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自分を愛せない人は他人も愛せない?
- 自分を愛せない人が、他人を愛せる筈がないと言われ始めました。これは本当でしょうか?自分を責めすぎて自殺してしまう人もいますが、自分を責め過ぎて自分が嫌いになった人に救いの手を伸べる様なこの言葉。
- キリスト教的には自分を愛するように、他人も愛しなさいとあります。しかし最も強い愛の一つである母性愛は、自分は犠牲になっても子供たちを守りたいという特例です。愛って何なのでしょうか?
- 自分を愛せない人は他人を愛する資格がないのでしょうか?
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最近、しゃしゃり出ることが多かったので、今回は「傍観者」を決め込んでいたのですが、閲覧させていただいているうちに、以前yuniko99様への回答の中で、「自分を愛せない者に、他人を愛することができるでしょうか」と書いたことがあったのを思い出しましたので、一枚加えさせていただきます。 >自分を愛せない人は 他人を愛する資格がないのでしょうか? ⇒「資格がない」とは申しませんが、「自分を愛さない者は他人を愛せない」、ということは言えると思います。 「愛」は、誰を愛するかの違いから「自己愛」と「没我愛」とに分けられます。さらに、どういう種類の愛かによって「精神愛」と「情愛」に大別されますが、ここでは、紙幅の関係でもっぱら前二者について考えます。 自己愛は、もっぱら自分の価値を高めたいという欲望から発するものであり、没我愛は逆に対象の価値高揚を志すものと言えます。「自己愛は持っているが、没我愛はない」ということはあり得ますけれども、「自己愛がないのに、没我愛だけがある」というような状況は考えられません。自己の中にある種の「基地」があってはじめて相手の中に相応するものを想定できるのですから。 同じように、自分のうちの何か(例えば、幸福)を大事にする気持ちがなければ、他人が同じものを大事にしたい気持ちも分かりませんよね。なぜなら、他人の気持ちを理解できるのは、その人を「もう一人の自分」と見ることによってはじめて適うことなのですから。 また、「自己犠牲」というものは、相手への愛だけがあって自分への愛はゼロのように見えますが、実はそうではないと思います。それは、自己愛と没我愛との価値や重さを計り比べて、相手への愛の価値の方が上だと認識したことから来るわけで、自己愛がないことによるわけでは決してありません。「そういう高度なことを勘案し、斟酌できる精神愛的な能力」は、自己の内奥に全うな自己愛があったればこその賜物と言えるでしょう。 つまり、そういう尊い自己犠牲は、強い自己愛に裏打ちされていてはじめて実践され得る行為だと言えるに違いありません。「己の愛する者のために己の全部を捧げることは、実は、最も強く自己を主張し肯定しているのである。恋人のうちに自己を発見し、自己のうちに恋人を見出したのだ。この自己と非我のぴったり一致するところに、同心一体という人格結合の意義がある。それは即ち一方から言えば、自我の拡大であり解放である」(厨川白村『近代の恋愛観』)。 以上より、「自分を愛すること」と「他人を愛すること」とは密接不可分の関係性にあり、そのベクトルは前者から後者へ向かうものであって、その逆ではない、と申しあげる次第です。 なお、上の引用文の最後に、厨川氏は、「この境地に到ってはじめて、真の自由は得られる」と結んでいます。
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- Nakay702
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「お礼コメント」をありがとうございました。 共感するところが多く「同類相寄りたい」気持です。お互い元気出しましょう。 >もしかしたら自分が考えたことが世の中に役に立つかも知れないと思う一心から生きてる訳ですが。それがないなら死んでしまいたいと思っています。 ⇒そのお気持ちは純真で尊いと思います。ただ、結果は今すぐ出るとは限りませんよね。むしろ遅れるのが普通ではないでしょうか。それはともかく、「そういう考え方それ自体がすでに社会貢献している」と私は考えます。 >私の様な無為徒食の役立たずが生きてる資格はないと思っています。 ⇒川端康成の世界ですね。でも、そんなことは決してないと思います。さすがに「無為徒食の役立たず」はご謙遜でしょう。仮にいかな無為徒食であっても、「生きてる資格」がないはずはありません! 悩むこと自体がそれを語っている。むしろ、「悩まなくなった場合」こそ問題だと思いますよ。ゲーテも言っています。「もはや愛しもせず迷いもせぬ者は、埋葬してもらうがいい」、と。 >「ああ ひもじいだろう これをおたべ」と言って子供を育ててきたのが母親と言うものではないでしょうか? ⇒美しく尊いですね! 私などもそのおかげで何とか生きてこられたように思います。ルソーは『告白』で、「私は、あまりにも真剣に恋をするので、容易に幸福になれない。好きな人のためなら、自分の幸福は千度でも捨てる気だ」、と語っていますが、とても真似できません! >自分を殺してしまったら何の役にも立ちません。まあ役には立ってませんが実際。⇒ご自分が知らないだけで、何かしらyuniko99様から学んでいる人が周囲におられるに違いありません。「幸福表情は循環する」そうです、「喜び上手」になり、「いつもニコニコ」、心から感謝を、「目いっぱいの」感謝を表情に出そうじゃありませんか。きっと、自分も周囲も、少しずつ上昇のスパイラルに乗ること間違いありません! >わしもみんなの役に立ちたいんじゃよ ゴホゴホ… ⇒私も半病人ですが、同じように「みんなの役に立ちた~い」と思っています。しかし、よく考えてみると、この心的態度が拠って出てくるところ、それこそ「強い自己愛」のある証拠ではないでしょうか? そして、それはそれでいいのだと思います。聖書の金言、「与うるは受くるよりも幸いなり」を心の支えにしましょうか。 ただ、ゲーテ先生あたりに見習って、見返りの類は一切期待しないことにしましょう! 「彼(ゲーテ)の恋は、自分が愛するからといって、相手からの報いを求めようとはしないものであった。つまり、まったく相手本位の無私の愛であるがゆえに、愛される者には、愛してくれる人が誰であろうと、その愛がどんなに深かろうと、全然問題になるべきものではないというのである。確かに、自分自身のために愛するのであれば、その愛の過程においては、愛する者と愛される相手との間には何の関係もない。…相手との間に見事な同心一体が実現することもあるかもしれないが、それはあくまでも自ずから成る結果であって、愛する者の(目論んだ)目的ではないのだ。」(志村武『哲人とエロス』) 以上、再伸まで。
Yuniko99 さん、ご説明をありがとうございました。 「自分を責めて、嫌いになってはいけない。自分を愛せない人が、他人を愛せる筈がない」それは、 その時代の若者が活動し、それの無力さを感じた心が嘆いたときに、愛の原点に戻ろうとして使われた言葉だったわけですね。よくわかりました。大勢の人が救われたと思います。 しかし、私がやっている、心の行動科学の場合は、精神は愛で出来ていることになっていますので、意識しなくても、もともと自分を愛していることになっているのです。そして愛の容態は変化すると考えますので、自分を愛せない人の容態を、脳と身体の変化として扱わなければならないのです。たとえば、意識はあるけど精神が働いていない症候群とか、目的のために価値を固定している症候群ですね。 いちおう私なりにまとめますけど、私がボランティア活動で得た経験では、愛が活発に感じられた人ほど、愛については意識していないし、とりたてて語らない。というのがあるんですよ。ただ、その人の周りにいる多くの人々から、「自分たちは大事にされている気がする」という言葉は聞きましたけどね。もしかしたら、愛という言葉は、定義してはいけない事なのかもしれない。たとえるならば、根源的な何かとして、お互いに無言でも関係し合えたら、それで良いのではないかとも思っています。
お礼
キリスト教でも「右の手のしてる事を左の手に知らせるな」という言葉が有り 私もその様に自分を形成した成長期でした 良い事をしてる時、愛してる時もそれを意識しない まるで息をするように行う と言う風なことが書いてありました つまり自分を愛してるとか他人を愛してるとかいう必要もない ただただ考えもせずに愛があればいいという事でしょうねえ 精神は愛で出来てるんですか これは初めて聞きました 行動科学 どうか研究を頑張って下さい またよろしく これはどうも大変ありがとうございます。
