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「目が覚めるような」「目の覚めるような」はどちらも
「目が覚めるような」「目の覚めるような」はどちらも目にすると思いますが、どのように使い分けたらいいでしょうか?
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- kzsIV
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「目」「覚める」「ような」3語の関係は同じで、文意もほぼ同じです。違っているのは構文です。 「目がさめるような」 「目が」は、連用節で、動詞(用言)の「覚める」に掛ります。 「覚める」の動作主体(主格)は「目」であり、「が」は主格標示の助詞として働きます。また「目」は主語となり、「覚める」が述語となって「目が覚める」は文となります。 この文の文末に「ような」を付けるわけですが、「ような」は「様(よう)」という名詞(体言)に断定・指定の助動詞「だ」の連体形「な」が付いたものとみなされますから、上からは体言として承け、下へは用言として働きます。そこで「ような」の上に「目が覚める」の文をつけるには、文末の「覚める」を連体節に(動詞なので連体形に)すればよいわけです。 「目の覚めるような」 「目の」は、連体節で、体言性を持つ「よう」に掛ります。「の」は体言について連体節をつくり、下の体言と密接につながります。 「覚める」はここでは「目の」と同列に連体節となり、「よう」にかかります。 目が覚めた人 目の覚めた人 目が覚めるとき 目の覚めるとき 目が覚めるような 目の覚めるような 目が覚めるみたいな 目の覚めるみたいな 目が覚めそうな 目の覚めそうな 目が覚めるそうな 目の覚めるそうな 目が覚めたら 目の覚めたら 目が覚めれば 目の覚めれば 目が覚めると 目の覚めると 目が覚めて 目の覚めて 目が覚めるのだ 目の覚めるのだ 目が覚めようとも 目の覚めようとも 四時には目が覚める 四時には目の覚める 「の」は下にしっかりとした体言が来ることがのぞましい。 「が」は平易であるが格調がやや劣るか。ただし、古典語や英語などの訳文に使うと文法の理解が得やすい。 ご質問に関連して昔から気になっていたことをならべてみました。
- 131tobi
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「ガ・ノ交替」「ガノ交替」などのキーワードでネット検索すると、専門的な論文がヒットします。 細かく見ると違いがある場合もありますが、この場合はほぼ同義です。したがって、「使い分け」はしようがありません。 こういう問題に関していろいろなコメントを見ますが、ほとんどが書き手の「単なる主観」のようです。 詳しくは下記をご参照ください。 【『が』と『の』の違い】 http://ameblo.jp/kuroracco/entry-12091342726.html 以下は一部の抜粋(重言)。 Yahoo!知恵袋でも何度も何度も同じ質問が出て、検索するすると笑ってしまうようなやり取りが多々あります。 なんとかならないんですかね。おすすめの回答などがあったら教えてください。 助詞の話なので検索がうまくできませんが、それぞれ何回も目にしています。 「博士{の/が}愛した数式」 個人的には下記のように考えています。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1491399304 ================引用開始 質問の例文の場合は「ガ」でも「ノ」でも意味はかわりません。どちらもOKです。 「私の、言った事を伝える」と読点を打つ必要はないはずです。もっと特殊な文脈なら、必要かもしれませんが。 「彼は、選挙のたびに名前(の・が)出る人」もどちらでもOKです。読点は不要でしょう。 一般に、先行コメントにあるように「直後に数詞が来る場合」と「間に入る語句が多い場合」は「ガ」が自然とされています。個人的には疑問もありますが……。 下記のベストアンサーの説明がわかりやすいと思います。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1074379985 個人的には下記のように考えています2。ポイントだけ抜粋します。 【助詞の話──「ノ」と「ガ」 Yahoo!知恵袋】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1862.html 1)単純な文だと「ノ」は使いにくい 2)前後の助詞によって使い分けるべき ================引用終了
- 783KAITOU
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「目が覚めるような」は、目を覚ましたときなどの、何時に目が覚めたとか、目覚めがいいとかのときに使います。身体の目が覚めることを意味するときに使う、と思います。 こちらの方の「目の覚めるような」は、内心が気づくとき、眠っていた無意識が覚醒されるときに使うように思います。前者は身体の行動を、後者は心に関するときの使い方だと思います。(性の目覚め、自我の目覚めとか)