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明治維新とゴールドラッシュ
アメリカのカリフォルニアなどでゴールドラッシュが起こっていた時期(1848年頃)と、日本の北海道に松前藩が警備隊を配置した時期が一致するのですが、北海道にも海外から金を狙った移民が流れ込んできていたのでしょうか? アラスカまで来ていたという話は見かけました。
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多分幕末から数年の事と思います。 日本の銀と金の交換比率が極端に違い、 異人が銀で金を得て大儲けし、 日本が大損した記録有ります。 海外ではそれもゴールドラッシュと呼ばれたらしいです。 松前藩はロシア対策です。 アメリカより相当早くからロシアが日本来ていました。
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- 441moe
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「奢れる白人、、、」 「明治維新という過ち」 いずれかです。
お礼
もしかすると、日本では金より銀の方が価値があっただとか、そういう可能性すら考えてしまいました。アイヌが金の価値を知らなかったという可能性もありますね。
No.4.5です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます 同時に詳細な補足を頂戴しました。 補足に1857年以降の外国船の入港数を記入して頂きましたが、そのなかで軍艦が99隻と多いことに関して説明させて頂きます。 当時の欧米はバルカン半島の覇権をめぐったクリミア戦争が終結した直後です。 欧米諸国がロシアを叩くにはロシアの背後である太平洋岸を牽制するのが一つの戦略です。 ロシアを牽制するには北海道が最も好都合だということになります。 一方、アヘン戦争以降中国の植民地化が各国の手で進められていました。 欧米諸国の目から見れば中国に最も近いのがロシアです。 艦隊行動を考えれば日本列島は好都合な位置にあります。 欧米諸国にとって日本の港湾を自由に使える条約を結ぶのが最も得策です。 つまり日本に開国を迫るのは日本が目的であっただけではない、ということです。 軍艦の来航が多いのも日本目的だけではなかったということです。 ペリーも江戸湾に出没した時期に函館湾を詳細に測量して海図を作成しています。 ヨーロッパ諸国とロシアとの確執はナポレオン時代から今日までつづく根深いものです。 ロシアの背後をつくには北海道は絶好の位置です。 ロシアから見れば太平洋へ出る不凍港をもつ領域です。 参考 カムチャツカ地方 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/カムチャツカ地方 ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦 1853年~1856年クリミア戦争 1854年ロシアが東シベリア防衛のためにプチャーチンを派遣する 英仏の連合軍がカムチャッカ半島の都市ペトロパブフロスク・カムチャッキーを包囲する (ペテロパブフロクスは当時ロシアが保有する数少ない不凍港の一つで、ロシアの太平洋進出の拠点でした。) 1857年ロシアが沿海州を設置する。英仏両軍が広州を占領する 1858年ロシアが清からアムール川北岸と沿海州の権益を獲得する 蛇足 日本が幕末に植民地化されずに明治維新を順調に進めることができたのは、欧米がクリミア戦争に没頭していたのと、アメリカで南北戦争が勃発していたからだという考え方もあります。 つまり視点を変えてみれば北海道は明治新に深くかかわっていたということです。 榎本武揚が函館に立て籠もったのも武揚が当時の極東情勢を知っていた可能性を捨てきれません。(史料がありませんので、単なる憶測です) 薩摩が南だから北へ逃げたのだ、などという短絡した考えは薩長贔屓のものの見かたです。 北海道の歴史にはロシアは欠かせません。 ロシアの歴史はヨーロッパの歴史と深く関わっています。 つまり北海道史を考える際には常に世界史を頭に入れておく必要があります。 金鉱探しとは大分話がそれてしまいました。
お礼
金玉均と福沢諭吉も焦るくらい話が逸れてますね。 ( ̄▽ ̄;) それほど要の時期だったわけです。
