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カネは君達の王として君臨する
- カネ中心の考え方以外出来ない君たちが、生きる意義や価値を失っていることを指摘
- 価値観で全てを評価することは経済価値のみで評価することであり、生きる意味は金だけではないと迷う
- 君たちが価値観以外を見いだせず、生きる意義を生きる価値としていることを批判
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質問者が選んだベストアンサー
経済学の知見で、回答します。 「お金」を「貨幣」に言い換えると、資本主義以前には「貨幣」は単なる物と物との交換手段に過ぎませんでした。 その点では、他の物とそんなに違わない。 金・銀・銅が「貨幣」として利用されましたが、金属が「貨幣」として使われたのは、壊れたりしないし、腐食もそんなにしないし、擦り減ったりしなかったからです。 だから、金・銀・銅は商品の一つでしかなかった。 ところが資本主義が16世紀の西欧で始まると、「お金」つまり「貨幣」は物と物とを交換する、単なる手段ではなく、物の「価値」を表示する「等価形態」になります。 すべての物、すべての商品は、その価値を「貨幣」で、示すようになりました。 なぜならば、物と物が交換されるには、そこに何らかの共通なもの、両者を「媒介する」ものが必要だからです。 それが「価値」と言われるものです。 物は「価値」があるから、交換される。 「価値」がなかったら、何物とも交換されません。 「無価値」なものは交換できない。 そして資本主義が発展するに従い、金・銀・銅は単なる金属でなく「貨幣」に、「お金」に転化します。 金貨・銀貨・銅貨になります。 この世の中に存在するすべての物は「貨幣」を、今度は「等価形態」から、「価値形態」に変化し、すべての物の価値を測る「尺度」になります。 私たちの社会は「お金」「貨幣」を中心にして回っています。 たいていの物ならば、「お金」で買えないものはありません。 だから「お金」は「万能」であり、神であり、「王様」です。 すべての物の価値を測る「君主」のようなもの。 だから誰でも、人を支配したいと思ったら、「お金」を追求します。 「お金持ち」になったら、人はみんな寄ってきます。 逆に、「お金の切れ目は縁の切れ目」と言って、貧乏人からは人はみんな逃げます。 愛情だって「金次第」。 マルクスは、このような「お金」で回っている社会を人間の「疎外」と言って、人間の本来の在り方ではない、と非難しました。 「お金」は人と人との共同体を破壊し、互いに人を敵対し合うように仕向けます。 そのうえ、資本主義は、「金持ち」はますます「金持ち」に、貧乏人はますます貧乏になります。経済格差が拡大します。それを避けられません。 そのような社会を克服し、人間の平等と共同体を回復するためには「貨幣」を、「お金」を廃止するほかはない、と主張しました。 なぜならば、共同体ならば、物はみんなの所有であり、「お金」が、「貨幣」が必要ではなくなるからです。
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若いときはお金がなくても心さえ豊かなら 幸せになれると思っていました。 大人になってから分かった、 お金がないとミジメなんです。 マルクスなんか読んで馬鹿みたいだった! 資本論?自分の将来に夢を与えてくれただけです。 お金で買えないものってあるのですか? お金があるだけで尊敬される、美人と結婚できる。 石ころに価値があると信じますか? この石ころには百万円の価値があると いえば価値が生まれる。金持ちは その石ころを喜んで買うんですよ。 ゴミ袋をモデルに着せてこれは ブランドですとロゴを入れればファッションになる。 その税金で賄われるのは一部の人たちだけ。 資本主義が与えたのは世の中には不条理が あるということ。 お金さえあれば安心感が買えます。 デポジットは自分の保証金なんです。 やっぱり金だと実感したのは東南アジアで 貧しく暮らす人たちを目の当たりにしたとき。 全身虫に刺されたまま寝てる子どもたちは 蚊のドリンクバーですか。 あの子たちに理を説いて喜びますか。 一番嬉しいのは食費や菓子類です。 目に見えることのみです。 お金さえあれば学校に行ける。 学問は発展に貢献します。 No.4のかたの回答うなずけます。 資本主義を導入すると世の中どうなるか 的を射た回答です。 お金や価値観について話をするなら アツく語り合いたいものです。
お礼
猿回しの話をしたんで、私に挑戦しようってのかい。 私はガツガツ稼ごうと思えば能力的には稼げるタイプなんだけどね、収入を目標にしていないので、子供修行が仕事だ。 日本で餓死するほどの貧困があるとすればそれは経済的理由じゃなくて孤独が原因だろう。 そう言うのは、私が遊んでいても誰かが頑張っていて世の中が豊かだからだ。 助けてもらっている資本主義「カネ」に私は不満がないよ。 東南アジアの子供たちだけどね、投資という形での援助がいきわたらないのは、かの地の受け皿が不足しているからだ。施しを受けるより、働いて稼ぐのが基本だけど、そのための資本を投入する下地が足りないんだ。それでもその土地に移り住んだ日本人なんかはコツコトと頑張っていると思うよ。 お金はありがたいもんだなー。 それが自分のものでなくてもね。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
カネは自分に必要なだけあればよい。 水や空気と同じですよ。 必要とする水の100倍の水を独り占めして、なにか幸せになるかな?
