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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:御用金負担者に女性名。)

江戸時代の女性トップ経営者と御用金負担者について

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の商人24人の御用金負担額とその中の2人の女性経営者について調査しました。
  • 女性が経営トップになる理由や当時の状況について教えてください。
  • また、古川屋と小倉屋の業種についても知りたいです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Kittynote
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回答No.10

小さなことからコツコツと…No.9投稿の補完、失礼致します。 No.9投稿後段、年代不明の代物のため不採用確定分 ・早稲田大学図書館>古典籍総合データベース>江戸じまん http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_05435/index.html http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_05435/wo06_05435.pdf <1/1>(右側4段目8行目) の「米店 伊勢丁 古川八十次郎」に関しましての新情報。 下記によれば、「古川八十次郎」は「ゑツ(ゑつ)」の孫のようです。 ・『文化求金簿:3巻.[2]/文化10(1813)』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546117/2 <2/73> 文化十年癸酉年十一月 十組外之者御用金上納写 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546117/6 <6/73>(左端) 伊勢町 古川屋八十次郎 □(※祖)母 ゑツ 以上 「江戸じまん」と「文化求金簿」の「八十次郎」によって、 …何時まで存続したかの問題は別として… …あと「江戸じまん」は胡散臭いと言われればそれまでですが… 少なくとも文化三(1806)年の「古川屋ゑつ」が 「米店(米商人)」であった可能性は高そうです。 以上 お騒がせしましたm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

や!や!や! なんと!なんと!(表現しようのない驚き) 「古川屋ゑつ」の“捜査”開始以来8日目、ついに業種は「米店」であることを確実なものにした、ということですね。 伊勢町に米を扱う店で、古川屋という屋号の店は1軒だけだったと仮定すれば…。 (まず1軒だけだったに違いないでしょう) 享和元年(1801)、「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」が出ていますが、その後も古川屋は、伊勢町にあって米の商いを続けていた。 そして、文化3年(1806)「ゑつ」の名で金二千両の御用金を負担した。 さらに文化十年癸酉年十一月には、米店・古川屋八十次郎の名で御用金、金二千両?を負担した。 八十次郎の名とともに「祖母ゑツ」として「ゑつ」の名も併記してあるので、「ゑつ」は無視できない存在だった。 以上のように話がつながると思います。 Kittynote 様には、数々の資料に当たっていただいて、大変お手を煩わせました。 思いつきでなんでも質問する私にとことん付き合ってくださって、いっぱいのご教示、感謝申し上げます。

その他の回答 (9)

  • Kittynote
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回答No.9

小さなことからコツコツと…なんてネット検索の暇があれば、 とっとと図書館に走れ!!とのお叱りを受けるかもしれませんね^^ >「南槇町西会所」で検索すると、「泉屋江戸両替店は、1857(安政4)年に >南槇町西会所に再移転した」という記事に出合いました。 No.5お礼欄で御教示いただきました上記(「再移転」部分は?ですが)と、 下記とを併せ考えますと、弘化四(1847)年一月生の九代目團十郎未亡人おます が数え8歳頃(嘉永七<1854>)の世評は長者のままだったところ、 数え11歳頃(安政四<1857>年)までには凋落に至ったのかもしれませんね。 ・早稲田大学図書館>古典籍総合データベース>江戸じまん http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_03157/index.html http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_03157/wo06_03157.pdf <9/18> 東都持〇長者鑑(金満堂蔵.嘉永七<※1854>寅年初秋改正大新板) 東西2段目13行目(金千両の4つ目) 同(※金千両) 南槇丁 小倉屋庄助 あと、年代不明の代物のため不採用確定ではありますが、 「米店 伊勢丁 古川八十次郎」なんてものも。 もちろん、他店名等から年代絞り込みの余地はありそうとはいえ、 襲名など代々同一名なども有り得ると考えると手が出し辛いです(><) ・早稲田大学図書館>古典籍総合データベース>江戸じまん http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_05435/index.html http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_05435/wo06_05435.pdf <1/1>(右側4段目8行目) 以上 昼下がりのコーヒーブレイクでした^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

「江戸じまん」 これはまた面白そうな資料を紹介してくださって、それはそれでよいのですが、読み出すと止まらないので悩みの種になりそうです。 これまでご教示のあったURLをまだまだ読みきれていません。 今日は、隣の市の歴史資料館に行ってきたのですが、「会所」という文字がやたら目に付きました。 「塩会所」「綿会所」「町会所」など。 どうも「会所」のイメージが掴めません。