No.4です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼の中に若干疑問点がありますので僭越ながら書かせて頂きます。 他の回答者さんへのお礼から推察してご質問になられたキッカケは、山川出版社「北海道の歴史」に、「金銀開発説」を口にする人が多いとの記述があった点と北海道に南米系の顔つきをした人がいた、という点かと思います。 巷間の都市伝説の真偽はさておいて、地質学が未発達な時代に地中深く埋もれている金鉱脈を見つける手法をどのようにお考えですか。 カルフォルニアのゴールドラッシュも目に見える川底の砂金です。 例え川底の砂金を探すにせよ、見ず知らずの土地で探すには相当の期間が必要になります。 その間の衣食住の確保が必要になります。 北海道の冬を南米などからキャンプ気分でやってきて過ごせるとお考えですか。 気候に不慣れな屯田兵がどれだけ苦労したのか御存知ありませんか。 >江戸初期から北海道のみならず、日本には多数の金銀探索船が来航していたそうです。 交易や布教を目的とした外国船は多数来日していますが、金銀探索船の史実は寡聞にして知りません。 オランダに対しては情報の提供を義務づけ1844年に最初のオランダ風説書が提出されています。 ポルトガルやイギリスとの激しい鍔迫り合いの結果得た独占交易権を手にした直後に勝手に金鉱探しなどをする状況だったとは思えません。 スペインの南米におけるインカの金の簒奪を秀吉や家康に告げたのはオランダです。 キリスト教の布教や領地の要求、簒奪などはしない、というのが交易独占の条件でした。 「オランダ東インド会社フリーズ」の件の詳細を教えて下さい。 >特に北海道に関しては噂で聞いていたほど金はないようだぞとわかってきて、 16世紀までであればいざ知らず18世紀以降に欧米に「噂があった」という論拠などのようなものでしょうか。 >他にまだ金島がそのあたりにあるのではないか?という夢が膨らんでいったという経緯もあるようですね。 下記サイトにもありますように当時の探検航海は海図の作成と航路の発見が目的です。 金鉱さがしにウロウロするようなことはしていません。 命がけの航海に出る目的が全く違います。 金鉱山などよりも、交易や植民地経営の方が遥かに莫大な富を生み出します。 自ら見つけた陸地の発見など目もくれずに黄金の島ジパングを探し回っていたのはコロブンブスです。 アメリカ大陸の名称が後の探検測量家アメリゴの名前が採用されコロブンスではなかったのはこの為です。 15世紀末のコロンブスの時代と17世紀以降の日本の江戸時代とでは欧米諸国の海外進出の価値観が異なります。 一攫千金を狙う山師は何時の時代どこの国にもいますので論外です。 南米系の顔付とはどのような顔付でしょうか。 日本人は元来顔付が多種多様なことで有名な民族です。 DNAも朝鮮半島の民族とは異なっています。 この中でも基本的には縄文系と弥生系とに分かれます。 縄文系は彫が深く、髭など体毛が濃いと言われています。 東日本とくに関東以北の地方の方に多く見受けられます。 西日本では九州地方に多く見受けられます。 アイヌ民族は縄文系の始祖に近いとされています。 これらを総合すれば、無理やり南米を持ち出すことはないのではありませんでしょうか。 仮に子孫が残っていたとするのであれば相当数の人が子供をつくるだけ長期逗留する必要があります。 大量の外国人が逗留していたという記録も又大量の人を送りだしたという記録もありません。 参考 ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー 抜粋 奥蝦夷の住民が、奥蝦夷、蝦夷(現在の北海道)とタタール沿岸(アジア大陸本土)の地図を書いて見せた。ラ・ペルーズは、樺太とアジア大陸の間の海峡(間宮海峡。タタール海峡とも呼ばれる)を調査するため海峡の手前まで北上したが、海峡の水深がきわめて浅いことを島民から聞きその通過を断念。進路を南へ変えて宗谷海峡(樺太と北海道の間の海峡。彼に因んで後にラ・ペルーズ海峡と名付けられた)を航海し、そこでアイヌ民族と出会い、千島列島を探検。最終的にはカムチャツカ半島のペトロパヴロフスクへ1787年9月7日に到着した。ここで彼らは休息をとり、ロシア人とカムチャツカ半島人らの歓待を楽しんだ。彼は、パリからの手紙を受け取り、イギリスが植民しているニュー・サウス・ウェールズの調査を命じられた。探検隊には駐クロンシュタットのフランス副領事ジャン・バルテルミ・ド・レセップス(スエズ運河開発者フェルディナン・ド・レセップスの叔父)が通訳として探検に加わっていたが、彼はこの地で下船し、1年がかりでシベリアとロシアを横断して探検の記録をフランスへ持ち帰った。結果として、彼はラ・ペルーズ探検隊唯一の生還者となった。 ウィリアム・ロバート・ブロートン - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・ロバート・ブロートン 抜粋 揚子江から樺太(サハリン)、北海道沿岸と千島列島の測量調査を行った。