八丁堀というのは長さが凡そ八丁(約800m)ある掘りという意味です。
掘りの巾を呼ぶ場合もありました。
現在も錦糸町の駅の東側に横十間川というのが残っています。
東京の場合は、現在の京橋の上に首都高がありますのが、この下は掘割でした。
以前の東京オリンピックの際に埋め立てられて上に高速道路が敷設されました。
外堀通りも文字通り元は江戸城の外堀でした。
この外堀と亀島川を結ぶ掘割の長さが凡そ八丁ほどありました。
地名として残されたのは首都高京橋ランプと亀島川の間の北側一帯です。
元々埋め立て地でしたので八丁堀に面した埋め立て地という意味あいがありました。
地名としては掘り沿いに本八丁堀一丁目から五丁目まででした。
広島の場合は、広島城の南部に太田川に繋がる外堀がありました。
この掘りに直角に現在の八丁堀交差点付近から北へ北上する外堀がありこれが八丁堀と呼ばれていました。
この掘りの北端に八丁堀上御門とよばれる城門がありました。
この外堀部分に相当する道路が現在広電が走っている道路です。
蛇足
江戸時代には大名領にせよ幕府領にせよ町政は町人の自治組織に委ねられていました。
この自治組織の長を把握することで、間接的に統治していました。
町人は同業者同士が組合のような組織を持っていいました(株仲間)
株仲間の統制上纏まって暮らしていて、その街は業種名がつけられていました。
東京、広島だけではなくかつて城下町であった市町村にはこの時代の町名が現在も沢山残されています。
呉服町、大工町などは全国にあります。
八丁堀もたまたま外堀の名称として使われていたのが、江戸と広島で共通していたということです。
武家も役職毎に纏まって住んでいました。
現在の公務員団地のようなものです。
御徒町は歩兵部隊の官舎が集まっていたことに由来します。
八丁掘沿いの埋め立て地には江戸町奉行所の役人が住んでいました。
この役人を隠語として八丁堀と呼んでいました。
(下級役人という意味あいがある蔑称でした)
町奉行所と言いますのは現在の都庁のような役割が主体で取締り官は約40名前後と極少数でした。
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