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物質や生物、人間や人工物を存在させているものは何?
人間が生きているといっても、自分だけで生きてる訳ではありません 自然の恵みの水や食料、酸素、日光その他。或いは親の躾や教育、学校で学んだ知識 自動車を運転する技術や色んな道具を使う技術、周りの人や先祖によっても生かされている 道路などのインフラとか世界との貿易とか、書けばキリがありません。 物質や生物に於いても同じようなことが言えると思います。 私は人工物についても同じ様な事が言えると思うのです。 それらを我々は何と言うのでしょうか?そのものを存在させているものを 生かしているものを何と言うのでしょうか?神の摂理でしょうか? よろしくお願いします。
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人間が自然の恵みや水や食料、酸素、日光その他に依存しているとしても、私はそれとは無関係に存在していると思っています。 なぜって、私という存在はそれらを超越していると思っているからです。 例えば「私」というものをいくら分解しても、水もなければ、酸素もない、いかなるものもないからです。 「私」というのはデカルトのいう「われ思う」という思考を主体とする存在だからです。 そして、思考というのは脳にはありません。 思考は脳の機能です。 なぜって、脳は神経繊維・ニューロンと化学物質・シナプスのネット・ワークで、ただの細胞のカタマリだからです。 そんな中に「私」なんて存在するでしょうか? あの灰色のブヨブヨとした気持ちの悪い肉のカタマリに。 いいかえると「私」というのはこの世界のどこにも存在しません。 どこにも存在しないのですから、いかなるものにも依存せず、世界を超越しています。 私はブッダのいうように「天上天下唯我独尊」です。 人間は両親から生まれたとされますが、「私」は両親から生まれたものではありません。 だいいち、私は自分を人間と同じだと思ったことは一度もありません。 人間は死ぬけれども、「私」は死んだりしないと思っています。 私たちは他人が死ぬのを見ると、自分もあのように死ぬのだろうな、と同一視しますが、他人の死と自分の死は違います。 他人の死は生物としての死、しかし自分の死は意識としての死です。 そして意識というのは基本的に私にしかありません。 他人にも意識があるかもしれませんが、私からは他人の意識は見えません。 見えるのは他人の仕草、言動、振る舞いであって、私たちはそうしたものの向こうに他人の意識や心があると思っていますが、それは自分の持っている意識や心を他人に「投げ入れて」いるだけであって、それは私の意識や心にほかなりません。 だとしたら、この世界に意識だとか、心を持っているのは私ひとりだと考えざるを得ません。 いわゆる「独我論」です。 私は自分が死ぬのを認識しえません。 なぜって、私が生きている限りはまだ死んでいないのだし、私が死んだら、それを振り返って自分が死んだのを確かめられないからです。 いい換えれば、死というのは私が見たり、体験できる事実ではありません。 他人は死ぬでしょうが、自分が死ぬかどうか、そんなことは分かりません。 私は他人が死ぬのをこれまでずいぶん見てきました、でも自分だけは例外で、自分は死なないと思っています。 それに死の瞬間なんてありません。 私は自分が生まれた場面をみずからの目で見たことはないし、体験したこともありません。 たぶん、私が死ぬとしたら、同じように私は自分が死ぬ瞬間を知りえないでしよう。 たぶん、あなたの質問の目的は自分を生かしている何か、霊魂だとか、神だとか、そういう目に見えないものがある、それによって生かされている、と言いたいのでしょうが、私は自分は自分によって生かされていると思っていますので、そのような目に見えないものがあると思っていません。 「唯我独尊」ということは自分の根拠は自分にある、ということです。 他にあるというのではなく。 また、目に見えない何ものかによって自分が支えられているとか、依存しているとか、生かされているというのではなく。 この世界に「私」と言える存在はただ一つであり、そしてこの「私」はいかなるものによっても支えられておらず、またいかなるものによっても生かされているのでなく、いかなるものに依存することなく、存在していると思っています。 「私」は世界を超越していると思っているからです。 その意味では、「私」は神に近い存在だと思っています。
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- 雪中庵(@psytex)
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>具体的に何かを勉強してそれを活かして何か、仕事なりライフワークなり趣味なりボランティアなり いや、ちがいます。 暇だ、虚無感があるとはいってないです。 家庭と仕事で精一杯でそこまでは無理です。 「薄情者」と怒鳴られても、 私は素直にそうですと答えるでしょう。 できないこと、やらないことを言ってる 「偽善者」が大嫌いなのです。 人には「公私」があって、 「公」を考えれば「私」が大きくなり、 「私」を考えれば「公」が大きくなってしまう。 うまくバランスをとるのはむずかしいのです。 どちらかが疎かになってしまう。 yunikoさんはどっちが「公」か 分かりませんが、世界を救おうは 「私」でしょうか?どちらでもいいのですが、 割合は人によると思います。 世界のことまで考えられるのは 羨ましくもありますね。 趣味はあったほうがいいです。 そして死ぬまで人はなにかを学ぶものです。 質問の回答ですが、生きていくのに なにか見つけなくてもいいのでは ないでしょうか。見つけないとどうなりますか? それとyunikoさん、体調はどうですか? 安定していますか? Twitterって勝手なことをつぶやいてますから、 「これから世界はどうなるんだ!」でも 「寝る」でも大丈夫です。
お礼
体調ですか 腹痛がこの9年悪くなり続け、ペインクリニックからも見放されましたねえ 何もしなければ悪化しないかもしれませんが 何もしない訳にも行かないですねえ。 何もしなかったら生きていけません。難しい文章を読むのも負担ですねえ。 質問の事ですが 生きているだけでも様々なものの力が必要です 衣食住だけでもお金がないと自分でやらなければなりません 自分に生きていく力がなければ生きてはいけません。 虚しすぎても苦しすぎても痛すぎても、生きて行くには大きなマイナスです Twitterで書いたらいいでしょうか?フォロアーが3,4人しかいませんが とほほ。私は生きていけるんですかねえ?どうもありがとうございます☆
私は人間に産まれ、成長し 学生から就職して社会人となり 結婚(しないまま)して 老いて死んでいくのが自分の「人」 としてあるべき姿なのかと 自問自答している、息がつまりそうです。 人として生まれたことに意味があるなら 、 それを私に教えてください!!
