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神は消えるのか?それとも一つにまとまるのか?
- 神は死んで消え去るのがいいのでしょうか?それとも一つにまとまって地球に一つの神に成るのが良いのでしょうか?私はそのどちらが良いのか迷ってます。
- つまり古い家をひとつにリフォームして今在るものを活かして恒久的に活かしていけばいいのか?それとも今在るものを壊してまたく新しく作り直したほうが良いのか?
- 全くリサイクルして全く違うものを立てたほうが良いのでしょうか?それともあるものを活かして宗教なら認識を新たにして、道徳は残して歴史の上に倫理、社会を作り上げたほうがいいのでしょうか?
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yuniko99さん こんにちは 私は神仏肯定派です。また既存宗教肯定派です。 以前、yuniko99さんに哲学(フィロソフィー)の意味の「愛智」の「愛」とは、なれなれしく物事を知ったつもりでいる「溺愛」でなく、厳しく、物事を区別する「敬愛」と書いたと思います。 例としてハイブリット車がガソリンと電気で動くことだけを知って、凡人は、それで、すべてがわかったつもりである「溺愛」の例を示しました。私も、詳しい構造は分かっておらず「溺愛」です。 しかし、ハイブリット車に使われる、ネジ1本の由来を調べると、戦国時代に種子島に漂着したポルトガル船の宣教師たちから、もらった火縄銃に使われていた、ネジに行き着きます。そして初めてネジというものを知った、日本人の職人により、日本において生産出来るようになったことが、分かります。 日本における、ネジとキリスト教の布教は切り離せません。 お茶を飲みながら、この文章を書いていますが、お茶は鎌倉時代の臨済宗の祖である禅僧の栄西が中国から、持ち帰りました。栄西の喫茶養生記を読むと、お茶は心臓に良い。当時、中国人が長生きなのに、日本人が短命なのは、お茶を飲まないためだとして、薬として使われはじめました。 お茶と仏教の布教は切り離せません。 もう一方、宗教が人間にとって必要なのは「孤独」という現代病的な問題もあります。 1980年代半ばから1990年代初頭にかけての「バブル景気」において、日本人はいくら物が豊かになっても、心が満たされないという経験をして、ブータンの幸福度指数の高さに比べて日本が低いのはなぜかと、さんざん議論になったはずです。 私は物より人、人よりも神仏と思います。 この世で物より、人間とコミュニケーションにより幸せを得るのが大切と思いますが、人間は不完全なもので、時には裏切られることもある。 しかし、そんな場合にも、自分のことを影から見ている神仏というものが存在し、信じていることで、神仏が自分を理解していると思うなら、決して電車に飛び込んで自殺するなどの行為はしないと思います。 自分は孤独ではないから安心だと思う人がいたら、それは間違いです。 人間は必ず死に、死ぬときは、ひとりでこの世から「孤独」に旅立たなければなりません。そのようなことはゲーテのファウストにも書いています。そして、それは人間にとり人生で一度だけの初めての経験であり、誰もが安らかとはいかないと思います、数年前亡くなった、隣の方も、病院で亡くなる数日前、とても怖いと私の母親にもらしたそうです。 私は西田幾多郎の哲学書を読んでいた時、当たり前のように、仏教用語や和歌が出てきて、当時の教養人のレベルの高さを思い知りましたが、その中に書いていた禅宗の「景徳伝灯録」の経典の文章理解のために、公立図書館を当たりましたが、存在しませんでした。見つけたのは、なんと某大学の医学部図書館です。「死生学」のために宗教書が医学部にあるものと思います。 バーチャルなネット上でこのように発言していますが、私には日本人はバーチャルが当たり前のようになって日本において人間関係が希薄になることを危惧しています。 この回答の横についてくる、この質問を読んでいるならを見ていたら、恋愛において、わざわざ男女で付き合うのは面倒だからと、草食系ではなく絶食系の男女が出現し始め、そのニーズに応え、人工知能を持った恋愛ロボットが開発されているようです。 日本社会において、性処理はすべてロボットに任せる社会になり、ますます、出生率は減り続け、老後のことは年金に頼らず、死ぬまで働け、それが出来ないのなら、飢え死にしろという事態になる可能性もある、日本の未来を、神様、仏様は、救ってくださるでしょうか? 人間は自分自身の傲慢を戒め、知恵の限界を知るべきと、私は神仏を肯定します。 では、メリークリスマス、良いお年を。
