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オシへを信じるなどと どうして考えるのか
キリスト教を信じるとか 仏教を信じるとか。 いったいどうなっているのか? オシへは 人間の言葉で書いた命題であり思想である。 倫理規範をもふくむゆえ オシへにするのは自由だが だからと言って《考える》べき人間の自己表現をどうして 無条件に丸飲みするのか? また そう信じなさいと他人に説くおろかさがまかり通っているのか? 信じる対象は 人間の思考を超えているに決まっているぢゃないか。 いったい人間は どこまでおろかなのか。
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- stmim
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> (い) もし伝えるとすれば それは 非思考の庭なる動態にあってそこで起きるヒラメキをとおしてである。 どうして「言語で伝えることはない」と決めつけられるのかが、わからないです。 予言者の心に人間の言語で伝えたかもしれない。その1回きりのことが起きなかったとどうして言えるのか? >(お) つまり ここですでにすべてを端折って結論づけるなら: 或るひとりの人の内面における心の問題としては 神とその我れとの交流は あらゆることが――想像として――考えられる。と同時に 神の心が人間の言葉でそのまま表現されたという事態は たとえあったとしても決して検証しうることではない。 検証ですって?これはおかしい。神は人間の言葉では意思を伝達しないという主張をされているのはbragelonneさんの方ですよね。でしたら立証責任はbragelonneさんの方にありますよね。神が言葉で伝達したという立証をする必要はない。神が人間の言葉で伝達しなかったということが立証された場合以外は、神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており、bragelonneの主張は成立しないことになります。
- stmim
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「神は自身の考えを人間の言葉で表現する能力に欠けている」かどうかについて吟味してみましょう。3つの可能性があると思います。 1)人間の言葉で表現する能力に欠けている、もしくは決して人間の言葉で神の考えを表現することはない場合 この場合、確かにbragelonneの主張は成立しますね。しかし、そのことを言い切れるのかどうか疑問に思います。 2)神が自身の考えを人間の言葉で表現可能な場合。 これはbragelonneさんの考えが否定される場合です。bragelonneさんはこれはないという考えですね。 3)どちらだか不明の場合。 bragelonneさんの考えはおそらくこれだと思います。この場合、人間の書いた教えは神の考えではないということは否定できません。どちらだかわからないので。もしかしたら、神が自分の考えを人間の言葉で表現して伝えたかもしれません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 誤解があります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1)人間の言葉で表現する能力に欠けている、もしくは決して人間の言葉で神の考えを表現することはない場合 この場合、確かにbragelonneの主張は成立しますね。しかし、そのことを言い切れるのかどうか疑問に思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの言うのは いづれか一方の内容に固まって規定されるということは 神については あり得ないということです。 《能力に欠けている》というのも ひとつの極への片寄りです。片寄りだけではなく それを言い切っている場合ですので それは神については当てはまりません。 神が《決して人間の言葉で神の考えを表現することはない》といった決めつけには 神はなじみません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2)神が自身の考えを人間の言葉で表現可能な場合。 これはbragelonneさんの考えが否定される場合です。bragelonneさんはこれはないという考えですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの言っているのは 《神もその考えを人間の言葉で表現しうる》というように一つの内容のみ規定し決めつけることは できない。それは 神にはなじまない。ということです。 ぎゃくに言うと (1)をも合わせてみるに 神はどういうことでも それが おかしなことでなくまた必要有益なことであるなら おこなうことが出来るし おこなうかも知れない。ただし 行なわないかも知れない。――と言っています。 つねに そういう全体観として言っています。 ひとつのことに規定し決めつけることは ないと言っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3)どちらだか不明の場合。 bragelonneさんの考えはおそらくこれだと思います。この場合、人間の書いた教えは神の考えではないということは否定できません。