1796年(寛政8年)8月に内浦湾(噴火湾)に面する洞爺湖町虻田で日本初上陸を果たし、9月には室蘭に寄港して、船体の修理を行っている。冬を越すために12月マカオへ寄港する。 アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン 抜粋 彼はこの航海で「日本海」を通り、後に彼が作成した地図には「日本海」を "MER DU JAPON" と記したとされ、「日本海」を最初に命名した人物として日本の百科事典類には記されている。 中略 二隻からなる艦隊の目的は、清および日本との交易の確立、南米との交易拡大、カリフォルニアをロシアの植民地にするための事前調査であった 注:帰還後詳細な航海記録を発表していますが、蝦夷地の金鉱ど一言も触れていません。
補足
植民地経営、交易の方がよほど利益を産み出すという点はなるほどと思いました。 1857年に通商条約が結ばれてから1863年までの五年間に函館に入港した船のうち、特に商船はイギリスとアメリカが圧倒的に多く、その大部分が蝦夷地産物を中国に運ぶものだったそうです。 商船147隻、軍艦99隻、猟船(漁船?)60隻。 商船の国籍はイギリスとアメリカが各66隻、ロシア6隻、オランダ5隻、プロシア4隻、フランス1隻。 軍艦の国籍はロシア82隻、イギリス13隻、アメリカとフランスは各1隻、オランダ2隻。 漁船の国籍は、アメリカ56隻、ロシア4隻。 蝦夷産物の内訳は、昆布、ニシン、アワビなどの海産物。あとは幕末になると来航する外国汽船は石炭を必要としたため、炭鉱が開発されたとあります。また、鯨の油も産業革命の頃には機械を動かす燃料として使われていて、これも含まれていたよう。ちなみに鯨がとれるのはオホーツク海側です。 話は変わりますが、江戸時代初期にまず北海道に現れた外国船は、オランダ東インド会社フリーズの金銀島探検船だったという記述をここから、そのまま抜粋します。 フリーズは寛永20年(1643年)、襟裳岬から千島にいたり、択捉水道(北方四島)を北進して樺太東海岸北緯50度まで達した。 このとき、ウルップ島に上陸し、東インド会社の名と「1643」の年号を刻んだ十字架を残し、帰途は厚岸に寄港した。 フリーズは金銀島を発見できずに帰ったが、彼はウルップ島をアメリカ大陸の一部と考えていた。 この前後、イギリス、ロシア、スペインの船が近海に出没するが、彼らによって次第に北太平洋の地図が明らかにされていった。 抜粋はここまでです。 択捉水道のあたりは冬場というか1月頃になると流氷が到来しますので、来たのは夏場の事と思われます。
>時期が一致するのですが 歴史の偶然の一致です >北海道にも海外から金を狙った移民が流れ込んできていたのでしょうか? そのような史実は確認されていません。 自国領の蝦夷地で無断で外国人が金鉱探しをするをうかうか見過ごすほど江戸の幕府は迂闊ではありません。 松前氏は室町時代から続く名家で秀吉の時代にも独立した武将として知られていました。 江戸幕府発足後も交代与力として参勤交代を勤め1716年には大名に昇格しています。 江戸幕府自身も蝦夷地の調査を行っていました。 天明年間に書かれた蝦夷草子でロシアの南下状況が詳細に報告されています。 1799年(寛政元年)には函館、松前をの除いた蝦夷地全域を幕府の直轄領としています 同時に伊能忠敬による詳細な測量が行われています。 アイヌ民族任せにしていた訳ではありません。 (アメリカの独立が1776年です。アメリカがアラスカを手に入れたのは1867年つまり明治元年の前の年です。海外の金鉱探しどころの話ではありません。) 18世紀に入るとロシアは千島列島など東方への勢力拡大策を取り始めました。 それにともない、ロシア船が頻繁に日本(蝦夷地)近海に出没するようになり上陸を試みるものもあらわれました。 1778年(安永7年)にロシア商人が松前藩に交易を求めてきました。長崎へ向かうように回答しています 1792年(寛政4年)大黒屋光太夫を連れたロシア使節が来航しました。 19世紀に入るとロシアとの間で度々紛争が生じています。 1807年(文化4年)に「ロシア船打払令」を出しました。 1814年(文化11年)に幕府は函館、松前以外の蝦夷地の警備を津軽、南部の両藩に命じました。 カルフォルニアのゴールドラッシュよりも遥かに早い時代です。 北前船の事例でも分かりますように、蝦夷地は極めて身近な存在でした。 現在の関西料理の基本である昆布出汁やおせち料理の棒鱈など、蝦夷地なしでは発達のしようがありません。 大阪は木綿の一大産地でしたが蝦夷地産の身欠き鰊なしには成り立ちません。 