  • Kittynote
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回答No.8

>…「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」の「御免」の意味を私は「許可」 >と思っていましたが、そうではなく「辞める」という意味なのですね。 仰せのとおり「許可」と「辞任」では真逆ですね。 御期待を裏切るカキコミ(N0.7投稿)と 誤解を招いてしまったかもしれない稚拙な表現で 誠に申し訳ありませんでしたm(_"_)m 舞台裏を曝しますと、実は私も「苗字御免」「帯刀御免」の如く 漠然と「許可」と捉えていました。 内容に関し素人の私には全文解読は無理であろうことと「ゑつ」に繋がる字句 も見出せないこともあって「肝心の中味は未確認」と言葉を濁しましたが、 この時点(No.5)でもNo.6投稿時でも、なお「許可」と考えていました。 その後、半信半疑の事態に陥ることになったのが、 『東京市史稿 産業篇』(目次)の検索時、 「・附記 米方御用達病免/産業44-527/1801(享和元)年9月15日/ 享和元酉歳・町会所一件書留・旧幕引継書」など多数の「病免」表記 (表記自体は『東京市史稿』編集上の問題に過ぎませんが)が散見されることが 気になりました。 そこで、改めて『町会所一件書留.[21]十九 享和元酉歳[170]』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587085/8 を見直しますと、目次では下記のとおり 十三 一 橋本清右衛門米方御用達御免之届 十五 一 古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届 私ド素人ゆえ以下「□&…(中略)…」&誤読、御免。 ・十三 一 橋本清右衛門米方御用達御免之届 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587085/68 <68-70/170> 申渡 御廻米納方 米方御用達 橋本清右衛門 代 御廻米納方 米方御用達 小出屋三右衛門 其方□御廻米納方米方御用達□ 病床ニ付御免之儀相願ニ付願之通右御用向 ハ御免ス然上ハ□□苗字相…(中略)… 米方御用達 □添 柏屋傳右衛門 御廻米納方御用達 同 上田屋□助 右之通橋本清右衛門御用向御免之儀 相願ニ付願之通御免ス為可候其ニ□ 酉九月 右之通…(中略)… 酉九月十□日 小出屋三右衛門 柏屋傳右衛門 古川屋五郎兵衛 町御會所 上記から「橋本清右衛門」は病床につき「辞任」と読み取れます。 次はより以上に私には読み辛く理由・原因などハッキリしませんが… 「…御用向を御免ス」など表現は上記と差異が無いように読み取れます。 十五 一 古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587085/71 <71-72/170> 私ド素人ゆえトンデモ勘違いの可能性は十分有り得ますので、 断定は出来ませんがNo.7投稿時から現時点に至るまでは 「・十三 橋本清右衛門米方御用達御免之届」と同様に 「辞任」と捉えています。 ただ「古川屋五郎兵衛」が辞任であったとしても、 また5年後の「古川屋ゑつ」との関係の有無も別としても、 不確実とは言えGoogleブックス『日本の時代史/石上英一』の 「幕領の年貢米を一手に扱った米方御用達四人のうちの一人 伊勢町の米仲買、古川屋五郎兵衛」 「1851(嘉永4)年段階、伊勢町から米商人の姿が消えていた、 米方御用達古川屋も伊勢町から姿を…」などの 断片情報と「伊勢町 古川屋ゑつ」が無関係とは思えないのが 正直なところでございます。 以上 年明け早々 お騒がせして誠に申し訳ありませんm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

再々の丁寧なご回答真にありがとうございます。 「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」における「御免」は「辞任」を意味すること、よく解りました。 「御免」の類似例を調べてくださるなど、お手を煩わせて恐縮です。 質問する方は気楽だと、お叱りを受けそうですが、以下、私の独り言ですから無視してください。 主人の五郎兵衛が辞任すると、どうなるのでしょうか。 御用達でなくても普通の米仲買として、番頭か誰かが商いを続けることはできたのでしょうか、という疑問です。 「享和元酉歳・町会所一件書留」を示してくださいましたが、古文書は全く読めません。 これを読んで理解できるなら、回答者になっていますよね。

  • Kittynote
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回答No.7

No.6投稿補完の為、失礼致します。 No.6投稿時、出先でのひととき、端末にて「南槇町 小倉屋」関連検索を 試みたところ、再び「ゴルドーニ 提言と諫言」の別記事に出会しまして、 …実際には、No.4-5投稿段階で見落としていただけかも知れませんが… 関連情報の確認もないまま、当日は午後8時頃までに (kouki-koureisya 様のアクセス時間帯は主に午後8時台と勝手に認識^^) 投稿しづらい状況もあり、勢いで即時投稿に至った次第でございます。 結果的に新ネタは無く、内容に変動はありませんが、たとえ僅かでも 情報源に接近すべく下記書籍URLを貼付させていただきます。 ・『市川團十郎の代々.下巻/伊原青々園著/市川宗家/大正6.10』 「九代目團十郎 其の三 權之助襲名以後(三十二歳より四十歳まで)」 妻ます  <31・32/110>(21頁10行目-22頁9行目) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932124/31 「小倉屋」は「街談文々集要」記事と「市川團十郎の代々」記事の点と点が 「南槇町」の所在が共通なことで一つの線に結ばれるように思いますが、 「古川屋」につきましては確実性に乏しいGoogleブックス断片記事の 「伊勢町」で辛うじて繋がる程度(原本未読のため弱気です)、 あと冷静に考えればNo.5投稿の「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」の件は 『町会所一件書留.[21]十九 享和元酉歳』<71・72/170> http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587085/71 文化三(1806)年の御用金より5年も前の享和元(1801)年九~十月に五郎兵衛が 米方御用達を辞めただけで「古川屋」の屋号が同じだけで関連性不明の 無意味なカキコミと言わざるえません(><) 時期的には「古川屋ゑつ」に繋がる何かがあればと思っていましたが、 ド素人なりに内容を見たところ次に繋がる情報は得られませんでした。 さて今回、自らの投稿(No.3~7)を振り返ってみますと、 少なくともNo.4~7は一纏めで一回の投稿で済んだはずであろうと また無駄が多く整理しないまま舞台裏を曝しただけのお粗末な有り様に 自省の念にかられる次第でございます。 以上のとおり 膠着状態のままですが、今回調べる過程で (ネット上で武鑑の御用達欄を幾つか調べてみましたが、 「小倉屋」「古川屋」は見出せませんでした) ・東京都公文書館>刊行物>東京市史稿>産業篇 http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0601sangyo.htm ○[第38 790 1792(寛政4)年3月7日~1792(寛政4)年12月 平成6年3月30日] 「附記 勘定所支配米方御用達任命 産業38-404 1792(寛政4)年7月」 あたりから、各巻順に[Ctrl+F]キーを駆使してみましたところ、 「米方御用達」関連も散見される中、 ちょっと面白そうな記述を見つけました。 『東京市史稿 産業篇 第53』 http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0601sangyo53.htm トピックス ◇幕府諸役所の御用達を網羅し一覧表にした刊行物「幕府御用達綱目」 (東京都立中央図書館)を完全復刻。 絵師狩野家や、御金改役後藤家といった著名な存在から、土圭(時計)師、 御茶碗師など、その実態が未解明な職まで、 天保期の御用達商人・職人の居住地や御用達となった時期などが判明します。 ・〔参考〕幕府御用達綱目 産業篇52(画面上では52になっていますが、 おそらく「第53巻」)340~402 天保期(1831-1845)限定のようですが、新たな情報が得られるかも知れません と言いながら、私自身は時間的制約もあって無理があります。 決して無理強いではありませんが、何かの機会にでも一読されるのも 宜しいかもしれません^^ 以上 新ネタもないまま長々と申し訳ありませんm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