- amenhotep2000
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youniko99さん おはようございます。 現在ブームの朝活中。しかし、疲れて猛烈に眠い。 ちょっと「愛」について興味深い考察があるのでyou tube 動画を添付します。議論が発展するかもしれません。 https://www.youtube.com/watch?v=N1vMJVoveKM 北斗の拳は私が高校生の頃、夢中になって読んだ少年ジャンプに掲載され読んだ漫画です。 北斗神拳ケンシロウと南斗鳳凰拳の南斗の帝王サウザーに関する戦いの、この動画の最後の言葉に「愛」について考えさせられます。 先のkurinalさんへの回答に、漫画文化の負の側面を書きましたが、このような漫画を通して考えらせられる、正の側面も漫画にはあります。 ちょっとご質問からははずれますが、このような漫画を単行本になって買うと載ってませんが、雑誌で買うと、真偽は、眉唾ですが、漫画の横のに豆知識が載っている雑誌があります。 私はそこから、ルイ13世の宰相だったリシュリューが世界で初めてマヨネーズを発明したことを知りました。 リシュリューは文学のアレクサンドロ・デュマの「三銃士」では悪役として書かれてますが、このような世界に貢献した側面も持ちます。 人間とは?を哲学すると、確かに家庭を築き子供を産んで、その家庭愛の中で生物的に遺伝子を伝え子孫に残すという側面は、ありますが、人間は他の動物と違って脳が発達し理性を持っています。 子供という生物的な「遺伝子」による子孫への伝達における家庭愛だけでなく、知識や知恵をという愛の「遺伝子」の伝達方法の方法も、後世の子孫に対する、れっきとした、愛ではないかと考えてます。 ということで、このサイトの独創的考えを思考し、本という遺伝子を伝えようとするyouniko99さんやbragelonneさんやpsytexさんを私は応援してます。 バッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュード(BWV1007)は有名ですが、バッハは1750年に亡くなりましたが、スペインのパブロ・カザロスにより古本屋でバッハの楽譜を発見されたのは19世紀末で、その間250年くらい、陽の目をみることはありませんでした。 youniko99さんも250年後の子孫が古本屋で見つけ、やっと理解できるような「愛」の哲学作りに励んでください。
お礼
私はばか者なんで 能力が足りません。愛の哲学まで完成する力量はありません。 存在に関する考察をしただけです。 しかし愛に関してはカウンセラーやヒーラーの方々の言葉は目を見張るものがあります。 天気が変わっても 太陽を信じられたら 心穏やかに生きていけます。 等という言葉が沢山並んでいました。 愛と言うものは互を活かす力になるものだと思っています。 愛情は量が決まっている訳ではありません。愛を泉のように湧かす人もいれば 愛をゴミのように使い捨ててしまう人もいます 勿体無いなあと思います。 誤解を恐れずに書くなら 変な新興宗教でも、信者さんの愛は本物だったりします 愛も深き人 清き人 広き人 強き人等長けた人もいますねえ。 私など愛に関しては全くダメです。屁理屈ばかりで(^^ゞ 悲しみや苦しみを呼ぶと言っても 愛がなければ子が育ちません。 男女の愛も 親子の愛も 友の愛(友愛フィーリア)も恋も、人を活かし 子孫を繁栄させる為に在るのでしょう。 深く長ーく愛しましょう^^ 250年後に存在せ思想が見出されることを願います。 どうも大変ありがとうございます。^^
- a_hona
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自分自身を大切に出来ないのは、その人が、今まで受けてきた思いやりなどの事を軽視しているか、或いは気がついていないからです。そうでなければ、自分を大切にしないなどという事はあり得ない事です。 今まで大切にされた経験があるから、それに報いるのに自分を大切にし、しかも他人を大切にするという事がどういうことかが分かるのです。
お礼