どちらだかわからないので。もしかしたら、神が自分の考えを人間の言葉で表現して伝えたかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 厄介ですね。基本的に言えば わたしの考えとは異なります。 部分観に固まらない。決めつけはしない。 全体観に立って あらゆることが神には可能であるとも言える。ただし そのことをそのまま規定することはないし そのように決められるというものではない。 別の観点から説明を広げれば: (あ) 神は その考えを人間の心に人間の言葉で伝えるか? (い) もし伝えるとすれば それは 非思考の庭なる動態にあってそこで起きるヒラメキをとおしてである。 (う) 言いかえると ヒラメキ(直観ないしインスピレーション)は 家族揃って同時に起きるとか国民がこぞって同時に与えられるといったことは考えられないので――ただし ペンテコストの日にそのような集団ヒラメキが起きたとも書かれていますが―― 基本的にひとりの人の主観内面の問題だと考えられます。 (え) つまり 主観の内では ひょっとしてその人間は 人間であるにもかかわらず 神とツーカーの間柄であるかも分かりません。というところまで 想像ですが 可能性は考えられます。 (お) つまり ここですでにすべてを端折って結論づけるなら: 或るひとりの人の内面における心の問題としては 神とその我れとの交流は あらゆることが――想像として――考えられる。と同時に 神の心が人間の言葉でそのまま表現されたという事態は たとえあったとしても決して検証しうることではない。 (か) だから オシへが 神の意志そのものであるという命題は そのまま人びとの生活共同の中で共通のものとして認められることはない。
- stmim
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>人間の言葉で表わされているかぎりそれは 人間の自己表現であるしかありません。 そうすると「神は自身の考えを人間の言葉で表現する能力に欠けている」という意味でしょうか? 神様ならそれぐらいたやすいことだと思うのですが、違いますか? >☆ まさか すとみむさんは その《憲法9条》の精神に丸め込まれたわけではないでしょうね? >すっかりいい心地になりますか? 何のことでしょうか?意味不明です。 私は憲法9条は時代にも、現実にも、あわなくなってきているので改正したほうがいいと思っています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いづれか一方に神を規定することができると考えるのは 神を知らないあたまです。 人間が規定できたら その規定する能力の枠内にしかその神は存在していないことになります。 人間が神をこしらえているというおかしなことにしか成りません。 憲法9条というのは いわゆるお花畑のことです。 人間が神をこしらえるといったその理性ないし理念を この上なきとうといものと考え そう思い込むといった傾向のことです。 神観についてもあてはまると考えます。 すとみむさんは 別だとしても。
- stmim
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宗教の教えは、神から聞いた言葉ということになっていると思いますが、それはありえませんか?キリスト教だったら預言者が神から聞いてそれを文字にした。あるいは神であるキリストの言動が聖書に書かれている。仏教ならシッダールタは大日如来の化身であるとか。書いたのは人間でしょうけど、その内容は神や仏?の言葉ということになっっているのですけど。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 宗教の教えは、神から聞いた言葉ということになっていると思いますが、それはありえませんか? ☆ もちろん そのとおりです。 すなわち 《神から聞いた言葉〔をその人が自分の言葉で表現した〕ということになっていると思います》。 人間の言葉で表わされているかぎりそれは 人間の自己表現であるしかありません。 次の場合も 何ら変わりありません。 ★ キリスト教だったら預言者が神から聞いてそれを文字にした。 ★ あるいは神であるキリストの言動が聖書に書かれている。 ☆ なるほどイエスという人間は キリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言ったしそう――神学で――想定されています。 そうして 文字になれば・言語表現されたなら それは人間の言葉ないし思考能力を介しているからには 相対的な経験思考としての命題であり思想であるとなります。 神キリストの心を仮りに表わしたものとなります。 思考の緑野でではなく《非思考の庭》にあって聞いた言葉は いくらかはキリストの声そのものに似ていると言えるかも知れない。という場合にも けっきょくいくらかは似ているが むしろその隔たりについてしっかりとわれわれは知らなければならない。 なにしろ 絶対と相対とであり 無限と有限とであるのですから。 ★ 仏教ならシッダールタは大日如来の化身であるとか。書いたのは人間でしょうけど、その内容は神や仏?の言葉ということになっっているのですけど。 ☆ まさか すとみむさんは その《憲法9条》の精神に丸め込まれたわけではないでしょうね? すっかりいい心地になりますか?