気に留めてくださってありがとうございます。 まさか、「九代目團十郎」が出てくるとは夢にも思いませんでした。 気楽なことを言うようで申し訳ないですが、思いがけない展開になることは、質問者としては最高の喜びです。 九代目未亡人おますの回顧談で「父は南槇町、俗に西會所と申しました…、」とありますから、「西會所」というのは、町民の間ではかなり有名で、かつ権威があったような感触を得ました。 「家業は銀主―御用達―でしたが、零落しまして、…」ということで、小倉屋は「金融業?」であった可能性大ですね。 であれば「小倉屋いの 金千五百両」は、一件落着ですね。 古川屋ゑつに関しては、「米仲買」で決着と思っていましたが、「思いたかった」というのが正解です。そうではないらしいのですね。 「米仲買」なら二千両負担できそうですが残念です。 しかし、文化3年、伊勢町に古川屋という屋号の仲買が居たということまでは突き止めてくださったので私は満足です。 さらに#5回答で、 上記から「幕領の年貢米を一手に扱った米方御用達四人のうちの一人伊勢町の米仲買、古川屋五郎兵衛」「1851(嘉永4)年段階、伊勢町から米商人の姿が消えていた、米方御用達古川屋も伊勢町から姿を…」 また、「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」の「御免」の意味を私は「許可」と思っていましたが、そうではなく「辞める」という意味なのですね。 「武鑑」の御用達欄にまで目を通してくださったのですね。 『東京市史稿 産業篇 第53』の目次を見ましたが、興味ある項目がいっぱいです。 しかし、今のところ手が回りません。 もう、分からないこと、知りたいこと、質問したいことがいっぱいです。 まず、「会所」そのものをもっと勉強せねばと思っています。 出てくる町名を一つ一つ地図で探すと、ちょっとだけ江戸の町角に立っているような気がします。 今回も存分に江戸の町を散策できました。感謝申し上げます。

  • Kittynote
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回答No.6

何度も失礼致します。 >2.古川屋、小倉屋の業種は何ですか。現在にも続いていますか。 に関しまして、裏付けまでは取れませんが、 どうやら概ねの輪郭が浮かびました^^ 既投稿と重複しますが、 「古川屋(伊勢町)は、米方御用達の米仲買、嘉永期には没落?」。 あと「小倉屋(南槇町)は、御用達の銀主(金融業)、幕末?には零落」。 なお「小倉屋(南槇町)」に関しましては、 下記の記述を信じればの条件付ではあります…(><) ・ゴルドーニ 提言と諫言> 2007年09月 アーカイブ 2007年09月01日 推奨の本 ≪GOLDONI/2007年9月≫ 加賀山直三『團十郎三代』 1943年 三杏書院 http://goldoni.org/2007/09/ …九代目未亡人おます、その出生、經歴、團十郎との結婚のいきさつは、伊原 靑々園氏編の『市川團十郎の代々』中の本人の直談に委しいので、これを轉載 して置く。「わたくしの名はまさと云うのが本當ですが、戸籍で書き間違つて ますとなつたのを、今では本當の名前にして居ります。弘化四年一月生れで、 父は南槇町、俗に西會所と申しました、… …家業は銀主―御用達―でしたが、零落しまして、わたくしは胤違ひの兄で、 龜岡石見―御一新後は甚蔵と云ひました―それへ引き取られました。わたくし と妹が片付かないで、わたくしは兄の處へ行つて居たのですが、… (「補遺」より) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