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- gunflict
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「神」の概念の固定化は文字の普及にあります だから「理解」しようとするのですね すると聖書なりコーランなりを掲げて主張を始めます 同調者による派閥が生まれて「正義」と称した弾圧も出てきます 生まれる前からある文章を示されて証拠だといわれればこれ以上の説得力はありません 歴史はこの繰り返しです イスラムはもとより仏教にしろキリスト教にしろ本来は偶像崇拝を否定しています それは口伝が前提だからです 聖書はその書き写しだからイザヤ書やらマルコによる福音書やらつぎはぎになってますね コーランやいわゆるお経も原型がどうだったのか、口伝通りなのか確かめる術はありません 要するに宗教とは本来共通認識を求めているわけではないということです イエスが最後の晩餐でユダの裏切りを予言したのは有名ですが、当時は社会不安を煽る新興宗教として危険視されていたわけで、施政者や平和に暮らしてた者からみればユダは模範的行為を行ったことになります 後にプロテスタントは北米に侵略して虐殺を始めますが裏切りは間違っていたのでしょうか 「宗教とは奉仕である」とは宗教学者の一説ですが、本当に奉仕している人は「神」なんて人前で口にしませんよね
お礼
宗教とは奉仕である 確かに大切な言葉ですねえ 神を語る必要もないのでしょうね 奉仕の人は それが本当の信仰かもしれません 素晴らしい内容だと思います どうも大変ありがとうございます。
- kurinal
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Ano.4です。 >「宗教や神は在ってもいい。神を信じている人もいて世界が調和できると 言う事でしょうか?」 ・・・そこが、かなり難しいようなのです。 もう、15年くらい前になりますが、 社会福祉(彼らにとっては「奉仕」)をしている人に、 「異なる宗教との共存」ということを訊いてみたことがありますが、 明快な解答は得られませんでした。 改めて考えてみると、彼らも、彼らの信じるところの宗教の下に生きることに精一杯で、 他の宗教の信者ということまでは、考える、あまつさえ認めるという余裕までは、なかったのかな、と。 (公的に、信教の自由を侵害出来ないということから、世界が調和、ということになりますが、 (彼らには)テロではなく、社会福祉に従事してほしいですね)
お礼
社会福祉に貢献してくれる人が多くいると助かりますねえ 自分も出来る事はやらなければなりません 神が居るか居ないかと言うより 奉仕、福祉を実行する方が大事 よく分かります。教えは知ってるだけじゃ意味がありません 実行しなければなりません 確かに どうも大変ありがとうございます。
- a_hona
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こんにちは^_^ 私の父が、このようなことを言っていました。キリスト教やイスラム教の開祖はズルいと。何故か?それは、お告げ、預言と称して神様が言ったことだから、神の言葉だからそれを信じろ、と言うからだそうです。自分の言葉じゃないので、放った言葉のその責任を放棄してしまっているのです。 一方、釈尊などはまともだとも言っています。彼は自分の言葉で語り、決して神から預かった言葉だなどと言わないからです。 神のいることの不具合は、なんでも神の所為にできるからです。いい事も、悪い事も、神様の所為。戦争も、病も、子供に恵まれる事も、こうして一日が無事に終わる事も、神の所為、お陰なのです。 こんな考えでは、人類はいつまで経っても自立できません。自身を見つめることができません。 特に酷いのは、聖戦というやつです。戦争は人間が起こしているのに、それを神の心だとか言って神の所為にし、自分の犯す罪を放免しています。すべてを神に預けて、自分の責任を放棄する。自らの足で人生を生きるということをしないで、一体真実の何がわかるというのだろう。 仏教に言う生老病死のように、人間には苦しみがあるのであり、その苦しみから目をそらさないので謙虚になれ、人の気持ちが分かり、人としてまっとうに生きていけるものではないでしょうか? 勿論人生には楽しみもあります。苦しみから目を逸らさず、楽しみに浮かれてしまう事なく、しっかりと歩きたいものです。 最後になりましたが、私の意見は、神を忘れてもいいが、人間らしい人生の在り方を忘れるべきではない、です。
お礼