- 畑 茂夫(@Flareon)
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おそらく、 あんた、世話好きなんだろ。 生きる屍を面倒みている。 しょうがねーよな。 ケラケラしながら、私も結局そうしている。 悪を決め込んだ私は、怒ったりしないで絞め上げているがね。 たまには頭に血が上ることもあろうさ。 苦労がうかがえてほほえましいよ。
お礼
もしそうだとして その割りには 回答が来ない。 やっぱり感情に走っている。らしい。 ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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> いったい人間は どこまでおろかなのか。 いや、 人間扱いが不要なんだ。 我を歌い上げそれを人間の心だと主張したまえ。 そして私は人間であるが、貴方がたは人間以外だと明言しろ。 ケラケラ。 やめちゃいなよ。 人間なんて。
お礼
この質問は 怒って挙げたものです。 前後の見境なく。・・・でもないんだけれど。 ご回答をありがとうございます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ どうして「言語で伝えることはない」と決めつけられるのかが、わからないです。 ☆ 《言語》というだけでは はっきりしません。 神がその心を人間にヒラメキをとおして伝えるというとき 《神語》でなら いつでも・どこでもあり得ると 論理的には考えられます。 人間の言語に翻訳して人びとに伝え得るというかたちがあるかどうかは 何とも分からない。と捉えるわけです。 つまり もし伝え得たとしても そのことが神の心として その人間本人を超えて人びとに共同の思想となることは 神語としては当然のごとくありません。 共同主観を形成するのは あくまで人間の言葉に翻訳した神の心です。仮りの表現です。 《神語》としてなら つねに起こり得ると見ますが いかんせん神語とはどういう言語かから始まって 人間にはさっぱり分かりません。 ★ 予言者の心に人間の言語で伝えたかもしれない。その1回きりのことが起きなかったとどうして言えるのか? ☆ 本人の主観内面の問題であり そこにとどまります。 もっと細かく言うなら いま周りの人びとがその預言者の主観内で起こった神からの人間語による伝達が その本人だけでなく その通りだと見て共感したとしましょう。ところが これを検証するすべはありません。 ですから 神の心の言葉を預かったと言っても・そしてそれを人間の言葉に表わしたと言っても それはあくまで神の心の仮りの姿であり 実際は人間の自己表現である。となります。 ★ 検証ですって? これはおかしい。神は人間の言葉では意思を伝達しないという主張をされているのはbragelonneさんの方ですよね。 ☆ びみょうに違います。 ○ 神がその心を神語でではなく人間語で人間に伝えたとした場合 けっきょくその伝達内容が 人間語で表わされているからには 人間が考えて互いに自由に批判しあう対象であるとなる。 こう言っています。検証は 人間語の文章についておこないます。神語については もともと伝わっていないのですが 検証できません。 そして 人間語が神語の忠実な翻訳であるか? これについても 最終的な決定を誰もがみとめるというかたちでは 検証ができません。もう一方の側の神語が分からないのですから。 ★ でしたら立証責任はbragelonneさんの方にありますよね。神が言葉で伝達したという立証をする必要はない。神が人間の言葉で伝達しなかったということが立証された場合以外は、神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており、bragelonneの主張は成立しないことになります。 ☆ ですから 預言者や預言者でなくても任意の誰でもですが 神の言葉を聞いたということは あり得ますし 人びとに発表することも自由です。周りの人たちが 共感を寄せることも自由であり あり得ることです。 ですが その内容が神の言葉であるかどうかは 検証できませんし 証明できません。 ★ 神が人間の言葉で伝達したかもしれない可能性は残されており ☆ は そのとおりですが その通りだと言う意味は そこには だから神からの伝達内容が いづれ万人に明らかになるということは含まれていません。 主観内における神とわれとの関係が その人の固有の時においてさらにヨリ強く深まって行くことがあり得る。という意味です。