  • Kittynote
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回答No.5

またまた失礼致します。 >2.古川屋、小倉屋の業種は何ですか。 まことに荒技ですが、困った時のGoogleブックス頼み… 「伊勢町」「古川屋」ほか「米」など幾つかキーワードを変えて検索を 繰り返し手懸かりを求めましたところ、 一部省略と文字化け等も含むプレビュー不可の断片に過ぎませんが、 ・日本の時代史-226ページ 石上英一 仲買仕、御屋敷様方御年貢米引請、上方筋取引手広 4 仕候」(『東京廻米問屋 市場沿革』)という者であった。幕領の年貢米を一手に扱った米方御用達四人 のうち二人は伊勢町の米仲買で、古川屋五郎兵衛(図^ )は「年来上げて伊勢町 の米問屋に預け、一人 ... ・日本の時代史-260ページ 石上英一 しかし、一八五一(嘉永四)の段階ら、伊勢町から米商人の姿が消えていたので ある。商会所」が、一八八六年に深川で東京廻米市場が成立し、米の取引の中 心は移動してしまうが、実はそれ以前かとうきょうかいまい物である米方御用 達古川屋も伊勢町から姿を ... 上記から「幕領の年貢米を一手に扱った米方御用達四人のうちの一人 伊勢町の米仲買、古川屋五郎兵衛」 「1851(嘉永4)年段階、伊勢町から米商人の姿が消えていた、 米方御用達古川屋も伊勢町から姿を…」 あと、「古川屋」「米方御用達」でGoogle検索したところ、 下記サイト内で「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」が見つかりました。 ・町会所 - 旧幕府引継書 - FC2 http://kyuubakuhu.web.fc2.com/choukaisho.htm ただし、その箇所の特定説明が難しいので、 御存知と思いますが、他の方の為にも念の為、 お手数ですが[Ctrl+F]キー同時押しで画面左上に検索欄が現れますので、 検索欄に「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」と入力後、 [Enter]キー押しでその「※宇(享)和元酉年21」箇所に飛びます^^ あとは、 ・町会所一件書留.[21]十九 享和元酉歳[170] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587085/8 十五 一 古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届 と続きますが肝心の中味は未確認です^^ 以上から「伊勢町 古川屋」に関しましては、どうやら 米方御用達の米仲買、但し1851(嘉永4)年頃には伊勢町から消えたとか。 また、「南槇町□會所 小倉屋」に関しましては、再び ・ゴルドーニ 提言と諫言> 「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(壱) http://goldoni.org/2005/09/post_332.html …「明治四年、父は三十四歳で妻を迎へた。 花嫁は京橋南槙町に西會所を開いてゐた御用達小倉庄助の娘でまさと呼び、… と「南槇町西會所 小倉(屋)庄助」 西会所とは何の業種の会所か?で、又幕末・明治まで存続したようにも 受け取れますが、現時点ではド素人の私にはハッキリしません(><) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 私の頭が混乱してきましたので整理しておきます。 「古川屋、小倉屋の業種は何ですか。現在にも続いていますか。」と気楽に聞いたのがそもそもの間違い?だったのかも…。 回答#3.さらに、「伊勢町、古川屋ゑつ、後見伊右衛門」などの断片情報を手懸かりに、例えば手始めに『日本橋区史.第3冊/東京市日本橋区/大正5』の「炭薪仲買」の中に古川屋と小倉屋の屋号を見出したものの古川屋ゑつ、小倉屋いの何れとも関連性は?のまま、悪戦苦闘(><) #4.また当時から50年以上経過後の記事でもあり真偽?の問題は残りますが、下記書籍から当時の古川屋と小倉屋の所在地が浮かびました。 古川屋/伊勢町(※→日本橋本町一・二丁目、日本橋室町一丁目界隈) 小倉屋/南槇町□会所(※→八重洲二丁目界隈) 残念ながら下記は黒潰れで読み辛いとは思いますが… ・『珍書刊行會叢書.第2冊/川上邦基編/珍書刊行會/大正4.7』 〇「街談文々集要 上集/石塚豊芥子(1799-1862)/序・萬延元(1860)」 文化三年丙寅 第九 爲冥加金納 (1-4行目)伊勢町 古川屋ゑつ 後見伊右衞門  (15行目)南槇町□會所 小倉屋前後見庄次郎 #4.No.3投稿冒頭でも少し触れましたが、文化三(1806)年から数えて45年後の日本橋界隈の問屋等の記録から古川屋、小倉屋と同一屋号は、 「炭薪仲買」欄の「呉服町家主[慶應二年五月休業]古川屋平右衞門」と 「本銀町二丁目傳兵衛店 小倉屋傳藏」と あと、「紙煙草入問屋」欄の「堀江町壹丁目家持 小倉屋與兵衞」の三つ。 「呉服町(※→八重洲一丁目界隈)古川屋」 「本銀町二丁目(※→日本橋室町界隈)小倉屋」 「堀江町壹丁目(※→日本橋小舟町界隈)小倉屋」 何れも店舗移転などの可能性も残るとは言え、文化三(1806)年時点の所在地とは相違します。 上記を勘案して、『街談文々集要』文化三年丙寅 第九 爲冥加金納に記載の「伊勢町 古川屋ゑつ  後見伊右衞門」 「南槇町□會所 小倉屋前後見庄次郎」を正とします。 質問で採り上げた書籍の内容(屋号、金額)と一致しますから…。 伊勢町に「古川屋」があったこと、南槇町□會所?に「小倉屋」があったことは間違いないです。 「古川屋」では、古川屋平右衞門と古川屋五郎兵衛の二人の名が挙げられました。 平右衞門は、文化3年(1806)から4,50年後の記録ですが、嘉永四(1851)年三月頃の記録には、 「炭薪仲買」とあります。そして、呉服町家主として慶應二年五月休業と記録されています。 五郎兵衛については、「古川屋五郎兵衛米方御用達御免之届」の記録が享和元年(1801)ですから、 文化3年(1806)の5年前の記録となるので、「古川屋ゑつ」は米仲買の可能性大ですね。 伊勢町は、堀(運河)に面しており、その河岸は「こめがし」と呼ばれていたようです。 (延宝7年=1679年刊「江戸方角安見図鑑」による) 次に『街談文々集要』に記載の「南槇町□會所 小倉屋」です。 □は、面ではなく“西”ということですね。 「會所」そのものをよく理解できていないので、なかなか進みません。 何を扱っていた會所なのか、特定の商品か、複数の商品か、それとも相場が立つ場所なのか、知識がないので想像すらできません。 「南槇町西会所」で検索すると、「泉屋江戸両替店は、1857(安政4)年に南槇町西会所に再移転した」という記事に出合いました。 ゴルドーニ 提言と諫言>「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(壱)を今から読みます。 面白そうです。