お礼
ミネラルウオーターの水源地の地主はしこたま儲かるんだってさ。 あんたのお気楽な考えには好感を持つよ。 私もだからどうしたって感じだ。
お金や価値観について冷静に論じ合う。 哲学じゃなかったら感情論に展開してますね。 考えや価値観は押しつけた瞬間、 ただのエゴになります。 有害な主張は生産性がなく疎ましいだけです。 「お金」、「価値観」という言葉を見ると 自分の金銭感覚や生活に基づいて言葉を 選んでしまう。 プロレタリア云々、、 哲学もマルクスも知らない 薄っぺらい思想には辟易します。 語らないこと。利口にみせる技です。
お礼
私は今のIDの前からかれこれ10年ほどこのカテゴリーに参加していてね、昔は私の哲学スタイルを「猿回し形式思索法」と明言しておおっぴらに喧嘩を売っていた。 有害回答大歓迎なんだよ。 さて、今回は収穫が多い。 価値観とは金銭と係るが、それでいて金に対する不平不満が多い。 価値観とは金の事じゃないと言ったらまるっきりでたらめじゃないか。 彼らいわく、人生には各々に多様な価値観がついて回る。 こう言っているんが、それでは、職業などの収入を得る方法と、生活の必要性における消費の傾向は個人によって異なると言うだけだ。 彼らが本心で言いたいのはおおむね私が翻訳するとすると、 人生には価値観以外にも多様な尺度がある。 こう言いたいんだろうが、思考が及ばないから人生は金じゃないとか言っている。 この錯誤を要約すると、金を王様にしていると言う事だ。 頭の構造が金一色だから柔軟に「人生には価値観以外にも多様な尺度がある。」こういう発想が出来ていなくて、言葉に表れている。 観念語を使いこなせればたやすいのだが、哲学教育は不毛でね、日本の場合まだ輸入ブローカーしか先生を名乗らない。 教えられた言葉は用法としてでたらめで、自分の考えがないからそれが判っていない。 ようするに、猿回しによって私の研究の基礎は裏付けが取れたんだ。 実に意地悪だけどこれが一番効率がいい。 さて、このように観念上明白な事柄が理解できないと、理解のため単純な論理をむずかしい理解のための文脈で複雑化する。そうして訳わかんなくなっているのが哲学の大半を占めるガラクタの山だ。 私が今回改めて命題を簡潔にすると、 価値観とは尺度の一つに過ぎない。 生命の活動を総括すると価値観以外の意義も見出す事が出来る。 この二言だね。 予告しておこう、彼らがこの命題に取り組んでも、即座に理解できないから大辞典みたいな研究書ができる。 理解したと言うならばそれは、古い言葉で「悟り」現代の慣用句で「気づき」だ。 大辞典は元々意味をなさないんだ。 そこで私は考えたんだがね、固定化された偏見として金への執着が今回の議題だけど、これを解消するならくどくどと説明して、理解力のない人に理解を期待する不毛な努力をするより、心理療法的に言葉遊びとゲームで心を解きほぐした方が効果的だ。作詞作曲してアイドル歌手に歌ってもらってもいい。洗脳解除のためだ。 私がやっている各種娯楽活劇なんかは哲学に見えなくても哲学の使命には忠実だね。 私は猿回しが出来たので、今回の質問の成果に満足しているよ。 日本の哲学的思考の伝統は、神学中心の西洋と違って、仏教における人間の資質の研究で、人間を学ぶことによって同じ人間である自らを知る事なんだ。 自己の完成は神の祝福でなく、人を突き詰めて考える修行で得られるんだ。 ところで、仏陀となってからの人間研究、仏教の意義は人間存在を解脱して人間とは違う高みから、ムシケラがはいつくばるのを見下す視線で人間を観察し、救いを懇願する彼らと問答するための人間研究だ。 闇の仏陀ならではの残酷ないい方に聞こえるだろう。 しかし古来の慈悲も人間を虫けらのように目下す視線からの、人間に未知の憐れみの心情の事だ。 これが仏陀だ。 そして私だ。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
