 宝暦年間(1751~1763)以前は、遊女の最高の位は「太夫」または「傾城(けいせい)」と言ったが、格式が高く教養も良家の子女をうわまわるほどだったため、「遊び」には、かなりの物入りだった。そこで、もう少し「安く」遊べるようにと、「太夫」を廃止し「花魁」(おいらん)が遊女の最高ランクとなった。しかし、やはり「高値の華」だった。ちなみに、「花魁」の語源は「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と呼ばれるようになり、「花魁」という漢字が当てられました。  ★新吉原。 明暦3年(1657)の大火をきっかけに、吉原は葦屋町から浅草日本堤(づつみ)へと移転した。人口の急増で江戸府内が手狭になったことと、浅草周辺の開発をめざした都合からである。また、一説には、江戸城のすぐそばで遊女屋があることは風紀上よろしくない、との判断もあったようで、いずれも幕府がかねてより計画していたものである。以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになった。 ★花魁道中。 「太夫」や「格子」をお客が指名するときは、まず、客は「引き手茶屋」へあがって、そこの店の者を「使い」として遊女屋に走らせた。そして、指名された「太夫」あるいは「格子」が客の待つ茶屋まで着飾って高い朱塗りの下駄をはき、独特の八文字を描いて時間をかけて出向いた。これが「花魁道中」である。茶屋で客と出会った後、気に入れば自分の遊女屋へ伴ってきた。しかし、一度目は単なる顔合わせだけ。客が酒を薦めても杯(さかずき)を自分の前に並べて置くだけで一口も飲まない。話しかけても、ニコッと頷くだけ。二度目でやっと「お話」ができる程度で抱くことはできず三度通って、花魁が気に入れば妓楼へ連れて帰り、はじめて蒲団を一つにできた。茶屋への席代、茶屋での飲食代、使いの者への駄賃、遊女に付き添ってきた者一人ひとりへのご祝儀、遊女屋への支払い、そして、遊女へのご祝儀。実に、一晩だけで30両余りもとんだと言われている。よほどの大尽でなければこんな「遊び」はできなかった。なお、京や大阪では「太夫道中」と言いました。 ★花魁の衣装の重量。 髪飾り・・・3kg位。黒塗りの三枚歯の下駄(三つ足と呼ぶ)・・・片方が2kg。着物・・・20kg位。合計27kg位。 ★私娼(ばいた)。 幕府の許可を受けていない私娼(ししょう=売女「ばいた」とも呼ばれた)のこと。集団娼(しゅうだんしょう)と散娼(さんしょう)に分けられた。 <集団娼>・・・水茶屋や出会い茶屋などに抱えられて春を売った。 また湯女(ゆな)・・・・・湯屋(銭湯)にも私娼がおり、西神田の堀丹後守の屋敷前にあった「丹前風呂では「勝山」という湯女(ゆな)は人気NO1だったと言われている。 <散娼>・・・・・蹴転(けころ)・・・・・・・上野のお山を中心に出没した。 提げ重(さげじゅう)・・・明和~安永年間(1764~1781)頃流行した、提げた重箱に餅や饅頭を売り歩きながら春も売った。 船饅頭(ふね(な)まんじゅう)・・・天明(1781~1789)頃流行。饅頭を売ることを表向きとして「大川(隅田川)」の船の中で春を売った。 夜鷹(よたか)・・・元禄年間(1688~)から出没するようになった。下記参照。 比丘尼(びくに)・・天和~貞享(1681~1687)頃から出没し始めた。勧進のため諸国を巡っていた尼さんがいつしか春を売るようになった。坊主頭に色気を感じる変態男もいて、結構人気があった。「三ケ日(さんがにち)待たず比丘尼は見世を張り」と狂歌にも詠まれ、正月の三が日も休めないほどであった。 ★夜鷹(よたか=私娼)。 京都では「辻君」(つじぎみ)・・・何となく風情がある。 大阪では「惣嫁」(そうか)・・・・何でも喰らい付くの意。 江戸では「夜鷹」・・・・・・・・これは、夜になると鷹のように目を凝らして相手を見つけた。 「凡(おしなべ)て鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ケ所より出て色を売り、此徒凡て四千に及ぶと云ふ」(武野俗談)とあるから、江戸の女五十人に一人の割合であったとか。夜鷹の出没するのはほかにも両国、柳橋、呉服橋、鎌倉河岸など柳のある土手が多かった。彼女たちは柳の陰からす~っと出てきて、往来の男の袖を引っ張って土手を降り、川端に積んである材木の間などで事をすませた。持参のゴザが唯一の商売道具であった。もちろん、隠れ「売女」(ばいた)であった。 なぜ「岡場所」と呼ばれたかは、「岡」に登れば四方が見渡せる。つまり、「岡目八目」や「岡惚れ」と同じく横合い(本筋ではなく)から手を出すからきている。 以上、参考までに。

USOWKLZG
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • gesui3
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回答No.2

高級娼婦、です。

USOWKLZG
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

回答No.1

そうです、最高級の風俗嬢ですね、5両から10両、現在のお金で一晩50万~100万だったそうですから、いわゆる風俗嬢とは格が違うと言えるかもしれませんが。

USOWKLZG
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

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