  • Kittynote
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回答No.4

再度失礼致します。 私には刺激的過ぎる(=難問)2.に関しまして、 引き続きアプローチを試みましたところ、 残念ながら業種特定には至らず、 また当時から50年以上経過後の記事でもあり真偽?の問題は残りますが、 下記書籍から当時の古川屋と小倉屋の所在地が浮かびました。 古川屋/伊勢町(※→日本橋本町一・二丁目、日本橋室町一丁目界隈) 小倉屋/南槇町□会所(※→八重洲二丁目界隈) 残念ながら下記は黒潰れで読み辛いとは思いますが… ・『珍書刊行會叢書.第2冊/川上邦基編/珍書刊行會/大正4.7』 〇「街談文々集要 上集/石塚豊芥子(1799-1862)/序・萬延元(1860)」 文化三年丙寅 第九 爲冥加金納 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945286/55 <55/139>(103頁下段1-4行目&15行目) (1-4行目)伊勢町 古川屋ゑつ 後見伊右衞門 (15行目)南槇町□會所 小倉屋前後見庄次郎 因みに「南槇町□會所 小倉屋」の子孫の一人に関しましては、 どうやら下記のような話もあるようです。 ・ゴルドーニ 提言と諫言>2013年06月 アーカイブ> 2013年06月13日 九代目団十郎の妻 宮内寿松 (『百味』昭和48(1968)年6月号より) http://goldoni.org/2013/06/ >2.…現在にも続いていますか。 No.3投稿冒頭でも少し触れましたが、 文化三(1806)年から数えて45年後の日本橋界隈の問屋等の記録から 古川屋、小倉屋と同一屋号は、 「炭薪仲買」欄の「呉服町家主[慶應二年五月休業]古川屋平右衞門」と 「本銀町二丁目傳兵衛店 小倉屋傳藏」と あと、「紙煙草入問屋」欄の「堀江町壹丁目家持 小倉屋與兵衞」の三つ。 「呉服町(※→八重洲一丁目界隈)古川屋」 「本銀町二丁目(※→日本橋室町界隈)小倉屋」 「堀江町壹丁目(※→日本橋小舟町界隈)小倉屋」 何れも店舗移転などの可能性も残るとは言え、 文化三(1806)年時点の所在地とは相違します。 ・『日本橋区史.第3冊/東京市日本橋区/東京市日本橋区/大正5』 「第十四章 第二節 江戸時代の商業 五 區内諸問屋名前」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951553/144 <144~231/428>(256~431頁) 嘉永四(1851)年三月頃の記録 二二、炭薪仲買 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951553/178 <178/428>(324頁下段) 一、呉服町家主 [慶應二年五月休業] 古川屋平右衞門 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951553/184 <184・185/428>(337頁下段-338頁上段) 一、同(※本銀)町二丁目傳兵衛店 小倉屋傳藏 五九、紙煙草入問屋 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951553/224 一、堀江町壹丁目家持 小倉屋與兵衞 次に、文化三(1806)年から数えて48年後の 嘉永七(1854)年六月~九月の江戸町人御用金の記録から 古川屋、小倉屋と同一屋号は、 前段3番目の「紙煙草入問屋 堀江町壹丁目 小倉屋與兵衞」のみ。 ・『日本財政経済史料.第5/大蔵省編/財政経済学会/大正13.12』 「日本財政經濟史料卷五 財政之部三 第七、獻納 八、御用金獻納」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902331/423 <423-447/554>(787-835頁) 嘉永七(1854)年六月~九月の江戸町人御用金記録 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902331/433 <433/554>(806頁上段) 金三百兩 堀江壹丁目 小倉屋與兵衞 以上の断片情報から現時点での(とは申しましても、 全く追加投稿の目処は立っていません)当て推量に過ぎませんが、 「紙煙草入問屋 堀江町壹丁目 小倉屋與兵衞」で 金1500両は考え辛く(現に嘉永七(1854)年には金300両、 これも凄いとは思いますが…)、 嘉永七(1854)年の江戸町人御用金の記録には 「呉服町 古川屋」「本銀町二丁目 小倉屋」ともに記載がなく、 「呉服町 古川屋」については慶應二年五月休業とか、 また仮に「本銀町二丁目 小倉屋」が「小倉屋いの」と関連があるとしても、 嘉永七(1854)年の記録に登場しないことを考えますと、 文化三年の「伊勢町 古川屋」「南槇町□會所 小倉屋」ともに 嘉永年間(場合によっては慶應二年五月)頃までは 少なくとも同一屋号では存続し得なかった可能性も高いように思いますが、 一方で「九代目団十郎の妻 宮内寿松」の文中 「…ます隠居は京橋南槇町に会所を開いていた幕府御用達小倉家の娘で九代目 が三四才、ます(小倉家にいた時はまさ、後成田家の三升に因んでますと改名) さんは二五才、当時としては晩婚であったわけ。