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生き方

 色々悩みましたが、 手についた職を、棺桶に入る寸前までやり続けようと 決心しました。 まだ未熟な点多々ありますが、お客様から要望ある限り 続けて行こうと思います。 過去を振り返っても、戻ることはありませんが、 職はいくら振り返っても、これからに活かせることに 気付きました。 基本的なことは、過去も未来も不変だということです。 20歳の人が線を引くのも、80歳の人が線を引くのも 線を引くことに変わりが無いということです。 申し遅れました。仕事は建築設計士です。53歳 質問でも無いですが、同年代の方でこれからの生き方、 考え方、何かあれば聞かせて下さい。

みんなの回答

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

最高ですね。 マジで、羨ましいです。 仕事と配偶者で人生の勝ち負けが決まります。 勝ち負け、という言葉は語弊がありますが 意味は解ってもらえると思います。 質問者さんは、間違い無く、人生の勝ち組です。

回答No.1

こんにちは。 同年代より少し上ですが・・・。 やはり、自分に合った職種で仕事をするのが(仕事ができるのが)一番最高だと思います。 私も大学を卒業した時(する時)、何になろうか悩みました。 大学は2流位ですが、一応全国区。法学部法律学科。 弁護士試験は1回受けましたが、見事落選。 私は、足が少々不自由です。 「そうだ、医療関係の職に就こう」と考えました。 頭がないので医者にはなれませんでした。 某大学病院に無事就職でき、医療事務を一から教わりました。 当時は、パソコンもなく、算盤を片手にしての全て手作業でした。 その大学病院では、その頃は、 「雇員」「書記補」「書記」「主任」「係長」「課長補佐」「課長」「事務長補佐」「事務長」の序列でした。 「雇員」・・・高卒で次の昇進は3~5年。 「書記補」・・大卒で次の昇進は2~3年。 私は、「書記補」で採用され、2~3年後には無事「書記」に昇進しました。 さて、当然のことながら、上に行くほどピラミッド。 空きがなければ、何時まで経っても足踏み状態。 「書記」はたくさんいました。次に昇進するのは一握り。 ところが、私の部署の「主任」が「係長」候補となり、その後釜の主任は「多分にお前かも知れない」とウワサが立つほど私も人一倍努力しました。 しかし、自分で言うのも可笑しな話ですが、あえて公表すると、 私の頑張りを誰かがみていたのでしょうか。 ある人を介して、 「A病院(個人・一応は医療法人・300床位の大病院)が赤字で困っている。助けてやってくれないか」 と、打診がありました。 私は、今の大学病院にいれば、「寄らば大樹の陰」ではないですが、昇進の可能性もあるし、給料も年々上がっていく。 と、思い、相手にしませんでした。 やがて、そのある人が、私の元を日参し始めたのです。 当然、断り続けていたのですが、とうとう、根負けして「新天地にカケてみるか」と決断をし、主任候補であったにもかかわらず、30歳位でA病院の「医事課長」として迎えられました。 A病院は、毎年のように5,000万円位の赤字でした。 病院関係というと、看護師をはじめとして女性の多い職場。事務もご多分に漏れず「お局さま」がゴロゴロ。 まあ、はっきり言って一言では言い表せない苦労をしましたが、入職1年目の3月期決算で約1億円の黒字を出しました。 「経営管理会議」(院長=理事長+事務長+総看護師長)の会議で、 「このまま、所得税でとられるなら・・・」 と言うことで、職員全員に「期末決算手当」という「臨時ボーナス」を支給しました。 それまでは、定期昇給も0.1%位、夏冬のボーナスは銀行から借り入れて、やっと0.5位。 さあ、病院中が「てんわやんわ」の大騒ぎとなりました。 「今度の医事課長はできるぞ」 「どんなマジックを使ったんだ」 私の耳にも入りました。 それ以後、毎年のように1億円の黒字を出すようになりました。 銀行もそれまでは「不良再建団体企業」だったものが、一躍「優良企業」にランクアップ。 職員の定期昇給も1~2%。夏冬のボーナスも1.5~2.~2.5。 当然のことながら、医師や看護師、その他の職員なども定着するようになり、意思疎通も良好。従って、売り上げはさらにUpしていきました。 入職してから6~7年目に事務長(57歳前後)が「脳梗塞」を起こして、自分の病院に入院しました。脳梗塞はやがて安定をしましたが右片麻痺でリハビリを開始。 ある時、事務長が病室に私を呼んで、 「事務屋がペンを握れなくなったらおしまいだ」 と、寂しく言いました。 そして、間もなく事務長は定年(60歳)を目前にして「辞表」を提出。 さて、次の事務長は誰か? 「当然、医事課長だろう」 「いやいや、庶務課長もいるぞ」 「他からコンバートするかもな」 事務長が倒れてから、事務長の仕事(保健所への提出書類の作成等)は庶務課長が代理していましたし、15~20年選手。歳も40代。 まあ、正直に言って私も「なってもいいな」という希望的観測はありましたが、医事業務に専念していました。 ところが、ある日、院長(理事長)から、 「チョト来てくれ」 と、内線TEL。 私は、何か失敗でもしたのかとヒヤヒヤしながら理事長室をノック。 部屋に入ったとたんに、院長が立ち上がり、 「この病院を君に任すことにした」 と、一言言って手を差し伸べました。 私は、ただただ茫然としました。 翌朝、緊急の全体朝礼があり、院長自ら私に、 「事務長を命ず」 の辞令交付。 私は、嬉しいのと、反面、庶務課長を気遣いました。 私より年上、私より長年の勤続。そして、何よりも、私の「事務長に命ず」の辞令を書いたのも庶務課長だったのです。先にも述べましたが、まだ、PCなどはなく、毛筆の手書き。 彼の心の中に去来したものは何だったのでしょうか。 こうして、私は37~38歳で病院の舵取りをすることとなりました。 医事課長には、他の病院のキレ者をコンバート。 彼も私のやり方を全て受け継いでくれました。でも、私も医事課の仕事は事務長になっても続けました。 以来、60歳の定年まで勤めました。 「定年延長」 の話もありましたが、私も疲れました。 病院一筋40年余り。 今は、理事長の息子が院長になり(理事長は元院長がそのままです)、訪問看護ステーションだとか介護センターなどと手を広げていますが、私が、数年前訪ねたら、上にも下にも置かないもてなしで、急遽、理事長、院長、私の3人でホテルでの昼食会をしてくれました。 まあ、確かに苦労も多かったですが、今から振り返ってみると、これが「天職」だったのかな、と思う今日この頃です。 あなたも、適職であるなら、頑張って下さい。 あなたの「天職」かも知れません。 とにかく、「続けなさい」「頑張れ!」の一言です。

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