これは困りましたねえ アメンホテップさんと、あほなさん どちらをベストアンサーにすべきか どちらも二理も三理も有るので 迷います あほなさんは僕が長くそう思っていたことを書き アメンホテップさんは僕が最近そう思う事を書いていらっしゃいます ここは宗教家の人の立場を考えて 神仏も肯定の方に軍配を上げましょうか? 確かに釈迦は自分の責任で語り 自分の分かる範囲で語った 永遠よりも無常を語った 釈迦も素晴らしい どうも大変ありがとうございます
- koosaka
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前にも申し上げましたが、西欧のGODを、中国にいた宣教師・モリソンが、そのGODを「上帝」と訳すべきか、それとも「神」と訳すべきか迷い、「上帝」と訳すと、中国の皇帝の上に、さらに皇帝がいるように思われるので、それをやめて、「神」と訳すことに決めました。 でも、中国でいう「神」は西欧でいう「神」とは違っていました。 「神」という言葉は、人間離れをした項羽とか劉邦などの武将を意味し、また、道教でいう「神仙」に由来するものでした。「神仙」とは、仙人のこと。西方の蓬莱山に仙人が住んでいる、と考えられていました。 それを明治になって、キリシタン宣教師が日本に伝え、キリスト教の「GOD」を神と翻訳したのです。 でも、キリスト教の神はただ一人で、しかも人格神です。 それに対して日本の「神」は自然神です。 同じ「神」でも、まるで違います。 だから今では西欧の「神」と区別して「カミ」とカタカナ表記しています。 日本は多神教の国で、三輪神社の御神体は三輪山です。 静岡県の浅間神社の御神体は富士山です。 それとたいてい日本の神社には樹齢を重ねた大木がありますが、それには「しめ縄」が巻かれていますが、それは樹木が御神体と思われているからです。 また、伊勢市の二見が浦には、岩と岩の間に「しめ縄」が掛けられていますが、それは太陽が御神体と考えられているからです。 伊勢神宮の御神体は「天照大神」ですが、それも太陽が御神体、神様だと思われているからです。 このように日本のに神は自然神が多いです。 だから一概に「神」と言っても、日本の「カミ」は西欧の神とは違います。 あなたは神と言っていますが、キリスト教徒なんですか? でも、日本にキリスト教徒を含めて一神教を信じている人は、わずか150万人しかいません。 日本は基本的に仏教国です。 そして仏教の「仏」は西欧の「神」とも違い、神道の「カミ」とも違います。 それぞれ違うのに、それを一緒くたにして、みんな一つにしろというのは、あまりにも乱暴な話です。 それに、西欧では神が自然や人間を創ったのであって、逆ではありません。 あなたの言っていることを聞くと、人間が神を作っている、だから人間がいろいろある神を一つにまとめられる、と考えているようですが、それだと、神の上に人間がいて、その人間が神を道具のように使っているように聞こえますが、そうなんですか? 神は人間の「召し使い」なんですか? 自分に役に立つ神は、それを信じ、自分に役に立たない神は捨てる、信じない、そういうことですね? だとすると、ユダヤ教が神エホバを信仰したにもかかわらず、紀元前6世紀にバビロンの捕囚で50万人のユダヤ人がバビロンに連行され、奴隷のようにこき使われ、さらに紀元60年にローマ帝国への反乱で、ユダヤ王国が滅ぼされ、マサダ砦戦いで女子供3000人がローマの兵士に虐殺され、さらに第二次大戦中、ナチスのヒトラーによって600万人の同胞がガス室で殺されたなどがあったのにもかかわらず、ユダヤの人々が神エホバを見捨てなかったのはなぜなのか? 神というのは恐ろしい者なのです。 それを信じるものを虐殺したり、その住む土地から追放したりします。 でも、それこそが本当の宗教です。 戦後、日本に現れた新興宗教は、創価学会にしろ、立正佼成会にしろ、みんな「現世利益」を唱え、お祈りすれば「功徳」があると教えました。 これは神・仏を道具のように考えるもので、宗教としては邪道です。 神は人間の道具でもないし、人間の「召し使い」でもありません。 あなたは「古い家をリフォームして今あるものを壊してまったく新しいものに作り直した方がいいのではないか?」と質問していますが、それでは、神を道具として利用しようという考え、つまり神が人間を創ったのではなく、人間が神を作ったのだ、だから役に立たない神は作り直したほうがいい、と言っているのと同じではないですか? 神は人間が作る建物と同じなんですか? だから、新しくリフォームした方がいいという発想が出てくるわけですね? でも、神は人間が作る建物ではないし、リサイクルできるものでもありません。 そんな考えは恐れを知らない人間の考えることで、罰当たりです。 神はかつては人間や自然を創造した超越者です。 その超越者を、地上の人間が、道具のように、「召し使い」のように、こき使おうなんて、不遜です、増長です、ごう慢です。