…」記事からは、 1838年11月29日生の九代目団十郎三四才で婚姻とすれば1872(明治5)年頃、 すまさん25才とすれば1847(弘化4)年頃生としますと、 「南槇町□會所 小倉屋」は幕末にも存続していたとも読み取れます。 んぅ~ん、どっちつかずの投稿になってしまいました(><) やはり私には難問です^^ 嘉永七(1854)年の江戸町人御用金の記録でも女名前人(※女相続人)の観点で 眺めてみますと、数えてはいませんが、やはり数%はいるようですね。 以上 当て推量に終始し中途半端投稿となりましたm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答真にありがとうございます。 「炭薪」とは懐かしいです。 昭和30年代でも、近所に「薪炭店」がありました。 「炭薪」ではなく「薪炭しんたん」と言っていたと思います。 いつものことですが、提示される資料にびっくりしています。 「珍書刊行会」とはなんぞや? 検索しますと、大正2年「将に煙滅せんとする江戸時代通俗文芸図書の復刻」を趣旨に設立されたそうですね。 顧問に小山内薫、黒板勝美がいます。 それにしても、「街談文々集要」に文化3年の御用金の記事が出ているはずと、目安をつけられた眼力に驚愕です。 しかも、読みにくい資料を丹念に読んでくださって、重要な部分を書き写してくださって真にありがたい限りです。 >(1-4行目)伊勢町 古川屋ゑつ 後見伊右衞門  >(15行目)南槇町□會所 小倉屋前後見庄次郎 「文化三年丙寅 第九 爲冥加金納」の記事によれば、冥加金を古川屋ゑつは二千両、小倉屋は千五百両を納めています。 記事では五百両となっていますが、後に出てくる人の金額が千三百、千二百両ですから、千五百両が正しいと思います。 表題は「冥加金」ですが、内容は「御用金」のようです。 すると、質問で書きました人名と金額が一致します。 「小倉屋“前”後見庄次郎」の“前”の意味が分かりませんが、“以前、後見した”と解釈しました。 「南槇町□會所 小倉屋」の□は、拡大すると“面”に見えます。 「面會所」だとしても意味不明です。 「伊勢町 古川屋」について、私も調べましたが、「伊勢町に古川屋があった」という以上のことは全く分かりません。 伊勢町は「一町ことごとく<いせや>の暖簾を掲げざるものなし」だそうです。 堀江町、小舟町については、次の論文に詳しいですが、「小倉屋」の記載なしでした。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000967437 慶應義塾大学 『三田商学研究』41(2), 23-36, 1998-06-25 「日本橋堀江町・小舟町商業史覚書 : 問屋と街」 >文化三(1806)年から数えて45年後の日本橋界隈の問屋等の記録から  >古川屋、小倉屋と同一屋号は、 >「炭薪仲買」欄の「呉服町家主[慶應二年五月休業]古川屋平右衞門」と >「本銀町二丁目傳兵衛店 小倉屋傳藏」と >あと、「紙煙草入問屋」欄の「堀江町壹丁目家持 小倉屋與兵衞」の三つ。 女性が経営トップになって、多額の御用金を負担できる商売とは何、という疑問でしたが、業種が何であれ女性が店を相続するには“四つの条件”を満たせばよいということでした。 しかし、業種を追究することで、切絵図を丹念に見たり、論文を読み漁ったりするのが、私流の歴史の楽しみです。 横道に逸れてしまうのが欠点ですが…。 「紙煙草入問屋」の紙煙草入とは何のことかさっぱり分かりませんでしたが、紙製の煙草入れのことでした。 始めは、紙・煙草・入問屋と区切って考えていました。 それが分かると、昔、父も母も葉タバコを煙管で吸っていたことを思い出しました。 「皮の代わりに紙を使った煙草入れが考案されたり、袋物に紙を使用したりしました。加工技術も江戸時代には、目をみはるばかりに進んだ」そうです。 「2.…現在にも続いていますか。」という質問に、念入りに調べて下さって真にありがとうございます。 >文化三年の「伊勢町 古川屋」「南槇町□會所 小倉屋」ともに嘉永年間(場合によっては慶應二年五月)頃までは少なくとも同一屋号では存続し得なかった可能性も高いように思いますが、… そうですね。 よほどの大店でない限り、あるいは小さくても“名物”を扱っていない限り、商いは浮き沈みが激しいですから、 今も存続している店は少ないでしょうね。 とは言っても「江戸時代から続く老舗」を検索しますと、150を超える店がすぐに見つかりました。 古川屋、小倉屋の屋号の店はありませんでした。 #5、6のご回答は未読です。 結論(答え)を先に知ってしまっては面白くありません。 Kittynoteさんが答え(業種)を追い求められた過程を追体験したいからです。