お礼
人間というものはただの生き物ではありません。 自問自答すると言うように、意識や精神があります。 これは使い様によっては非常に力を発揮します つまり意識、精神を活かして何か大切と思える事をやれれば充実出来る筈です。 人間は存在存続して愛し愛され、未来に何かを実現する為に生きているのです。 具体的に何かを勉強してそれを活かして何か、仕事なりライフワークなり趣味なりボランティアなりしてみては如何でしょうか? 私は自分の哲学を持って質問したり回答したりするのが生き甲斐ですけどねえ。 人間は存在するために生きていたのです。それだけで精一杯だったのです。 それが生存することが何とかなると更なるものを求めます。それが人間です。 今の自分に聞いてみて 一番やりたい事から、それに関係することを探していけば 生きてる意味が実現するのではないでしょうか。 私もまだ求道者ですので これくらいしか分かりませんが。 ただし人は死んだらその人にとっては何も無くなりますが、生きて成した事の影響は、因果律に乗って永遠の未来まで影響していくのです。 どうもありがとうございます。
- a_hona
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人は生まれによって生きる環境が異なる。 また、人は孤独ではないが、だからこそ、そこに独り歩むことの意義が生じる。 人は多く環境に支配される。人を生かすも殺すも環境次第という面もある。しかしながら、尊厳もって生きる人は、環境には支配されない。他の人の尊厳を守る人もまた、人としての生を全うする。 ただ生きるだけなら獣と同様である。 自由とは、環境や境遇に縛られない人としての貴い有様を言うのではないだろうか。 環境を存在させているものに宇宙の摂理などもあるだろうが、宇宙の摂理を解き明かしたところで、人はそこから自由になるわけではない。
お礼
環境もありますが、実際には人間が持ってるもの、体の力や人間の知識や技術 教育や躾で得たものもあると思います。 自分が持ってるものと、環境の持ってるものと、それが自分を存在させてるのでしょうけど そういう作用、力を何と言うのでしょうか? 自由である為にも色々な条件が必要ですねえ。 どうもありがとうございます。
- syouzirou
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大きな宇宙の小さな化学反応
お礼
化学反応はそうですが 物質の存在、生物の生存、人間としての存在等は それぞれ違うと思うのですが。 どうもありがとうございます。
何の為に生きているのかを考えれば解かる筈・・ 全てのものは「共生共存」してるでしょ・・・
お礼
では 何の為に生きているのですか? 共生共存していますが それらを生かしているものは何ですか? どうもありがとうございます。
お礼
先生は神に近い存在ですか。凄いですねえ。 私は、私が脳内の物質やエネルギーの性質で出来ている事を知っています。 従って脳が停止したら、私(人間、精神)求まることを知っています。 従って私が死んだら私は無くなり、私の成した言動などの影響が未来永劫に因果律に乗って作用して行くだろう事を知っています。 つまり他人も私と同じような性質で出来た意識であり、脳が死ねば止まって無になるのです。 よって他人も私も同じ様な存在です。考えてることが違うとか、性格が違うとか、それくらいの違いです。 性質で出来た精神こそが人間であり私であり先生であり他者なのです。 人間は70億人くらい居るそうです。ありふれています。 けして特別な存在ではありません。と思う アイシンクソウ 思う。 どうもありがとうございます。
補足
考えの違いがあまりに明白なので ベストアンサーとして参考にしてもらいたいと思います。 どうも大変ありがとうございます。