成る程 確かに。私もそうかもしれませんねえ。望みを焦るために他人の好意や思いやりを 無にして来たかもしれません。 嗚呼 こんな私でも・・・と思って生きて来ましたが 何も出来ませんでした とほほ。。 どうも大変ありがとうございます。
- kurinal
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yuniko99様、こんばんは。 「本当にケガをした人間にのみ、ケガの痛みが、(本当に)判る」 (・・・といえ、「他人の痛みを、どう捉えるか」までは。。。)
お礼
強ければそれでいいんだ、力さえあればいいんだ、ひねくれて星を睨んだ僕なのさ♪ ああ だけど そんな僕でも、あの子らは慕ってくれる それだから皆の幸せ祈るのさ♪ タイガーマスクのエンディングです。愛を知らなかったタイガーが人を愛するまでになる ヒューマンアニメですえね。 人間生きてれば苦しい事もあります それをズルして逃げないで苦しみ抜いて 人の遺体もわかる人間になりたいものです。人はすぐ忘れてしまいます。 60年安保、70年安保も 何処かへ行ってしまいました。 犠牲者の無念が分かるか 否か? どうも大変ありがとうございます。
>自分を愛せない人が、他人を愛せる筈がない 私はそんな抽象的な言葉が、世間を混乱に陥れる諸悪の根源だと思うのですよ。 だから説明のない格言や、背景の無い格言は、誤解を与えるので残さないほうが良いのです。 もし私が言葉を残すとしたら、 「己の足るところを知り、人の努力を邪魔しようとは思わないならば、それは愛である。」 この言葉の背景には、私が本人たち(昭和20年までに結婚した女性たち)から話を聞いた事実があります。 当時の女性は、好きでもない人と結婚させられたケースが多かった。それでも離婚しなかったのは、足るを知ったからだ。
お礼
僕は質問の言葉は 一つの諦めだと思っています。 皆が何とかしようと思っていました。学生運動でもダメ フォークソングでもダメ なんとかならないものかと 自分を責めていたような時代でした そして何もできなかった。その時に 自分を責めてはいけない 自分を愛せない人が 他人を愛せるはずがない と言う もう自分を責めるのは止めようという言葉だったと思います。 電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのも みんな私が悪いんです。 という笑い話も残っています。昔は偽善とされて来た事が今では立派なボランティアです。 ニヒリズム 偽悪 文芸 夢や希望が語られた時代でした。 足るところを知るですか。それは必要でしょうね、これからはもっと。 三従の教え、忍耐、女がおって何をしよるか 朝から晩まで働き詰めの時代でした。 私は愛とは活かすこと、活かし合うこと と考えています。 雨ニモマケズ 身近な人のために 無関心にならずに けして戦わない。 どうも大変ありがとうございます。
愛という事ですから 愛の種類は置くとして 自分を大切にできるか という事だと思うのです。 私はあまり自分を大切にしないので 質問のような言葉が気にかかるのです。 自分を大切にすることは どういうことだと思って質問していますか? わからないから質問してますか? ネットで分かり会えるのですか。 無理でしょう。意見を聞くことはできても。 自分を大切にする人は他人も大切にできる。 自分を大切にしない人は 他人も大切にできない。 自分を大切にするのと、自分が可愛いくて 仕方ないような自己愛は全然ちがいますよ。 と読み替えて頂ければありがたいのですが。 他人がぜんぶを、特にインターネットの 世界でどうやって理解し合えるのですか? 目の前にいる人たちともむずかしいことです。 愛という言葉を軽々に使ったことはそぐわなかったかもしれませんが これは仕方ない。抽象的なことだからです。 質問文より回答文から知識を得てますよね。 そして回答者にたいし、議論的なお礼文、 それなら~は??みたいな揚げ足取りをするの だけはやめたほうがいいと思います。 愛とは?世界平和とは?と いわれても説得力に欠けます。 回答者は皆さん真摯です。 どうしてあんなお礼できるのか。 自分を大切にするといった質問も 性質によります。いくらこうだと いっても解らない人は解らない。
お礼