  • Kittynote
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回答No.3

今年もよろしくお願い致します^^ 1.2.のうち、 2.に関し、屋号が一覧出来そうなネット上の書籍を漁ってみましたが… 刺激的過ぎる内容にド素人の私にはアプローチ方法が浮かばない現状です。 例えば『江戸買物独案内2巻付1巻/中川五郎左衛門編/山城屋佐兵衛/文政7刊』 では、古川屋、小倉屋ともに見出せず(><) さらに、「伊勢町、古川屋ゑつ、後見伊右衛門」などの断片情報を手懸かりに、 例えば手始めに『日本橋区史.第3冊/東京市日本橋区/大正5』の「炭薪仲買」 の中に古川屋と小倉屋の屋号を見出したものの 古川屋ゑつ、小倉屋いの何れとも関連性は?のまま、悪戦苦闘(><) よって、1.のみカキコミさせていただきます。 幕府直轄地ですから、さほど江戸でも差異は無かったものと都合良く解釈^^ して、同じ頃の大坂の事例から拾ってみました。 下記の特定地の特定期間の324例中、女性の被相続人3件、 女相続(※女名前)人3件(被相続人の死亡又は婿養子の不義等による離縁)、 このうち各2件は関連事項につき、 敢えて実質4件とカウントしますと「4/324=0.0123」、 残念ながら店の規模は問えませんので、一般論として、 宝暦~文政年間当時、厳格な五つの要件により、 少なくとも1%程度の女店主が存在した実態が浮かびます。 〇「<資料>大坂菊屋町に於ける町人名跡相続の実態について(1) :宝暦から文政年間まで/中埜喜雄」 『法と政治 13(3)/関西学院大学/1962-10-30 』(489-526頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000213210 <16/38> 5、女子の相続(中継相続) <17/38> …女子が相続人たる地位を取得し得るには、 (1)相続人たるべき適当な男子が無いこと、 (2)公儀に願出ること、 (3)三年間の有期たること、且つ (4)代判(※後見)人を選定すること の四の要件を全て満たすこと… (※なお、中埜喜雄氏は「<論説>近世大坂町人相続法をめぐる若干の問題」 『法と政治 15(3)/関西学院大学/1964-09-30』<13/50> http://ci.nii.ac.jp/naid/110000213244 において、 厳格な五つの要件の(5)番目に「五、未成年者でないこと」を加えています。 また、(3)の「三年間の有期」に関しても、 前記<18・19/50>…女名前(※相続)期限の更新延長を重ね、八年後すなわち 女名前第三期(期間中)…引退…このようにして、女名前期限は原則として 一期三年間を限って認められたが、更新延長も一期三年間を限度として 二回以上延長願出を行ない、認可されたことが明らかとなる。※) <22-38/38>附表(一) ○相続人が女子のケース <29/38>・142/天明四(1784)/富田屋彦兵衛(死亡)/とみ(長女) <33/38>・225/文化元(1804)/小倉屋兵右衛門(離縁)/まさ(養祖母) <38/38>・316/文政四(1813)/池田屋源助(死亡)/さご(後家) ○被相続人が女子のケース <30/38>・165/寛政二(1790)/富田屋とみ(引退)/宇兵衛(伯父) <34/38>・249/文化四(1807)/小倉屋まさ(引退)/正五郎(養子) <37/38>・310/文政三(1820)/淡路屋りく(引退)/四郎兵衛(悴) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「伊勢町、古川屋ゑつ、後見伊右衛門」は、断片情報ではなく貴重な情報です。 また、『日本橋区史.第3冊/東京市日本橋区/大正5』という資料もあるのですね。 こんな資料があることさえ知らない私にとっては、この資料の存在を知っただけでも大変参考になります。 早速「伊勢町」がどこにあったのか、須原屋茂兵衛版の江戸大絵図(安政六年)で調べました。 常盤橋御門から本町通を東へ進んだ、本町4丁目にありました。 近くに堀留町があります。「堀留町」という名の由来は、堀を掘るのをそこで止めたから、と城下町の歴史散歩で聞いたことを思い出しました。 堀の側には「材木町」がある、とそのとき聞いたのですが、ピタリです。 本町1丁目には金座があり、本町4丁目の次は大伝馬町1丁目ですから、古川屋は日本橋に次ぐ一等地にあったということになります。 屋号の出ている資料をかなり読み漁ったのですが、江戸では小倉屋も古川屋も全く見つかりませんでした。 ということは、滅多にない屋号ということになるので、「炭薪仲買」の古川屋と小倉屋が該当するのでは、と推測しています。 と、ここまで書いてきて#4のご回答に気づきました。 次に女子の相続に関しては、大坂菊屋町の事例は具体的でよく解りました。 相続に関して、大坂町奉行所が江戸を差し置いて「達」を出すとは考えられませんので、江戸も同じ条件だと思います。 相続は、「嫡長男子が本来の形」であって、「女子は、相続慣行上は極めて劣位に置かれたものと推定」され、そして「あくまでも女名前人たり得る期限は3年間(奉行所へ願い出て延長可)」である、ということがはっきりしました。 この資料は、昭和37年発表ですから、その後もっと研究が進んでいるでしょうが、私としては十分です。 ご教示に感謝申し上げます。 今年もよろしくお願いします。 #4のご回答は今から読ませていただきます。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1057/1649)
回答No.2