蛇足 江戸時代に江戸幕府は鎖国をしていた訳ではありません。 キリスト教の布教を禁じて外国との交易を独占していただけです。 オランダと中国とのの交易を独占していて、他の国との交易を認めていなかっただけです。 漁民や商船乗りなどが漂流して、幸運にも帰国すれば、処罰などはしていません。 処罰していたのであれば大黒屋光太夫やジョン万次郎などという人物の功績が伝えられることもなかったでしょう。 海外に居住してキリスト教に改宗したような人間は厳しく取締りました。 漂流民がもたらす海外情報は幕府にとって貴重な情報でした。 江戸時代を通じて二百五十四件確認されています。 オランダ風説書とこの聞き取りによって江戸幕府は当時としては正確に国際情勢を把握していました。 ペリーの来航も事前に知っていました。 アヘン戦争の顛末も詳細に知っていました。 これ等の情報を独占して隠蔽していただけです。 吉田松陰や薩長の外様下級武士が知らなかっただけです。
お礼
たしかに江戸初期から北海道のみならず、日本には多数の金銀探索船が来航していたそうです。最初はオランダ東インド会社フリーズで、これは1643年の事。 またオランダのオルテリウスが1589年に描いた「太平洋新図」という地図には既に北海道が描かれていて、ラテン語で銀の島と書かれていたとのこと。しかしなぜか、このあとに北海道の姿がこのオルテリウスの地図から消えたという事もあるようです。 1787年のラ・ペルーズ(フランス)、1796年から翌年のブロートン(イギリス)、1804年のクルーゼンシュテルン(ロシア)。 こうした調査の結果、特に北海道に関しては噂で聞いていたほど金はないようだぞとわかってきて、他にまだ金島がそのあたりにあるのではないか?という夢が膨らんでいったという経緯もあるようですね。
補足
お礼コメントにつけた内容の補足です。 オルテリウスが1589年に描いた「太平洋新図」。この地図が北海道を世界で初めて書き込んだものとの事なのです。 確かに北海道が描かれており、ラテン語でisla de plataと書かれてます。 石見銀山をMinas de plata と記しているオランダの地図もあるそうで、plataというのは銀を意味しているようです。 ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4e/Ortelius_-_Maris_Pacifici_1589.jpg 1570年の彼の地図にはまだ北海道の姿が描かれていません。 ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e2/OrteliusWorldMap1570.jpg 1590年に彼が描いた日本地図。確かに北海道の姿が消えています。 ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/Orteliusstraat_Japan.jpg
- eroero4649
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#1です。 >このとき、北海道近海でもそうした欧米の船が通過することが増え、また漂着して金鉱探しを行うというような事も、おそらく出てきた。 >なので松前藩は慌てて、北海道内に警備隊を配置し、分割統治をする事になったという事なのかなと想像がつきます。 その話って、何か根拠はありますか。私は最上徳内という人が何をした人か程度の知識がありますが、ロシア人との交流はあっても、アメリカから来た人間が北海道で何かあったという話を聞いたことがありません。 それに、北海道で金鉱脈って、紋別郡あたりで出ることは出るみたいですが、採算が合うほど採れるという話を聞いたことがありません。「北海道から金が出る」ってのも、どこから仕入れてきた話でしょうか。 >実際、日本はフランシスコザビエルの頃から、金がたくさん採れる場所として知られていましたからね。 貴殿がいいたいのはマルコポーロのことでしょうか。そこらへんの基礎的なことも間違えていると、知ったかぶりを適当に書いていると受け止められてしまいますよ。まあザビエルよりマルコポーロのほうが古い人だから、「ザビエルの頃にはそうだと知られていた」といわれたらそれは否定できないけれど。 なお松前藩の歴史を書けば、一度領地を幕府によって召し上げられた松前藩は1821年に領地を戻されますが、そのときに北方警備の任を正式に命じられます。まずここで質問者さんの「ゴールドラッシュ説」は時期のつじつまが合わなくなります。カリフォルニアのゴールドラッシュは質問者さんが指摘するように1848年に砂金が見つかったことから始まったとされますから、カリフォルニアで砂金が見つかるより約30年前に幕府はそれを予見したことになります。