お礼
喩えで書いただけです どうもありがとうございます。
- hekiyu
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人間が神と付き合って数千年、いや数万年か。 信者の数はともかく、神の力はどんどん弱く なっています。 この流れはもはや止められません。 だから、役に立たない神を殺して、新たな道を 模索すべきでしょう。
お礼
神の力はどんどん弱くなっている だから神を殺して新たな道を模索すべき 長い目で見ればそれは可能でしょうね。 成る程です どうもありがとうございます。
- kurinal
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yuniko99様、こんばんは。 >「神を残すか、無神論で神を忘れるか どっちがいいと思いますか世界としては?」 人権を、侵害しないでね。 (神を残すといって「自爆テロ」では困るし、 「神を忘れる」といって信教の自由を侵害されても困る) →「信教の自由には限界がある」というのが、(日本の判例でも)正しい。
お礼
人権を侵害しないように 信教の自由にも限界があることを考え 宗教や神は在ってもいい。神を信じている人もいて世界が調和できると 言う事でしょうか? どうもありがとうございます。
- kazamidori365
- ベストアンサー率14% (7/47)
いいかげん私を解放して欲しいのだけれど。 自分で考えよう。自分で考えなければ哲学などやる必要が無い。 汝の敵を愛せよ。 悪は存在しない。 敵対者(サタン)は存在しない。 だから無を愛する。 神は存在しない。 もっとも忌み嫌うこの結論を愛するのだ。 こうしてキリスト教は無神論となる。
お礼
クリスチャンの立場に立って 汝の敵を愛せよ 悪は存在しない、悪とは人の過ち? 敵も自分たちと同じ 敵対者がサタンではない。 無を愛する? 神は存在しない。 キリスト教が無神論になる 成る程。 ありがとうございます。
- yoichi001
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「悪い事をするとお天道様が見てる」「御神木」とか、自然というか人間の力を超越したものへの尊敬の念だったり、恐れだったりから、それらを崇めるような気持ち位が宗教としては丁度良いのかもしれないですね。 私は、人間が傲慢に成らない為にも「宗教」というものが存在するのには賛成です。でもそれが、偶像化かしたり、人間的な姿形になったり、ある特定の自分だけが神といわれる物とコンタクトをとれるなどの話がでてきたり、教義とかが出来たり、宗教としてのルールが出て来ると厄介な存在になるのかなって思います。 太陽神とかとはちょっと別物として、「太陽=神様」、朝起きて太陽の光に一日一回感謝する。それ位の宗教が良いと思う。
お礼
太陽の恵みを感じて太陽に感謝するのはいいですねえ。 神と話すというのは、想像ですが、風と話したり自然と話したり自分と話したりする延長じゃないかと思います。 宗教が人間の力を超えたものへの尊敬の念などの様に、崇める 太陽に一日一回感謝するくらいのものが良いと言う意見ですね 成る程 どうもありがとうございます。
- toothpast15w5
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あなたもか・・・ 全く・・此のサイトは 神が理解出来てない人達の集まりか? 神って 一体 どんな形で 何を考えてるのか知ってる人って 此処には居ないみたいですね・・
お礼
あの~ ちょっと伺いますが 神 様?は何を考えて、どんな形なのでしょか? 私の解釈で行くと 我々が神の一部であって 我々の考えてることを合わせて 神は考えてるのではと こう考える次第です。 どうかよろしくお願いします。
お礼
アメンホテップ先生 どうもありがとうございます。 知るという事は溺愛ではなく敬愛でなければ良くない ネジの話 お茶の話 幸福度の話 コミュニケーションの話 死生学の話 ロボットの話 等など どうもありがとうございます。 神仏はあった方が良いと言う事ですね。そうですねえ 神をも畏れぬ人殺しが止むことを知りません 我々はもうちょっと謙虚になって考えないといけませんね 父は「神も仏もあるものか」と言う人間で 私もそう思って育ちましたが よく考えると実際に人々の中で神や佛が生きずているわけで 神はあるのかもしれませんねえ どうも大変ありがとうございます。