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「日本の良心とも言える人たち」を英語で
英語表現に慣れておられる方、下記の日本文はどう英語で表現すればスマートでしょうか? 宮崎駿や瀬戸内寂聴のような日本の良心とも言える人たちが、安倍政治に真っ向から反対しています。 宮崎駿氏などは安倍首相の行為を「愚劣だ」とまで言っております。 以上宜しくお願い致します。
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.こんにちは。 丁寧な補正のコメントありがとうございます。 良心に基づいて行動する。 そういうイディオムがあるようですね。 ですから『良心に基づいて』は元々英語にあった表現が日本語に取り入れられたのではないでしょうか。 ● To do something on one's conscience : to feel guilty about something, as an act that one considers wrong: . ● in all conscience : 私の良心に誓って、、、 しかし英語は世界共通語として出来るだけ客観性のある表現になるように進化しているのではないでしょうか。 抽象的な表現をすると、より具体的な例を引いて説明をすることが求められた経験が何回もあります。 それは英語が共通のコミュニケーションツールだからだと思うのです。 私は何でも作業標準書にするのが趣味です。 親しくしている或る施設の管理者がカナダ人夫婦になったのですが、日本的な備品の管理、運営について細かく作業標準書にしてあげました。 ● 上手なおそばのゆで方 ● お餅搗きの5W1H 彼らは自分たちが見て覚えた感覚でやろうとする。 しかし万事が『おおらかな』カナダ人。 とても細やかな日本人の『お・も・て・な・し』には程遠いのです。 それこそお餅をつくための『臼(うす)』の転がし方、洗い方、保管場所。 日本人なら普段見ているからそつなく出来る。 これをカナダ人。 『エーッ、 ウーソー』 それがカナダ人。 一事が万事。 要するに感覚の違い。 やはり日本人は繊細で細やかな気配りが民族性の中に根付いています。 これは長所として自信を持って良いんです。 日本人の働ける場所が世界中には本当にたくさんあるのです。 しかもリーダーシップを取ることが期待されている。 そうなのです。 だから英語をしっかりと身につけて欲しい。 日本人は賢い。 出来るのです。
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- SPS700
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#1です。補足です。 もう一度僕の訳を見てみました。 Those who might be considered to represent the conscience of Japan, such as Hayao Miyazaki and Jakucho Setouchi, are squarely opposed to Abe's politics. となっていて「日本の良心とも言える」という原文の直訳にはなっておりません。すなわち「良心」=「~人たち」という原文を「良心を代表するとも言える」と言い換えています。 「良心が人だ」、と言う日本語の発想から、 conscience という抽象名詞を、represent「代表する」と原文に無い要素を挿入することによって「人たち」という具体名詞と英語式に噛み合わせたつもりです。 ですから訳者として最低限の調整はしたつもりです。まあ、あとは先にも申し上げたように、好みの問題だと思います。
お礼
再度の補足ありがとうございます。 やっぱりSPS700さんの説明は"学者的"ですね。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#1です。補足です。 >>(前略)私などと違って、その点は既に解決済みなんであろうと思うのですが、宜しかったらお答え願えませんか? これは、「良心」を conscience と直訳していいのか、という当面のご質問と、甲言語の表現を乙言語に持ち越すことに限界は?という二重のお尋ねですね。 1。the feeling that you know and should do what is right and should avoid doing what is wrong, and that makes you feel guilty when you have done something you know is wrong と手近なケンブリッジ辞典では conscience をこう定義しています。 したがって、この定義なら英語としては熟していなくても、外国語的な新鮮みのある表現として読者に理解できる範囲内、と判断したためです。このあたり好みの問題だと思います。 2。一般的に言って、著者が誰か読者が誰か、学術誌か週刊誌かなど、その場合場合で、判断をすべきものと思います。学術誌でも英文学と天文学では、違いがあるでしょう。 それが分からない場所では、読んだ人に分かってもらえたかな、という暗中模索感は否めないですね。訳者の冒険心、甲乙間の違いの大きさ、読者の頭の柔らかさなどが決め手です。
