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日本史ですが、

日本史ですが、 (1)恭仁京は橘諸兄が指示しましたよね。どうして藤原広嗣の乱の後に遷都しようと考ええたのでしょうか? (2)744年の難波宮・紫香楽宮と745年の平城京遷都はそれぞれ誰が遷都を指示したのですか?

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  • moha91
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回答No.1

(1)恭仁京への遷都は、広嗣を極度に恐れたといわれる聖武天皇がと関東行幸と称して伊勢へ出向いた後に伊賀、美濃、近江と放浪した後に行われています。裏付ける文書などは残されていないようですが、平城京に戻ることを嫌った聖武天皇が右腕と呼べる存在だった諸兄に腰を落ち着ける場所の造営を頼んだ、と考えるのが妥当ではないかと思います。 (2)難波宮、紫香楽宮も、恭仁京と同じように聖武天皇の放浪の途上にあったものであることは承知されていると思います。すでに広嗣の乱は鎮圧されていますが、何か政治的な影響、もしくは自己の宗教的信仰のもとで度々遷都なり行幸を行ったものと思われます。 難波宮への遷都は元正上皇との確執、紫香楽宮への遷都は廬舎那仏造営を企図したもの、との有力な説がありますが、証拠となるものは残っていません。 なお難波宮造営は藤原宇合が、紫香楽宮の造営者が誰かは分かりません(なお紫香楽宮には「京」と言える遺構は発見されていません)。 (1)(2)いずれの遷都も聖武天皇自身の意向によるものと考えられます。

orasrnb
質問者

お礼

大変わかりやすいご回答ありがとうございました。

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