お礼
参照文献としては、山川出版社「北海道の歴史」の82ページに、そのような「金銀開発説」を口にする人が多いとの記述があります。
補足
1821年に蝦夷地が松前藩に還されましたが奥州六大藩(会津、秋田、庄内、津軽、仙台、南部、松前)に蝦夷地警備を命じたのは1859年の事のようです。 http://pucchi.net/hokkaido/closeup/goldrush.php ネットで調べると、これくらいしか出てきません。なので質問するに至りました。 そもそも個人的に、北海道に住んでいた頃、そういえば南米系の顔つきをしているのだけど、何世代も前からこの土地に住んでいると言っていた漁師の方が何人かいたことを思いだし、ゴールドラッシュの話とリンクしたというか気づくきっかけとなりました。
- darknes2000
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他にも答えがあるように鎖国してたので 海外に出て戻ってきても死刑。 海外の人間は出島でしか滞在できない。 日本人は海外に出ようとすれば 捕まって死刑、しかも身内も罰を受けます。 北海道もアイヌの土地ですから 海外の人間は開発できなかったかと。
お礼
北海道は米が栽培しにくい環境にあったため、蝦夷百万石という表現はできなかったらしいですね。そこで重要な産物となったのが、ニシンだったと知りました。 ニシンは漢字では鰊となりますが、他にも鯡という漢字もあり、魚にあらずという事で、北海道では米と同等の価値があったという説が残っています。 「魚にあらず」という言葉が、なんとなく浄土真宗の「僧にあらず、俗にあらず」という言葉ともかぶります。 北海道の中心にある都市が旭川市であることも、気になります。 ちなみに、あさひという言葉は、浄土真宗の親鸞聖人の奥さんの名前に由来するそうですね。 他にも北海道の産物としては、鷹の羽根や昆布がありました。 鷹というのはおそらく、オジロワシやオオワシの事で、この羽根が矢の羽根としても装飾品としても珍重された。
補足
ただし当時は、アイヌ民族はまだ日本国民とは考えられていませんでしたし、他にも北方少数民族や蝦夷なるものがいました。 北海道という土地もまた十分に調査が行き届いていない状態で、ようやく精密な地図が出来上がって喜んでいる程度でした。世界地図に最後に書き込まれた土地が、日本の北海道だと言われています。 しかし北海道が昔から金の採掘地として知られていたというわりには、ずいぶん採掘の歴史に関する資料が乏しいと感じます。炭鉱はよく知られていますが、金鉱の歴史についてはほとんど知られていませんね。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34517)
>北海道にも海外から金を狙った移民が流れ込んできていたのでしょうか? 江戸幕府はご存じのとおり鎖国をしていて、遭難して外国に流された船乗り(漂流民)さえ受け入れに慎重な態度でした(人道上断れないけれど、外国人と結婚したりキリスト教に入信していると帰国は不可能。相手政府の手先を疑われてもアウト)。 ですから、江戸幕府は外国からの移民を一切認めません。 なお、アラスカや千島列島に来ていた白人は、ロシア人でした。
お礼
ただし、北海道は流刑地として使われてきた経緯もあり、警備が手薄だったわけですね。ところがアメリカで発生したゴールドラッシュによりヨーロッパやロシア、アヘン戦争に敗退した中国、南米などからも一挙に北アメリカへ移民が流れて行った。 このとき、北海道近海でもそうした欧米の船が通過することが増え、また漂着して金鉱探しを行うというような事も、おそらく出てきた。 なので松前藩は慌てて、北海道内に警備隊を配置し、分割統治をする事になったという事なのかなと想像がつきます。 実際、日本はフランシスコザビエルの頃から、金がたくさん採れる場所として知られていましたからね。
お礼
1887年に北海道製麻株式会社(後の帝国製麻株式会社)というものも設立されていますね。明治時代にはぜんそくの治療品として「ぜんそくたばこ印度大麻草」名で販売されてもいたそうです。これもやはり、中国に運ばれていた物資の中には記載がありませんが、株式会社化された背景には需要が相当前からあったと思われます。 松前藩はとにかく秘密主義で北海道に和人が入ってくる事を厳しく規制していたという事なのですが、やはり海産物だとかで栄えたというよりか、何か別にあったのでは?と思えてなりません。
補足
その記録は物凄く気になります。 ( ̄▽ ̄;) 出典がわかれば、よろしくお願いします。