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諦めたらどうなる?諦めないと、どうなる?
絶望は愚か者の結論であると、昔ラジオ人生相談で言っていました。 諦めたら どうなるのでしょうか? 諦めなかったら どうにかなるでしょうか? 最近戦争の特集や70年談話を聞いて これじゃあ行けないと思うのですが。 じゃあ何とか成るのかと言うと 15年以上活動してきましたが 自信はないですねえ。 なんか鰻でも食えて、ビールでも飲めたら それでいいかこの夏は(両方無理(^^ゞ ) と言う様な弱音が出て来そうです。 どうなんでしょうねえ?我々が頑張れば少しは何とかなるのでしょうか? それとも我々は思考停止の葦になる運命なのでしょうか?? 貴方は何の為に どういう気持ちで哲学をやっていますか?
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回答をどうもありがとうございました。 でも、違うよ。 Bさんもあなたも同じ誤りの虜囚だと思う。 故に盲目で、哲学者足りえていないのだと 思います。 他者の思考が理解できない、ということにも、 理解できないから受け入れられない、ということにも、 あなたやB氏なりの、生きて来たこだわりの歴史があるの でしょう。 だから、いくら議論しても無駄なので話しません。 理解しようとしない者に、いくら話しても無駄だからです。 そして、それはそっくりそのまま、あなたの嘆きの 理由になっている。 せめてその程度のことは、理解して戴ければと思います。 あなたが、あなたの思考を否定する考え方を受け入れ られない限り、議論にもならないし、他人にあなたの 考えや価値観が受け入れられることもありません。 あなたが受け入れない様に、誰も受け入れないんです。 対話にならないから。 話し合って理解し合うと言うプロセス、自分以外の人間の 思考や価値観を取り入れることで、より豊かになる、という プロセスを認められずに、自分を他人に認めさせたい、と 個人的欲求を「真実」にすり替え続ける限り、それは あなたが他人にあなたを押し付けたいだけだし、それは 他人に対して、自分の考えや価値観よりもあなたのそれが 優れていることを認めて、自分を捨ててあなたを受け入れろと 言ってることに他ならないのです。 そこに、神だとか真理だとか、善だとかと、一見社会が 普遍的に従うべき価値観を、私はガイドしているだけだ、と かのB氏も固執して話していましたが、それが既にすり替え なんです。 社会に置ける価値観やものの見方は、無数の意見の趨勢が 動的に変化しながら暫定的に、その時代、その地域、その 現状に合わせて「とりあえず」決められるものです。 個人が恣意的に決められるものでは、ないのです。 (まあ、現実には声の大きい者が人の耳目を集め、 趨勢を決めることは多々ありますが。それは現実論 なので今回は省きます。) 社会が、無数の考えや視点、論理や価値観の中から、 取捨選択を行い、一つの「有為な見解」として 認められたものが、その時点のスタンダードして 公示するもの、そこで初めて人々がものごとを 判断する際の手掛かりの一つ、公器の一つとして 人々に扱われるのです。 世に認められて初めてオリジナル作品として 扱われる、ということです。 決して個人が決めるものではありません。 あなたの意見も一つの意見。 だが、それは全てあなたの個人的見解でしかありません。 それ故に、断じてあなたの見解は哲学などではない、と 私は思います。 思想としても未熟に過ぎる、というのが正直な感想です。 バカにしているのではなくて、余りに小さな個人的感想を 繰り返し連ねただけに見えるからです。 慧眼、と思える一行さえ無い、と思えるものを、どうして 自分の生きて来た中身を排して差し替えたりするものですか。 自分がどれだけちっぽけで、取るに足りない存在なのか。 それは肉体的な事だけでは無くて、その人生も思考も全て、です。 決して自虐的な卑下を強いているのではありません。 私も、そして誰もが、自分を等身大以上に巨大なものだという 錯覚を起こしてはならない、と申し上げているのです。 「自分こそが高次の理解を手にした尊厳者だ」と、 勘違いをしない様に、いつも自分が見えていなければ ならない、ということが言いたいのです。 もしあなたが哲学的な思考を純化させたいならば、です。 自分の個人的欲求や憤懣を、哲学と混同せぬ為に、です。 自分を見失うと、時にその視点は歪に歪み、他人を 巻込んで大きな事件や問題を引き起こすからです。 あなたや私は、真実というパズルのワンピース? いえいえ、砂浜の、一粒の砂に等しい。無いも同然。 その一粒の砂が、他の砂も皆同じ砂だ、だからいっしょくたに 扱って「大きな視点で」テツガクしなければならんのだ、と 言い募りながら、実はその眼は、眼前に広がる砂浜も、その 向こうに広がる海原も、映してはいないのです。 他人を「所詮人間はこういうものだ」と、勝手な決めつけで、 その人をあるがままに、静かに、そして豊かに、「観る」事さえ 放棄しているまなざしでは、その無数の者達の差異や、共通点、 その二つが織りなす無限とも言えるものの見方や捉え方の バリエーションに思いを馳せることも適わなくなるのです。 自分はどうしてテツガクしたいのか、という個人的な動機、 所詮、個人的欲求でしかない物、について、きちんと世界と 混同しない様に掘り下げ、弁えることがとても大切です。 あくまで、個人的な欲求充足が満たされずに鬱憤を言い募って いるだけなんだ、ということを曇りなくきちんと理解出来て 始めて、他者が見えてきます。 何が同じで、何が一人一人違うのか、について理解出来る、と いうことです。 他者を自分と同列で、それでいて全く異なる存在として、 きちんと理解出来て始めて、その集合である「社会」に ついて、極端に歪んだ像を結ばずに、意識の網膜に 捉えることが出来るのです。 