NO・5 です。補足をいただきましたので。 >田舎に住んでるとね、身の回りには自給自足と性質的に大して変わらない生活をしている人がいたり、田舎者には多かれ少なかれそうした傾向がある。 その田舎者の金銭感覚だとね、生活の糧の原則がカネである、主に東京の情報や生活実態と価値観に誤差があると言う話がとっかかりで考察したものだ。 価値観という尺度は田舎者には全体の意味の一部のみなんだ。 で、出版や放送を握る東京都民のの金への恨みが違和感を感じるんだ。 これを読んで、少し貴方の持っている「価値観」という語彙の”定義”が分かりかけてきた。つまり 価値観=金(かね)についての考え方、 といったことなのだろう。私がいくら訂正を掛けてもそのままだったから、この根は深いのだろう。他にもこういう語彙があるのかもしれない。 >価値観という尺度は田舎者には全体の意味の一部のみなんだ。 この部分は、金のねうちは、田舎者にとっては都会人より小さく見積もられている、貴方はそういいたいのですね。 何度話し合っても、使う言葉が異っていたら気持ちが通じ合わないのはあたりまえだ。こちらの思いが分からないのも当然だと思う。議論などはなからかみあわないわけだ。 そういうことが分かっただけでも良かったと思います。では。
お礼
はいよ、はいよ。おつかれさま。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
NO・2 です。冷静です。 >生きることに価値、ついついこう考えがちな頭を生きる事の意味に置き換えるトレーニングでもしてみろ。 観念語は忠実でね。価値だけに重点を置く考え方は頭の体操に成功すれば、なるほど染まっていたなと自覚できるだろう。 なぜこのようにわかりにくく(一見ナンセンスとしか思えない、回答者を愚弄しているように、まさか)書けるのか?現象的に理解に苦しみますね。 私は「生きることに価値」 云々とは書いていません。 世にはいろんな価値観があって、それでいいのでは、と書いたつもりなんですが。 それに 生きることに価値(を見出す?) と 生きることの意味(を考える)の違いは何なんでしょう? いいですか、 生きることに価値を見出す、というのは、生きることの意味を考えたら(いろんな価値のある意味があって)プラスになると分かった、と言うことなんですね。 それ以外にどんな解釈がありますか? 頭に筋肉があるとおっしゃるかたですから、その筋肉でどんな体操をされるつもりなのか、(頭の体操とは考えることだろうと思いますが)何を考えるのか、それとも何も考えない(静止もある意味体操の一種です)のか、禅の境地とか仰るつもりなのかもですが、本当に何かがあるのなら(興味があります)具体的にそこを補足して頂きたいと思うものです。
お礼
今回のテーマは価値観を中心にすると意味を全て換金性で規定するとでもいった研究だ。 私も君の反論が判らんよ。 100円玉の使い道は人それぞれだろう。 そして100円を稼ぐ方法も人それぞれだ。 君の言うとおり価値観はそれぞれだよ。 ならば、生きる事の価値という言葉の使いかたは用法が間違ってると指摘しようか? その手の筋肉トレーニングの話だ。
補足
あと補足だよ。 田舎に住んでるとね、身の回りには自給自足と性質的に大して変わらない生活をしている人がいたり、田舎者には多かれ少なかれそうした傾向がある。 その田舎者の金銭感覚だとね、生活の糧の原則がカネである、主に東京の情報や生活実態と価値観に誤差があると言う話がとっかかりで考察したものだ。 価値観という尺度は田舎者には全体の意味の一部のみなんだ。 で、出版や放送を握る東京都民のの金への恨みが違和感を感じるんだ。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
金持ちこそ、世界を心の奥から破壊する最悪のテロリストだ! 「お金」は、単なる手あアカで汚れた紙切れです。 人は「お金があれば何でもできる」と言うが、お金でできる のは、せいぜい「お金があれば何でもできる」と思い込んで いる人に、“何でもさせる”ことだけです。 「お金に価値がある」のではなく、お金の向うで働いて くれている人=助け合いに価値があるのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、 自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具” として発達したものなので(社会生命として生きる事である 労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、 自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々を して、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 人の生きる目的が「物質的豊かさ=肉体的増殖」ではなく、 「精神的充足感」である時、人を自己チューな意識のまま 社会的行動を強制するお金は、必要悪です。