お礼
回答ありがとうございます。 SPS700さんの英語に対するアプローチは"英語学者"のようですね。
- IXTYS
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> そもそも、英語に「何々の良心とも言える人」という考え、表現があるのでしょうか? こんにちは。 #2の再入場です。 丁寧な補正コメントいただきありがとうございます。 私は長年運転マニュアル、作業標準書を作って来ました。 その時、一番痛感したのは『日本語って実に曖昧摸糊』とした言語である。 これでした。 いつも5W1Hを補完しながら日本語の文章を翻訳して行きました。 その結果辿りついた結論は特許明細書は実にこなれたスタイルでフォーマットとして完成されている。 その理由は、初めに要領よく特許請求の範囲を書く。 サマリー(要約)を冒頭に述べて、技術討論に入る。 このスタイルは使えると思いました。 またアメリカのホワイトハウスの補佐官たちは膨大な数の案件を処理する際、報告書のフォーマットは決まっており、(1) 案件名、 (2) その沿革、 (3) 結論、 (4) 各部署の行動指針(作業分担)を所定の用紙一枚に纏める。 フォーマットが定まっておればレポートって難しくはないのです。 優れたフォーマットを持っていることが有能な官吏の条件なのです。 さて、No1の方の英文は申し分ありません。 忠実な訳です。 『日本の良心を代表して』をどう訳しますか? 私だったら『grassroots opinion representing from contemporary Japanese society』(現代日本の市民の声なき声を代表して)、、、。 『泣く子と地頭には勝てない』『長いものには巻かれろ』 これが日本人とその社会の底辺にある基本的な考え方です。 ですから欧米のように自分の意見を率直に表明する習慣もまだ発展途上です。 そこらあたりをオピニオンリーダーたちが民衆の声なき声として代弁して下さる。 それはとても嬉しいことです。
補足
再度の回答ありがとうございます。 フォーマットの必要性、よく理解できます。 さて、conscienceですが、調べてみると、良心がない have no conscience、良心に反する go against one's conscience、良心に従い行動する act according to [in accordance with] one's conscience、アメリカの良心 American conscience 等々、ほぼ日本語の良心と同じ使い方がされていることが分かりました。 (alc(英辞郎)という辞典がスマートで実際に使われている表現だけを載せているのかどうかについては私には検証の能力がありませんが・・・) ということは、#1さんのthe conscience of Japan と言う表現も違和感なく、スムーズに英米人の頭と気持ちに入って行くということですね? 私は日本人と外国人の精神構造の違い、性格の違いについて興味を持って来ました。そして日本人の精神の底にあるのは、正に貴方の言われる『泣く子と地頭には勝てない』『長いものには巻かれろ』であると結論していたので、貴方から同じ言葉を聞いて「日本人のことを分かっている人がいるんだ」という思いで感動しました。 日本人は「和」とか「調和」の精神を持っているとしていますが、少なくとも現今の生活の場では、「強い者に合わせ、弱い者には合わせません」。弱い者の意見は無視、切り捨てるのが普通です。これは和の社会ではありません。「長いものに巻かれる」社会です。現今の日本社会で、どこに「和の精神」が生きているのでしょうか、知りたいですね。 何かコメントがあれば(特にconscienceに関して)、お願いします。
- IXTYS
- ベストアンサー率30% (965/3197)
こんにちは。 安保法案の衆議院強行採決には多くの知識人、著名人たちが異を唱えています。 これを契機に日本の民主主義がさらなる発展を遂げてくれることを期待しますね。 こう言う時、英語では 『opinion leaders from various fields representing from』と言った表現や『celebrities and intellectuals such as A,B,C, outstanding leaders in contemporary Japanese society』と言った表現が出て来ます。 『著名人、知識人』『celebrities and intellectuals』は良く使われる表現です。 『宗教界を代表して(本人はその気があってかどうか不明ですが)』Ms. Jakutyou Setouti, representing from various religious sections, Mr. Hayao Miyazaki, a worldly renowned animation movie producer and dignified environmental protectionistと言ったちょっとした紹介文を入れると瀬戸内さんや宮崎さんに箔がつくように思います。 要するに日本語でちょっとした表現の積りが、英語になると『白髪三千丈』になっているのです。(笑) みなさんの意見を参考にしてご自分で文章を作って見て下さい。