そして、社会を大きく歪まずに観ることが叶って初めて、 時間軸も善悪も、価値も、ほどいてしまってから、その上の 高次の視点、意味なり、連なりを探る視点が自由に飛翔 出来るのです。 他人を理解することを拒絶して生きてきてしまった人は、 必然的に独善的であり、妄執的であり、故に孤独です。 真に孤独である人が、自らについて徹底的に深く掘り下げて 思索を巡らせるとき、そこには哲学も生まれるでしょう。 でも、中途半端に「真実を自分こそが理解している」という 歪なまま年老いて固まってしまった妄執は、何を掘り下げる ことも出来ず、さりとて他者と手を携えて社会に善行を施す こともせずに、鬱々と自分のプライドと闘うだけで生涯を 終えてしまうのです。 殆ど観客のいない、独り芝居の最中に、似たようなセリフを 堂々巡りで呟きつづけて、社会の誰に見とられることも無く 死んでいくのです。 無念を抱いて、です。 本当の哲学が、無念を抱いて死んだりしますか。 それはただの、個人的な望みに過ぎない。 しつこいほど繰り返してしまいましたが、何も あなたをシャクフクしたくて書いている訳では ありません。 言っても理解してくれないだろうあなたに対して 書いたわけでもないのです。 あなたのご質問を通してで恐縮ですが、同じように 個人的欲求を社会正義とか哲学とすり替えてしまい、 そのことに真摯に向かい合えない人々が数多くいます。 それらに共通の回答として載せさせて頂き、当分 これらがごっちゃになっている質問に対しては 回答を差し控えようと思ったのです。 色んな人が、解答欄も見ていることを知りましたから。 あれもこれもグチャグチャに混ざったままで いくら考えてもテツガクになどならない、と思う。 もっと純粋であって欲しいと願って、この巨大な Q&Aデータバンクに意見を書かせて頂きました。 あと20年もすれば、AIが自動的に膨大な これらのビッグデータを読込み、検索を超えた 自律思考の「思考要素」として再利用してくれる でしょう。 場所を貸して頂きどうもありがとう。 今回の回答は、私の単なる個人的目的があって 書きました。 私なりの内的な回答ルールがあって、一つのけじめを 付けたかったんです。 あなたの解答欄に書くことによって、です。 私は哲学者などではない。 でも、哲学的な思考は、純粋な好奇心によって 自由に飛翔するべきものだ、世を憂いて 現代のソクラテスを気取ることなどでは 断じてない、私はそう思います。 混同してはならない。 それではカオスのままだ。 美を愛でるように、純粋に形而上的な思考を遊び、 好奇心という羅針盤に指南されながら航海せよ。 現世の事は、現世の事として思考せよ。 自分が何者かを、常に問うことを忘れずに。 という、個人的見解でした。 どうもありがとうございました。 これにて、この意の質問に口を閉じることに 致します。 サンクス。 最後に一つ。 質問者さんではない、別の「権利者」に。 「これを削除するなら、私はあなたを嗤うだろう。 そして、ここを去るつもりです。潮時、と。」
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- kurinal
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こんばんは。 アフリカでも、内陸国は、運輸の問題があって、なかなか大変だとか。 その点、日本は海に囲まれて。 「サイアク、江戸時代に戻れば、やっていける」という表現もあります。
お礼
江戸時代に戻りたくても人口が多すぎますねえ お年寄りがどうなるかという事になりますから 残酷なことは出来ないのが クリナルさんでしょう? どうもありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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あきらめの生涯は、一生死んだままだ。 望みようが無いね。 あきらめない生涯は、死ぬことになる。 望みがある。 ただし死を理解する事を望むことだ。 こうして、無の悟りとは、死の悟りであったのだよ。 涅槃から君達にほほ笑みをたむけよう。 このように死にまい進するあきらめの悪さは、やがて生きる意味を知り、真理その物の、神が認めた自由の謳歌につながるパスポートだ。 君達はそれ以前、さらに問題外の手遅れ。 神が見捨てた君達は、君自身が自らをあきらめたら、どうすることもできなくなる。 こうした試練から自己を自覚したら、「私は私である」だ。 この言葉は、ガミガミジジイの特許だから、以降は彼に聞きたまえ。 懇願姿勢は、私達には不評だがね。
- trytobe
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子や孫の代への対策は、哲学のほかにもいろいろな観点から同時並行でできる、と思いながら愚かなりにも生き続けています。
お礼
そうですか お子様や お孫様が居ると気がかりでしょうねえ。 今から良くなるのか悪くなるのか 本当に分からない時に来ていますねえ。 此処で一踏ん張りすれば、何かできるのかもしれませんが 私は病気で思うに任せません。 お孫様の為にも申し訳に気持ちで一杯です。 どうもありがとうございます。
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お礼
なるほど。ラセンカイダンさんの気持ちはよくわかりました そうお思いになるのが普通だと思います。現実にそうです。皆そう思うようです。 私は何を書いたらいいでしょうか。大変失礼いたしました、勉強させていただきますと 謝る事しかできませんね。 全く残念ですが ラセンカイダンさんを納得させるほどの説得力はないと思います。 申し訳ありません。またのお越しをお待ちしていります どうも大変ありがとうございます。
補足
とほほ。これがベストアンサーとは・・・