お礼
お姉さま! 素敵過ぎますわ。 あこがれちゃいます~。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
ものごとを金で判断することは、”価値観”云々とは普通言わないと思います。 まあ、かつかつ最低の価値観が金だということはいえるでしょうけれど。 「お宝」を金額で判断するのは普通なされていることです。 そのお宝は、○○¥の価値がある、という言い方をします。 価値観というのは、それらとは異なって生活感覚から離れた意味を持つのが通常です。 分かりやすくいえば哲学的な意味合いを含んでいます。 世に流通する金はそういうものではありません。いわば生活感覚に汚れきったものだといえます。 そういう感覚が質問者さんの>あーらかわいそうねー。という気分に含まれているらしいことは認めます。 だから >価値観で全てを評価する事とは経済価値のみで評価することだ。 これに意味を付加すると、質問者さんの個人的な思いだということになります。 普通は意味がわからない、内容のない文章です。 >主文を価値観に関する考察に集約して研究の助けになる助言をお願いします。 ここの”価値観”を従来の意味に取りなおして回答の一助にすることは出来ます。 私の身近な経験では、私のご近所の子弟さんたちには、高校を出た後に海外へ飛び出して何年も放浪し、最近戻ってこられてその履歴経験を生かし、貿易会社に就職して結婚し、今は長期海外勤務にいそしんでおられるひとを複数知っています。 必ずしも金の価値に汚れた人格では出来ない行動を軽々とやってのけるそういった若い人たちをみじかに見れば、質問者さんの世間への見方も、必ずしも当を得てはいないのではないか、そんな気がしましたが、どんなものでしょうか。 価値観として誰も特に意識はしないまでも複数のものを持っていると思いますし、私もそうです。要は金の価値を常識的に持ちつつ働き、更に人生の余剰をどんな未来へ価値の獲得に振り向けるか、そんな考えを持っているのが普通の日本人なのではないか、そう思います。
お礼
まあな、頭を冷やせ。 生きることに価値、ついついこう考えがちな頭を生きる事の意味に置き換えるトレーニングでもしてみろ。 観念語は忠実でね。価値だけに重点を置く考え方は頭の体操に成功すれば、なるほど染まっていたなと自覚できるだろう。 私の推奨するこれは心理療法のようなもんだがね。 根が深いんだよこの病は。 ちなみに単調な頭の体操は、脳の筋肉トレーニングだ。 私はこのような脳の筋肉を鍛え抜き前人未到の筋肉エクスタシーに到達した筋肉超人だ。
- kaitara1
- ベストアンサー率12% (1154/9141)
カネは個人が社会によって殺されないための身代金なのでは。
お礼
独自の見解で面白いが、もっと論説を膨らませないと理解できないよ。
お礼
考え方の筋道は良くて面白いよ。 一つ私にも意見が合って言わせてもらうよ。 犬飼った事あるかい、動物の行動原理の基本は自己への連関の確認で、自分にメリットがあるかどうかの判断で行動がきまる。 人間はこれを損得と言うけど、動物的にそれと全く同一の行動原理から抜け出せない人も観察できるだろう。 おそらくお金がおおさまの時代以前は、この動物らしさがなおさら大きくて野蛮だっただろうさ。 尺度が出来た事は実際にはいい事なんだ。 克服する事は壊すことじゃなくて前に進む事だから価値観からの解放は個人の努力だ。 と、かんがえる。 その根幹は自我反応的損得計算の克服でより高度な社会性を帯びた精神が目標となるだろう。
補足
自分なりの結論のある君をベストアンサーにするよ。 でも経済じゃなくて哲学なら考え続ける事は大切で、結論が君を踏みとどまらせることのないように願うよ。