町人や農民の家では、跡継ぎとなる男子のない場合、女子が跡を継いで婿養子をとるのは、ごく普通に行われていたようです。金沢の各家の家主と家業を記録した文化8年の「金沢町名帳」によれば、女性の家主が全体の8%存在し、下層町人の多い地区で内職的な仕事をする者が大半を占めているものの、大店の多い本町筋で薬種問屋、合薬商売、宿屋、銭商売などを継ぐ例も見られるとのこと(中野節子「江戸時代の『家』と女性」 市史かなざわ1997・3)。また、和歌山藩の尾鷲では、半士半農の地士の身分と思われる浦上家の当主、浦上円三郎の死後、その姉いそが「代々帯刀ノ身分」を許され「御扶持」を受けている例があるそうです(藤田定一郎「江戸時代の家制度と女性の地位」同志社大学商学部創立三十周年記念論文集1980・2)。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 金沢と尾鷲の事例、具体的で大変参考になります。 >大店の多い本町筋で薬種問屋、合薬商売、宿屋、銭商売などを継ぐ例 >半士半農の地士の身分と思われる浦上家の当主、浦上円三郎の死後、その姉いそが「代々帯刀ノ身分」を許され「御扶持」を受けている例 これらの例からして、女性だからという理由だけで差別されることはない、と言えそうですね。 「家」と「女性」に注目して調べてみます。

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>1.上記2人の女性が経営トップであるとすれば、どのような理由でトップになれたのでしょうか。 >>2.古川屋、小倉屋の業種は何ですか。現在にも続いていますか。 これは、2つをまとめて回答したいと思います。 う~ん。小沢詠美子氏がどこからその史料を集められたかですが、非常に珍しい史料と言わなければなりません。 さて、女性がトップ。 考えられるのは、料亭関係かもしれません。 まあ、現代でも、旅館や料亭などでは「女将」あっての商売と言われていますよね。 江戸時代などにおいても、女性が後を継ぐ。そして、婿を貰う。 例えば、嫡男がいたとしても、嫡男には分家をさせ、商売柄娘に後を継がせる場合もありました。 ところが、現代でもそうですが、婿さんには家の財政管理をする権限はありません。 つまり、婿さんは家や店の相続人でもなければ、その家や店の財産権はないのです。 まあ、女主人(妻)が死亡して初めて「財産分与」により財産の一部を受け継ぐことができました。 文化、文政年間頃は、女性もやや地位が向上した頃で、 例えば、江戸ではありませんが、米沢藩で上杉鷹山が安永5年(1776)に領内に細井平州を江戸から招いて、興譲館という儒学の学校を造りましたが、武士も庶民も、そして、女性までもを受け入れています。 また、上杉鷹山が米沢藩の財政再建を進める中で、大樽川の支流に小野川温泉があり、温泉宿兼小料理屋がありました。そこの女将が多大な寄進をしたと言われています。 ※童門冬二氏の小説では、宿の名前はなく、「千代」という女性が経営者として出てきます。 江戸においても、文化、文政期は一種のバブルの時代で女性も学問を寺子屋や私塾などで学ぶことが大目にみられるような時代でした。 また、庶民の暮らしぶりも豪奢となり、武士の御内儀や庶民でさえも派手な衣装や髪形、髪飾りをするようになり、一方、豪商たちは料亭などでの会合と称しての飲食会などが盛んとなり、それに伴って深川芸者などの需要も増えた時代でした。 当然、禁止令は度々出されましたが、際立った効き目はありませんでした。 ちなみに、この文化、文政期に江戸を二分した料亭としては、日本堤山谷(さんや)の「八百善」(やおぜん)と深川八幡前の「平清」(ひらせい)。 まあ、色々推測等を述べてきましたが、「湯島の料亭」関係が一番考えられます。 また、古川屋と小倉屋については、私も何の史料も持ち合わせていませんし、もし、料亭関係であれば、その後の「縮小令」や「禁止令」により衰退し消滅した可能性が高いと思います。 さらに、料亭関係であれば、「株仲間」ではありませんでしたので、一個人の名前しか書き留められなかったのではないでしょうか。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど!! 湯島の料亭かも! 料亭なら儲けているでしょう。 「八百善」については何かの本で読んだ覚えがあります。 バカ高い値段にビックリしました。 『お江戸の経済事情』第3章「江戸文化をめぐる経済」の中に、「御用金負担者上位ランキング」という表があるのですが、出典は明示されていません。 著者の言(むすびにかえて)によれば、この本は、歴史専攻でない大学生対象の講義用テキストとして書かれたものだそうで、細かい出典までは示せなかったとのことわりがあります。 そして、第3章「江戸文化をめぐる経済」の参考文献として31冊あげてありますが、私には難しいものばかりです。 料亭をヒントに思いついたのですが、吉原の屋号を調べてみます。 いろいろ推定してくださってありがとうございました。

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