僕のお礼が乱れてしまって 申し訳ありませんでした 戦争の事等になると、ついヒートアップして それとか回答によっては 色々と引っ掛かる事があって ついあの様なお礼文になってしまいました 申し訳様がありませんm(_ _)m 自分を大切にするという言葉は けして自分が可愛くて仕方ないというものではないと言うのは分かります 言葉と言うものはこのように書きますと 誰がどう受け止めるか分からない 誤解され易いものになります。 あとはその人がどう受け止めてくれるか。相手に伝わると信じて送り出すしかありません。 自分を愛せない人は、他人も愛せない。という言葉は よく言われる、聞いた言葉なので それを皆さんはどの様に受け取ってるのでしょうかという質問でした。 どうもありがとうございます。。
あなたは愛情を一つにくくってますか? 人間を一つに括ることは不可能です。 哲学とするのはちがう。 愛情や死を哲学とするのは ちがうのではないですか。 思想は自由、死にかたも自由、 ただ、他人に問うときに哲学と すべきではない。 愛情のかたちや愛しかたはちがう。 与えてもかえって来るとは限らない。 それでも人は人を愛してしまう。
お礼
愛という事ですから 愛の種類は置くとして 自分を大切にできるか という事だと思うのです。 私はあまり自分を大切にしないので 質問のような言葉が気にかかるのです。 自分を大切にする人は他人も大切にできる。自分を大切にしない人は 他人も大切にできない。 と読み替えて頂ければありがたいのですが。 愛という言葉を軽々に使ったことはそぐわなかったかもしれませんが 私も愛を知らない訳ではないのです。どうもありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ (No.5お礼欄) 子供を助けようとする母親は 自分のことよりも強く子供の事を思っていると思います。 ☆ 自由ですが それなら 動物と変わりません。 羊飼いの飼う犬は 羊たちを命を賭けて守ります。飼い主の幼児らをも命を張って狼の襲撃から守ります。 あなたの愛は 本能のことを言っているに過ぎません。 ★ 理屈では子供の事を思うのも自分の為だとか言えますが それならよその子の為にそれが出来るかと言うと それは否です。 ☆ そんなことを言っていません。自分を愛するなら ほかの人も自分を愛するであろう だからもし自分に余力があるなら そのほかの人のことをも自分のこととして愛するように考え振る舞おうとなります。 ★ よその子の為にそれ(犠牲となっての守護・保護)が出来るかと言うと それは否です。 ☆ というのなら ますます動物の本能と同じような振る舞いでしかありません。(それがわるいと言うのではなく それだけでは人間の愛ではないであろうと)。 ★ 自分を愛するのは子供を生かすために自分を愛する 母性愛とはそういうものです。 ☆ どうでもよいことです。 ★ 子どもを生かす ☆ あるいは 人間が生きるようにするといったことは どういうことか? 何ら考えてもいないと推理します。ただ 世間でそういう言葉を使っているなと見てそれをここに持って来ただけの文章ではないかとうたがいます。 ★ 愛と言うのは 互を活かし合う事だと考えています。 ☆ 《活かし合う》とは どういうことか? 考えたことがありますか? 人間というものは ほどこしを受けることに抵抗を感じます。他人からの親切は 大きなお世話だと感じる人も少なくありません。《人を助ける》とは どういうことか? 考えたことないでしょう? ★ イエスの犠牲や 塩狩峠の犠牲 親の犠牲は 愛はエゴを超える、相手の為に死ねるという事だと思います。 ☆ イエスの行動は また別です。世間でそういうから ここに持って来ただけでしょう? 何も考えていないでしょう。茶飲み話ではないのですよ。 ★ 塩狩峠の犠牲 ☆ 人びとが助かったことは とうとい行ないによってだと言えますが 犠牲者本人は どうもどこかで命を捨てたかったといった疑いがかけられます。 ★ 相手の為に死ねる ☆ 他人に 自分のためにと言って死なれたら そんな迷惑なこともないですよ。気持ちわるいもんですよ。 何にも頼んでもいないのに 恩着せがましく死にやがってということにもなりかねません。いったい 人はおのおの自由意志にて生きています。他人の自由意志の中に入って行くのは 目的や動機がわるくなくても 気持ちのよいものではなく また ある種の暴力です。相手の意志を踏みにじることは これを暴力と言います。 ★ 僕もこの人の為には死んでもいいと思う人が居ます。妻子もありませんが、4人程います。 ☆ それは それも あなたの自由意志ですから こちらがそれを踏みにじることは出来ませんし しません。 ただし 思想として・考え方として人は自由に互いに批評し批判をしあってかまわない。 勝手にどうぞ。 ★ 男は女の為に死に 女は子供の為に死ぬ それで良いのではないでしょうか? ☆ よくありません。そう考えそうするのは 相手の承諾を得ていれば 自由だというだけの話です。《良い》のではありません。一般に哲学として《良い》と言うことは しません。 強いて言えば いのちを大切にしないやっちゃなぁ このバカタレが。とは言うでしょうね。 あなたは どだい愛を知りません。人間に まだ成っていない。 世間の流れに棹差して 多少はましなせりふを覚えてそれを使っているのみ。
お礼
そうですか・・・・・ それはそうと インタムライズム を考えたのはあなたでしたっけ? あれは 一体?何なんでしょうか?? どうもあり。
- eroero4649
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人類愛のような社会的な愛と、親子愛のような血縁に基づく愛と、宗教における愛のような観念的な愛と、おちんちんとおまんこが大いに関わる男女の性愛を、ぜーんぶひとっくくりにすることが無理があると思います。 これらすべてに対し我々は「愛」といっているけれど、これはそれぞれを差す単語がないからそういっているにすぎません。例えばアイヌ語ではリーダーを差す言葉が「酋長」しかないですから、大統領も総理大臣もCEOも将軍もぜんぶ同じ「酋長」になってしまいます。それみたいなことです。 他人を愛するというのは、人類愛のような社会的な愛の概念と、男女の性愛をひっくるめたものだと思います。そのためには、そういう意味では男女間であれ人類愛であれ社会との結びつきの中で表現される愛なわけですから、社会における自分というのが正しく愛せないと自分自身への認識を誤ってしまうことになりますから、正しく他人も愛せなくなると思います。 親子愛のようなケースは、自分のDNAを次世代に残したいという遺伝子の本能に基づいたものがありますから、分けて考えるべきでしょうね。
お礼
私は勉強不足というか経験不足もあって >社会における自分というのが正しく愛せないと と言うのがよく分からないですねえ。正しく愛する とは?どの様な? しかし 社会的な愛と血縁の愛と観念的な愛と男女愛を一緒に論じるのは 確かに分かりにくいだろうと思います。 私の質問分の 自分を愛せない人は・・・ はどれなんでしょうか? 自己愛 ご自愛 ナルシスト エゴ 心理学的にはどうなのでしょうか?? 愛は僕はあまり考えて来ませんでしたねえ どうも大変ありがとうございます。☆
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お礼
お話はよく分かりました。おそらくそのよな話だとお思っていました。 が しかし。子供を持った母親が 自分はいいからあなたがお食べなさいと 終戦後食べ物のない中 必死で子供を育ててきたその愛。今でもそうです 子供のためには多くの母親は死をも厭わないでしょう 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神も利他の精神への希求が述べられています。 私も小学校の頃からそのままを目指しましたので 自分を勘定に入れずに 自分が嫌いになりました。 今生きてるのは もしかしたら自分が考えたことが世の中に役に立つかも知れないと 思う一心から生きてる訳ですが。それがないなら死んでしまいたいと思っています。 私の様な無為徒食の役立たずが生きてる資格はないと思っています。 確かに自分を愛した経験のないものはいないと思いますが その経験で「ああ ひもじいだろう これをおたべ」と言って子供を育ててきたのが 母親と言うものではないでしょうか? 自己愛はあるでしょう 僕もあります。しかしそれを越える没我愛によって 自己否定が強すぎて 時々自分を殺そうとするのが間違いです 自分を殺してしまったら何の役にも立ちません。まあ役には立ってませんが実際。 わしもみんなの役に立ちたいんじゃよ ゴホゴホ ゴッホゴッホゴッホッホッホッホ・・・ ダメじゃねえかじ様 寝てないと・・・ と言う感じでしょうか(^^ゞ どうも大変ありがとうございます。^^