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頼朝の挙兵について
以仁王の挙兵で仕方なく挙兵したようにいわれていますが、 なぜ妻の実家の北条家は頼朝に付いていったのでしょうか?
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>以仁王の挙兵で仕方なく挙兵したようにいわれていますが、 なぜ妻の実家の北条家は頼朝に付いていったのでしょうか? 推測の域を出ませんが、挙兵当時には以仁王の挙兵自体は実質失敗していたので、一つの切っ掛け、大義名分と言う意味で導火線には成ったが、北条時政の挙兵に対する実際の動機・モチベーションは<順不同> ◇政子の頼朝への思慕から、平家からの監督不十分や源氏との姻戚関係に対する非難責めを覚悟しての窮鼠猫を噛む心境,開き直りのバクチ ◇周囲の平家への怨嗟や民心離反の中で、低位の田舎御家人暮らしから、貴種(源氏の嫡流・長子)を得ての一旗揚げる打算と出世欲。 ◇関東の中での小競り合いの中で、頼朝を担ぎ旗印や名目を狙い所領を拡大を便乗して得ようとしていたのが、関東の源氏一門の参集や平家一門でも不平不満の一族が加わり、北条家の思惑や予測を超えて全国規模の天下の覇権争いに変化して行った。 ◇子供(義時・政子)たちの頼朝への同調からの流れで消極的だが合力。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF
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- titelist1
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頼朝についていったのではなく、関東武士団が頼朝を担いだのです。北条も最初は平家の清盛が怖かったはずです。 北条家ではないが、頼朝の最初の子は平家を恐れて当主によって殺されている。 以仁王の令旨の存在が大きかった。清盛の孫である安徳天皇を認めず、新皇を名乗った以仁王は関東武士から見ると天皇も同じであった。だから北条家は逃げずに頼朝を担いだ。だから以仁王が宇治の合戦で死んでいるが関東では隠されていた。
- jkpawapuro
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あれは東国(関東)武士が都からの支配から逃れて独立するための挙兵です。 そのために棟梁(リーダー)として頂いたのが頼朝ってだけです。 清和源氏ってのは由緒正しき清和天皇の子孫ですからね。 源氏の嫡流でも平家の嫡流でも親王でも偉い血筋を傀儡にたてられればなんでもよかったんです。
- あずき なな(@azuki-7)
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北条は平氏ですから 頼朝に付いて平家が滅びれば実権を握れると踏んだのです だから邪魔な平家を義経に処分させて 用が済んだら義経も葬り 最後は頼朝、頼家、実朝も葬って実権を握ったのです
- Key_A
- ベストアンサー率9% (55/603)
反対です。頼朝は神輿に過ぎません。バックボーンが北条家なのです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF
お礼
回答くださった方々、ありがとうございました。