補足
回答ありがとうございます。 なるほど、英語には英語の表現があるのですね。 「日本人の良心」など果たして直訳して、外人に理解できるものかどうか、こういう時いつも悩むのです。 日本式の表現を、そのまま直訳して喋ってよく相手の外人に「?」といった顔をされます。例えば日本語でも一般的には言わない表現で「骨まで愛して」というのがありました。それで「Love me to my bones」と翻訳しましたら、「言いたいことは解る」とのことでした。 英文を沢山読んでいないので、英語でのスマートな表現が分かりません。 NO.1さんには失礼な質問になるかも知れませんが、NO.1さんの翻訳文は英米人が読んでどう感じるのでしょうか? 私が英文を作るとどうしてもNO.1さんのような直訳文になってしまいます(もっと下手ですが)。固い、ぎこちない、「?」などと感じるのでしょうか? そもそも、英語に「何々の良心とも言える人」という考え、表現があるのでしょうか? バイリンガルの人は、一旦英語のスウィッチが入ると、日本式の思考・表現は忘れて出て来ないそうですね。 宜しくお願いします。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
Those who might be considered to represent the conscience of Japan, such as Hayao Miyazaki and Jakucho Setouchi, are squarely opposed to Abe's politics. Mr. Miyazaki went so far as to call Prime Minister Abe's action as "moronic."
補足
いつも正確な回答有難うございます。 今回はSPS700さんの翻訳の基本姿勢について、お伺いしたいと思うのですが、宜しかったらお答え下さい。 インドもフィリピンも英語が公用語で多くの人々が英語を使いこなしています。英米にはない独特の表現もありますし、発音も自分たちの口や舌で可能な発音をしております。「th」の発音もわざわざ舌を前歯に挟んだりはせず「t」で間に合わせております。 例えば「あいつは隅に置けない」という日本語の表現を、英語で「We cannot put him at the corner.」と翻訳しても、英米人には何のことか分からないと思います。しかし、「骨まで愛して」を「Love me to my bones」は、英米にはない表現だが言わんとすることは分かるとのことでした。 そして、「アメリカの良心」は「American conscience」と直訳しても、同様の表現が英米にもあるようでした。 そこで考えるのですが、日本が将来英語が通用する国になるとして、日本語独特の表現法を日本人は使っていいのではないか? 今は「We cannot put him at the corner.」と言っても英米人は理解しないでしょうが、多くの日本人が使うようになれば、日本人がこのフレーズを使ったらこういう意味なんだと英米人も理解するようになって来ると思うのです。 今は日本人は懸命にアメリカ人の発音を真似ていますが、日本式の発音でいいのではないかと思うのです。実際にロンドンで会いましたよ。通訳されている方で、全くの日本式の発音で立派に通訳を果たされていました。 日本語の話し言葉には抑揚が殆んどありませんが、英語は抑揚があります。 民族に合った話し方をするとなると、抑揚の無い英語を喋り、日本式の発音で、日本語の表現法を使う。インド人やフィリピン人が英米人を真似ることなくそうしているのだから、日本人もそうした方がラクだと思うし、自然だと思うのですがどうでしょう? SPS700さんが翻訳される場合、忠実な訳を心がけておられるようですが、余りに忠実すぎてこれでは英米人が意味を取れないだろう、などという場面には出くわさないのでしょうか? 日本語独特の表現法と英語独特の表現法の違いがありますが、その2つの兼ね合いをどの辺りに持って行かれているのでしょうか? 英語に堪能なSPS700さんですから、私などと違って、その点は既に解決済みなんであろうと思うのですが、宜しかったらお答え願えませんか?
お礼
回答ありがとうございます。 ”英語は世界共通語として出来るだけ客観性のある表現になるように進化” 日本文学者のドナルド・キーンさんが、「日本語には英語にはない美しい表現がある」と言ってましたが、私がその言葉に影響を受けたのでしょうか、日本語の表現を英語にして外人にも理解してもらうというのはどうか、と思っているのです。 英語を単なるコミュニケーションのツールと考えたら、これは進化とは逆方向ですが、言語を文化文明と捉えたら、敢えて客観性を追及せず日本文化の再発見に資すると考えられると思います。